最近、Amazonプラスで1969年当時の「サザエさん」をやっており、差別用語がてんこ盛りで放送できないレベルなのだという。
【義手と義足の昭和史】義肢研究所、内幸町から中目黒に移転(S13.11.29)
【義手と義足の昭和史】昭和13年の文芸面から(S13.10.4)
先日行ったしょうけい館(傷痍軍人史料館)では、日本で最も有名な傷痍軍人として水木しげるの名前を挙げた。
事実、郷里の鳥取県境港市には水木しげるの顕彰碑があり、町おこしにはゲゲゲの鬼太郎が使われている。ついでにアニメでは猫娘も昔の面影ない程萌え化されてしまった。(それが良い悪いの話は触れない)
【義手と義足の昭和史】産業傷兵よりも気になる軍需工員のブラック体質(S13.8.8)
昭和13年、盧溝橋事件で始まった日中戦争は泥沼の様相を呈していく。
そして4月1日、国家総動員法が公布される。
【義手と義足の昭和史】義手の戦闘機パイロット(S13.8.4)
3日前は「飛行機の日」だったそうな・・・
12月17日は【#飛行機の日】
1903(明治36)年、ウィルバー&オーヴィルの #ライト兄弟 がアメリカ・ノースカロライナ州のキティホークで、動力飛行機ライトフライヤー号の有人初飛行に成功。ライトフライヤー号は、現在、スミソニアン国立航空宇宙博物館に展示されている。
写真:AP/アフロ pic.twitter.com/P6MSgE9K18
— 婦人画報 FUJINGAHO (@fujingahojp) 2018年12月16日
その日は会社の忘年会で何をやる暇もなかったようである。
【義手と義足の昭和史】義足公使と隻眼提督(S8.4.6)
去る11月27日に紹介した「上海南駅の赤ん坊」の写真は、日本でもネトウヨ業界で特に有名だったようで、「反日的捏造」の象徴にすらなっているようである。
2018年にトランプの悪イメージを拡散したのが「TIME」誌なら、81年前の昭和12年(1937)の米国「LIFE」誌10月4日号に上海南駅で日本軍の爆撃で泣き叫ぶ赤ん坊の写真が掲載。これら第二次上海事変のプロパガンダ写真の数々が米国民の反日感情を煽り対日戦争を用意した。この写真は演出されて撮影された pic.twitter.com/fd0F9PcFxw
— 西村幸祐 (@kohyu1952) 2018年6月24日
【義手と義足の昭和史】御前講演の栄に浴す(S2.7.1)
昔の学制では、現在の防衛大学校に該当する学校として「陸軍士官学校」「海軍兵学校」があった(ただし現在の防大と直接の接続はない)。
そしてその上に「陸軍大学校」「海軍大学校」という現在の自衛隊で言う幹候学校みたいなのがあり、その陸大を首席で卒業すると、畏くも天皇陛下の前で講演を行う「御前講演」を行うのが通例であったようである。
下村定中尉の御前講演。マルヌの会戦の経過とその分析。
有名なタクシーによる兵員輸送にも言及。
末尾で日露戦争で只管突撃を繰り返した当時に触れつつ、数の上で優勢だった仏軍が敢えて退却を決断した点を肯定的に評価しているのが興味深い。 pic.twitter.com/Ehe5DrkRxd
— 退役 (@Schlieffen_Plan) 2015年12月8日
【義手と義足の昭和史】昭和13年のtriple(S13.3.3)
四肢のうち三肢までが無いという「triple」で最も有名なのは、エクアドルのVictoria Salcedoさんじゃないだろうか。
【義手と義足の昭和史】犬クンの義足(S13.3.13)
「義手と義足の昭和史」前回で紹介した盧溝橋事件の1か月後。
今度は上海で戦闘状態が勃発した。これが「第二次上海事変」である。
これは「LIFE」誌の1937年10月4日号に掲載された「上海南駅の赤ん坊」という有名な写真であるという。
日本軍の爆撃により一人上海南駅に投げ出され、大火傷を負った赤ん坊。
Wikipediaによれば、以下のような状況であったという。
午後4時、16機の日本軍の飛行機が来襲し、空襲によって上海南駅で杭州行きの列車を待っていた市民たちが多く死傷した。王小亭は急いで彼の車で廃墟となった上海南駅に駆け付けた。彼が駅についたときの惨状と混乱を、彼はこう語っている。
「それはひどいありさまでした。人々はまだ起き上がろうとしていました。死者や負傷者が線路やプラットホームを越えて散らばっていました。手足がそこらじゅうにありました。私の仕事だけが見たものを忘れさせてくれました。ふと、私の靴が血で浸されているのに気付き、私は映写機の再装填をやめました。線路まで歩いていき、頭上の燃えている橋を背景に長回しのシーンを撮りました。そこで線路から赤ん坊を拾い上げプラットホームに運んでいる男性を見つけました。彼は別の酷く傷ついた子供のところに戻って行きました。その母親は線路で死んで横たわっていました。私がこの悲劇を映画に撮っているときに、飛行機が戻ってくる音が聞こえました。即座に残った映画フィルムで赤ん坊を撮影しました。私は赤ん坊を安全なところへ運ぶために走って行きましたが、そのとき赤ん坊の父親が帰ってきました。爆撃機が頭上を横切りました。爆弾は落ちてきませんでした。」。
やけどを負い、けがをして泣く赤ん坊の名前も性別も、この後生き残ったのかも不明のままである。
いずれ、この写真は、アメリカの中国への同情と、反日感情をあおることになったのだという。
