昭和30年の脱獄事件

瀬戸内の脱獄事件はついに2週間が経過し、まだ見つかっていない様子。
よくもまあここまで逃走できるものである。

さて、今回の「事件現場を歩く」は、昭和30年の脱獄事件について触れたい。

昭和30年5月12日の朝、小菅拘置所から死刑囚が脱走したことが、すでにその日の朝日新聞の夕刊で報じられている。
舎房の鉄格子がどうやって持ち込んだのかノコギリで切られ、「暫日の命をお許しください」という書置きと共に脱獄したのだという。

東京で発生したこの事件以上に紙面で大きく報じられているのは、遠く瀬戸内海で発生した宇高連絡船紫雲丸の事故である。
5月11日、高松を出た紫雲丸は、折からの霧で方向を誤っているうちに、向こうから来た第三宇高丸と衝突し、修学旅行の児童ら168名が死亡したという、国鉄史上例を見ない大惨事として知られることとなる。特に広島県木江町立南小学校では修学旅行の22名の児童、3名の教員が死亡しており、木江町内の他の学校と合併した現在でも、木江小学校のホームページにそのことが書いてある。
ちなみに、大写しで写っている写真はその衝突相手である第三宇高丸に乗っていたアマチュアカメラマンが撮影したものであるが、後日「撮ってる暇があるなら救助しろ」と物議を醸したという。

さて、その後死刑囚はどうなったか。

死刑囚ではあるものの親思いであり妹思いで知られていたので、生家である栃木県に行くのではないかということはすぐに予想され、栃木へ向かう東武線や東北本線を重点に非常線が張られることになる。

特に出身地の市貝村(現:市貝町)は恐怖のドン底に叩き落されることになる。
なにしろ、村で一家4人を殺した死刑囚が村に戻ってくるというのである。
村に残っている家族は村八分同然になっており、「仕返し」される覚えは十分にある。
奇しくも、これが読売新聞の栃木版で報じられた昭和30年5月13日は金曜日であり、文字通りの「13日の金曜日」となった。

脱走した死刑囚であるが、週が明けて16日になっても見つかる気配はない。
この日の読売栃木版では、捜査本部が警視庁管轄に切り替えられた旨が報じられている。
どこから警視庁に切り替えれたのかというと、小菅拘置所そのものである。

刑務所や拘置所も捜査権や逮捕権・・・つまり司法警察権を持つということが、「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」によって定められている。

第二百九十条 刑事施設の長は、刑事施設における犯罪(労役場及び監置場における犯罪を含む。次項において同じ。)について、刑事訴訟法の規定による司法警察員としての職務を行う。
2 刑事施設の職員(刑事施設の長を除く。)であって、刑事施設の長がその刑事施設の所在地を管轄する地方裁判所に対応する検察庁の検事正と協議をして指名したものは、刑事施設における犯罪について、法務大臣の定めるところにより、刑事訴訟法の規定による司法警察職員としての職務を行う。

ではその「法務大臣の定めるところ」が具体的にどの規定や訓令になるかまでは見つけきれなかったが、ともかくも刑務官が司法警察権を持つのは、刑務所の中と、受刑者の逃走後48時間以内であるということが定められているようである。

後で分かったことであるが、この事件では、この「逃走後48時間以内」ということも重要な意味を成してくる。
脱走したのは「朝に引き継ぎ時間の警備が手薄になる間を突いて」と最初は報告されていたのが、実は深夜だったというのである。
拘置所側の怠慢で脱獄がばれるとかっこ悪いので、「朝の引継ぎ時に・・・」ということになったらしい。
この事が、警察による初動捜査を遅らせる原因にもなったともいわれる。

さて、この紙面で最も大きく報じられているのは第25回栃木県陸上競技選手権と、日本体操まつり栃木県中央大会である。
体操は屋外で行われていたようで、この頃からレオタードは使われていたようである。

