【義手と義足の昭和史】義肢研究所、内幸町から中目黒に移転(S13.11.29)

23日の欠損バーでは琴音ちゃんに「よっぽど(義手義足)好きなんですね」と言われる始末・・・

今回の「義手と義足の昭和史」も「よっぽどの義足愛」の炸裂したものにしたい。

昭和13年11月17日の東京朝日新聞の2面で最も大きく掲載されているのは、中国戦線の武昌~咸寧87kmの一番列車の乗車記録である。

粤漢線は今でこそ中国の大動脈・京広線の一部となっているが、最初の区間である広州~韶関の開通は中華民国成立後の1916年であり、それも自力で開通にこぎつけることはできず、英仏独の借款によってようやく開通したものである。そして中独協定により全通したのが1934年のことである・・・とWikipediaには書いており、この新聞記事にあるように「日本の不眠の努力」の影はまるで見当たらない。
にもかかわらずこの記事は何なのだろう。戦時下の「日本スゴイ」記事?

ちなみに、この路線を経営した鉄道会社がどこかということについては全く触れられていない。
この近くであれば、上海~南京あたりは「華中鉄道」であり、日本の鉄道省の技術者が多く送り込まれ、9600やC51などが標準機(1435mm)に改軌されて多く送り込まれたという。
記事の中の「快速日本列車」とはどのようなものだったのか、興味深い所ではある。

・・・そんなことは今回では主だったトピックではなく、左下に小さく「義肢研究所 新所屋成る」という見出しの記事が本エントリにおける本題となる。
曰く「財団法人義肢研究所は目黒区中目黒2-578に近代科学の粋を集め、29日に大阪ビル内の事務所から此処に移すことになり面目を一新、手や足を失った白衣の勇士たちのために一層活発に発動を続ける」という記事である。

ちなみに、現在南千住にある鉄道弘済会義肢装具サポートセンターの沿革によれば、義肢研究所とは、以下のような沿革があったようである。

商工省が石炭鉱業連合会・三井・三菱・住友・満鉄・日本製鉄等の基金出資により昭和12年4月に目黒区中目黒に設立し、その後、昭和20年3月に国有鉄道が継承していた。

中目黒に複数の公的な義肢装具研究機関があったとは考えにくい(もしそうであれば、その機関との関係性も新聞記事中で触れられるだろう)ので、同じ機関であろうと考えられる。
ちなみに、拙ブログでも「内幸町大阪ビル内の義肢研究所」については、以下のエントリでも触れられている。

上記エントリの中の記事を読む限りでは、義肢研究所は、以下の沿革であるとするのが正しいようである。

  • 昭和12年4月 内幸町大阪ビル内に設立
  • 昭和13年11月29日 中目黒に移転

移転翌日となる11月30日の東京朝日新聞でもこの件について触れられており、右下の囲み記事に「義肢研究所移転」という見出しで「大阪ビル内の旧事務所から目黒区中目黒2-270の新研究所に移転、12月1日を期して開所」という記事となっている。

あれ? 11月13日の記事では「中目黒2-578」じゃなかった・・・?
この辺りがあいまいになっている。

時は下って昭和39年10月の学術誌「看護教育 1964年10月号」における、同研究所の見学記事が投稿されているが、ここには「目黒区中目黒2-570」とある。前2者と全くバラバラで、ますますわからなくなってきた。

では一体、どれが本物なのだろう?
国立国会図書館の地図室にでも行って調べれば一発かも知れないが、とりあえずネットで調べて分かる範囲で調べてみたいと思う。
毎日新聞の「昭和毎日」に、昭和30年代の東京の地図が載っている。

当時は「住居表示に関する法律」(昭和37年5月10日法律第119号)施行前で、現在の住居表示とは違う。
中目黒2丁目に関して一番若い441番地(水色)から、最も大きい645番地(赤)までを並べてみると、下の図のような順番となり、もう何が何だか分からない状態となる。

昭和13年11月30日の東京朝日にある「2-270」というのは無いので問題外として、では「2-570」(看護教育1964.10)なのか「2-578」(東京朝日S13.11.17)なのか・・・
ちょっともうネット上では分かりかねるので、上図の573~575番地あたりにあったのかもしれない、という事で当たりを付けて行ってみたいと思う。