ちなみに、この当時の上海南駅は、現在杭州への高速鉄道が発着する上海南駅とは全く別の場所にあり、上海軌道交通4号線の「西蔵南路」と「南浦大橋」の間ぐらいにあったのだという。現在の上海南駅は、上海市街の南の外れ。
【義手と義足の昭和史】西洋は見た目重視、日本は機能重視!(キリッ(S12.8.27)
昭和8年「我が代表堂々退場す」の時は、中華民国は満州非承認の急先鋒であり、なおかつ中国大陸では局地的な戦闘が勃発していたとは言うものの、全面的な戦争に至っているというわけではなかった。
その舞台となった盧溝橋の歴史は非常に古いく、金代の1192年に完成している。
そして13世紀に「東方見聞録」をものしたマルコ・ポーロは、この盧溝橋を「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と表現したというほどの橋である。
爾来七百幾星霜、科挙に赴く受験生が渡ったかもしれないし、宦官が渡ったかもしれない。
そして元代、明代、清代ときて中華民国の時代となり、中国も外圧という形ではあり、非常な痛みを伴いつつも近代国家の道を歩んでいくことになる。
中華民国になって26年目、すなわち民国26年7月7日の晩、謎の発砲が起きる。
日本軍はこれを中国兵の仕業であると難詰した。
このいざこざは思いのほか大規模な戦闘に発展することになった。
これが日中戦争の始まりである。
【義手と義足の昭和史】我が代表堂々退場した頃(S8.12.13)
昭和8年2月24日、スイスはジュネーブで行われた国際聯盟総会にて。
リットン調査団の報告書に基づいた対日勧告書(満州国を国家承認せず、国際管理下に置くこと)が賛成42、反対1、棄権1の圧倒的多数で採択されると、大日本帝国の全権代表として出席していた松岡洋右は憤然として退場、翌25日の東京朝日新聞では「我が代表堂々退場す」という今日残る名文句の見出しで報じられることとなった。
ところで、この見出しでは「聯盟よさらば!」とあるが、国際聯盟の脱退を政府として決定したのは3月8日、それを国際聯盟に通告したのは27日であるという。
当方としても現在話題となっている百田某同様、Wikipediaで見る以上の近代史に関する知識は持ち合わせていないのだが、この後の日本の国際的孤立を象徴する出来事となったこの「堂々退場す」にしても、その前段階の「十字架上の日本」という、日本の立場を述べた英語の演説は、松岡のその英語力が英仏など各国の代表に好評ではあったという。
【義手と義足の昭和史】もう一つの南京事件(S2.7.9)
現在、Twitterで「南京事件」で検索して最もいいねやRTが多いのは、安田峰俊氏のこのツイートではないだろうか。
実習生問題 →慰安婦問題も官民ごちゃごちゃしながら人権侵害的なことしてたんやろなあ
入管収容問題 →南京事件も現場の人が「職務に忠実」やったんやろなあ
と、日本の歴史問題が割と事実らしいことが体感的に判明してしまうので、当局は歴史の隠蔽のためには至急目前の問題を解決する必要がある
— 安田峰俊『さいはての中国』『八九六四』好評発売中 (@YSD0118) 2018年11月22日
【義手と義足の昭和史】昭和元年の義手(T15.6.29)
平成も残すところあと少し・・・
洞口さんほんま草
コラボしてくれ〜
前進チャンネル特別編「質問コーナー(前編)」 https://t.co/Fga0LumV09 @YouTubeより pic.twitter.com/T8nqaRlGix
— えらてんチャンネル@12/16著書発売10万部売る (@eraitencho) 2018年9月13日
新小岩の奇跡・【義手と義足の昭和史】片足切断を悲観し娘を絞殺(昭和31年)
米軍基地が隣にある生活。それは危険そのもの。
であるからこそ、先の沖縄県知事選においてもやはり争点は米軍基地の辺野古移転であり、佐喜眞票の多かった宜野湾市においても普天間基地を擁しており「佐喜眞に投票すれば普天間基地が出て行ってくれるから」という点では変わりないであろう。
沖縄の民意が示されても政府は「辺野古が唯一の解決策」を繰り返すだけ。情勢が激変する中、辺野古への固執が、日本沖縄にとって得策か
NYT「日本で最も貧しい市民に不公平で危険な負担押し付けることできない。首相と米軍司令官は解決策見いだすべき」日刊ゲンダイ https://t.co/LoMbgf4eFk
— 望月衣塑子 (@ISOKO_MOCHIZUKI) 2018年10月4日
【義手と義足の昭和史】戦火のサイゴンから(1967.11.1)
先日、田中伊三次法相の一挙23人死刑関係のニュースを調べている時の拾い物。
当時、日本ではベトナム戦争に関するニュースが盛んに報じられていたようである。
昭和30年代生まれの人によれば「国道1号線」「17度線」などという単語がテレビで盛んに報じられていたのだそうな。
ベトナム戦争(1960~75年)
共産主義の北ベトナムと反共産主義の南ベトナムによる統一戦争。
PFLPと日本赤軍は「ベトナム人民との連帯」を目指しており、74年には南ベトナム軍に石油を供給したとしてシェル精油所爆破事件を起こす。 pic.twitter.com/kiP3RnRPpc— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) 2018年3月12日