さて、脱獄した死刑囚の行方は一週間が経とうとしても杳として分からない。
そこへ新事実が飛び込んできた。

5月18日の下野新聞で報じられているところでは、上野発仙台行きの夜行普通列車の車掌(所属は仙台車掌区)が、「小金井あたりで検札した無札の客が実はその死刑囚だったのではないか。彼は石橋~雀宮で見失った」というのである。
このことでいよいよ、「栃木県潜入は確実」ということになった。
捜査の重点は宇都宮・石橋・市貝村を結ぶ線の中に絞られることになった。
また、雀宮駅近くの農家では、死刑囚に似た男が「飯を食わせてくれ。今から日光のダム工事に行く」と言ってうどんを食べていったという報告も寄せられている。

ところで、下野新聞では宇都宮を「宮」「宮市」と呼んでいるようである。
紀伊民報が和歌山市を「和市」、南日本新聞が鹿児島県を「鹿県」と呼ぶようなものであろうか。

その5月18日、死刑囚の逃走を手伝って先に市貝村の実家に帰っていた実兄が逮捕される。

この脱走事件自体、実兄がかなりの部分で大きな役割を果たしている。
殺人事件を起こしてから、村では家族が村八分同然に暮らしていることを手紙で知らせ、格子を切るための金鋸を雑誌に隠して差し入れたのも兄である。

そして20日に報道されたところによれば、宇都宮市内で死刑囚と会ったという。これが本当かどうかについて、警察が推測したところでは、「嘘の供述で混乱させるほど、弟である死刑囚を親身には思っていないはず。だから本当ではないか」とのこと。
それにしても、捜査の手の内をここまで新聞で大っぴらにして、犯人が逃走しやすくなる等は考えなかったのだろうか。
ちなみに、誘拐事件に関してはこの5年後の昭和35年、雅樹ちゃん事件で「殺したのは新聞やラジオで報道されたことで追い詰められたから」ということを受け、犯人が逮捕されるか被害者の死亡が確認されるまでは、報道を行わないという報道協定ができている。
その報道協定を最初に適用したのが、昭和38年の「吉展ちゃん事件」である。

そのような歴史の積み重ねができる前の報道というのは、よくこんなのが報道できるもんだな・・・というのがあまりにも多い。

さて、翌21日になると、実兄の供述がより詳しく報道され、逃走経路が明らかになる。

弟である死刑囚と会った「宇都宮の某所」というのは、西川田にある県営グランドであった。
この西川田の県営グランドで草津節の口笛を兄が吹く。
それを頼りに弟が雑木林から出てきて再会となった。
そして兄だけが近くの西川田駅から東武宇都宮駅へ出てパンを買い、県営グランドに戻ってベンチで寝たのだという。
東武宇都宮駅が現在の百貨店になるのは昭和34年のこと。
それ以前の駅舎を検索してみてもすぐには出てこないが、古式ゆかしい駅舎が昭和20年にいったん焼失しているのだという。
戦後しばらくは、木造のシンプルな駅舎が建っていたのだろうか・・・?

その5月21日の深夜23時。

市貝村の死刑囚の実家に、
「起きろ!起きろ! 帰って来たぞ!」

そこには刑事も新聞記者も張り込んでいた。
つまりそれが「死刑囚ついに逮捕」の瞬間であった。

妹が寝巻のまま飛び出してきた。
「おふくろは?」
妹はただ泣くばかり。
「やっぱり死んだのか・・・」

「いや、元気だよ」と答えたのは刑事だった。
「それなら一目会わせてくれ」
「その前に飯を食え。後で会わせてやるから」と、用意していた握り飯を二ツ与えたのだという。
ここまで張り込んできた刑事もなかなかの人情派である。
今であれば「利益供与」などと新聞などに取り沙汰されるであろうが・・・

ともあれ、母親と今生の別れを果たした死刑囚は、タクシーで「宮」に引っ立てられて行った。

さて。
その脱走事件を偲ぶダーク・ツーリズムの始まりは何と言っても小菅拘置所からである。

小菅拘置所は、北千住から荒川を渡ってすぐの小菅駅のホームからでも見渡すことができる。
決モチームPウメコ

現在の建物は2003~2006年に完成したものであるが、構造としては真ん中から各舎を見渡すことができる放射方式は、旧庁舎や網走刑務所と変わる所がない。
北大の恵迪寮も同じ様式で、してみれば学生を囚人扱いしていたのだろうか・・・?