内幸町にあった大阪ビルとは、昭和2年(1927年)7月の竣工になる壮麗な近代建築であり、鬼面・獣面の100個以上のテラコッタが特徴的であったが、1号館が昭和61年、2号館が平成3年に解体され現存しない。

ありし日の大阪ビルの威容については、以下のブログに詳しいので参照ありたい。

しかし現在は「日比谷ダイビル」として当時のテラコッタが保存されて同地で盛業中となっている。
決死モデル:チームWBナギサヤ

そして次は中目黒ナカメの義肢研究所跡地と思しきところに行ってみたいと思う。

都営三田線の内幸町と言わず日比谷線の日比谷あるいは霞が関からであれば、中目黒ナカメは日比谷線で一本となる。

中目黒ナカメに到着したら、向かいのホームの元町・中華街行きが西武6000系がだった・・・というのは時代の変化を感じさせる。
決死モデル:チームP芳香ちゃん

ここからしばし、義肢研究所(と思しきところ)まで歩くこととしたい。

ところで、この界隈は閑静な高級住宅地ではあるものの、やたら坂が多い。
こんな所を義足ユーザーに歩かせたのだろうか? ちょっと酷ではないだろうか。バリアフリーなんて影も形も無かった時代であろうとはいえ、少しひどくない?

そしてたどり着いた中目黒2-573~575と思しき当たりがこの辺り。
すぐ先の交差点から左に折れると急な下り坂になっているというところからも、この辺りの急峻な地形が分かろうというもの。

戦後の義肢研究所の事情については、1984年に日本義肢装具研究会会報に投稿された一文にて触れられている。

曰く、

既に建物は老朽化し、2名の義肢研究員と数名の事務職員がおり、かつては水町四郎先生が所長を兼務されたことのある施設である。その当時、学術的研究は大学その他に委嘱して行われていたらしい。
私はこの施設を担当し、現有の設備と陣容とで何が出来るか戸惑った。科学技術庁の定める学術研究所の規範には到底及びもつかないものであったが、併設の義肢装具製作所に協力し、特異なケ―スや近代義肢技術の導入、関係職員の教育、労働省委託研究の実施、義肢関係文献の紹介等を行った。

また、この中目黒の施設から東中野(北新宿)の身体障害者福祉センターへの経緯は、以下のように触れられている。

鉄道弘済会の東京義肢研究所と東京義肢装具製作所は東京都目黒区中目黒にあり、土地、建物とも国鉄の財産であるが既に老朽化し、しかも周辺の交通機関から不便なところにあり、国鉄に返還し移転するようにせまられていた。一方、東中野(現在の北新宿)にある鉄道弘済会東京身体障害者更生指導所は、昭和30年代初期に、国鉄職員障害者と国鉄職員家族の職業訓練(所内または所外委託)を目的として国鉄用地に鉄道弘済会の予算で設立された施設であったが、昭和30年代後半から昭和40年代の好景気によって、国鉄障害者の社会復帰が容易となり、この施設を利用するものの数が著しく減じ2~3の重度障害者が沈澱するだけでリハビリテーションの効果を挙げることが出来ず、施設としての再活用が考慮されていた。この場所は国鉄中央、総武線の線路際にあり、極めて騒音に悩まされていたが、周辺の交通は障害者にとっては誠に便利なところにあった。いろいろと反対論もあったようであるが、今迄の身体障害者関係施設を再統合して、鉄道弘済会の所有する身障福祉関係の入的資源と経験を活用し、一部職員の再教育を行ない、東中野の更生指導所を増改築し、より近代的な真の意味で身障者の福祉に貢献できる施設とし、昭和44年5月1日、鉄道弘済会東京身体障害者福祉センターとして従来の義肢製作業務以外に切断者クリニックを開始した。

 

ああ・・・ やっぱり「交通の不便さ」は指摘されてたのね。

ちなみに、上記の「東中野(北新宿)」の跡地に関しては、拙ブログでも以下のエントリで触れている。

 

 

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