さて、実際に拘置所に行ってみることとしたい。
拘置所の正門は、小菅駅からそれほど歩かずに到達することはできるが「撮影禁止」と書いてある。
ここで文字通りの「決死撮影」を洒落込んでもいいが、余計なトラブルは避けたいのでやめておく。

拘置所の周囲は高い塀でおおわれており、容易に中を見ることはできない。
・・・が、その塀に所々、ビニール張りの隙間があるのである。まるで「ここから覗いてください」と言わんばかりに。
どのような目的でこのような隙間を作っているのかは分からないが、ここからありがたく撮影させてもらうことにする。
おそらくはかの死刑囚も伝って逃げたであろう中央の管理棟も残っており、「日本の近代建築20選」にも選定されているのだという。
さて、見るだけ見たら先を急ぐことにしたい。

昭和29年のカービン銃ギャング事件で死刑判決を受けた大津健一による著書『さらばわが友―実録・大物死刑囚たち』によれば、この死刑囚は、

小菅駅から越ヶ谷駅で乗換え、久喜駅で、十一日夜九時五十分上野発仙台行きの夜行列車に乗り換えた。

とのことである。

小菅から久喜へ行くのであれば、どこかしらで急行に乗り換えないといけないので、乗り換えるのであれば、その「越ヶ谷駅」で乗り換えてみよう。
決モチームWBナギサヤ

昔であれば地平のホームに7800系などが止まっていたであろうか。
今では、複々線化された高架線を、200系の特急「りょうもう」が追い抜いていく。そして追い抜かれる急行ははるばる神奈川の中央林間から乗り入れて来た東急のステンレスカー8500系。
伊勢崎線系統であれば久喜で、日光線系統であれば栗橋で東北本線に乗り換えることになるが、この事件では伊勢崎線の久喜で乗り換えたようである。
現在でも、伊勢崎線系統の方がやや本数は多いようである。

そして久喜に到着し、東北本線に乗り換える。
今や夜行列車など普通列車どころか特急や急行を含め1本も走っていない。
決死モデル:チームY間宮

今や湘南色のE231系ばかりの面白みのない路線である。
湘南色と言えば、この東北本線の上野口に80系が投入されたのは、昭和33年4月14日の宇都宮電化の翌年の昭和34年のことであるというから、この事件の当時は電化すらされていなかったということになる。
してみれば「仙台行きの夜行列車」も蒸気機関車牽引だったであろうか。
東北本線に充当されていたSLというとC61あたりであろうか。C62も配置されていたようではあるが、こちらは「青葉」「八甲田」あたりの急行運用に充当されていたと考えられる。

そのC61がけん引していたであろう夜行列車が雀宮に停車する直前、例の死刑囚は列車から飛び降り、西川田の県営グランドを目指したようである。

死刑囚と兄が雑誌に印をつけることなどを通じて行った秘密の通信では、もし脱獄に成功したら西川田の県営グランドで、草津節の口笛を合図に落ち合う計画だったようである。
この雀宮駅から県営運動公園へ向かう道は昔からの農道で区画整理されていない模様で、「若松原通り」と名付けられていた。
その若松原通りにも一応バスは走っているようであるが1時間に1本程度で、先へ行くにはどうも時間が合わないので歩いて行くことにする。

そして国道121号線を横切り、ピンク色の花が咲く丘のような公園に入る。
決モチームWB嵐山

・・・と、左足を盛大にひねり転倒してしまった。
激痛が走る。とてもこれ以上歩けない。もはやこれから市貝村に行くとか、それどころではない。さしものダーク・ツーリズムもここでおしまいである。
これは、捕まってすぐ仙台送りになって処刑された死刑囚の例がそうさせるのだろうか。
「もうそこら辺でよかっぺ」(cv. U字工事)という声が聞こえてきたような気がした。

ちなみにここは県営運動公園ではなく、「塚山古墳群」という古墳のようだった。
帰るにしても、一番近い東武宇都宮線の西川田駅まではいかなければいけない。

その西川田駅へ行くには、結局は県営運動公園を通ることになる。
死刑囚の兄は、正にここで草津節の口笛を吹きながら弟が来るのを待っていたのである。

先述の通り、県営運動公園には当時から売店があり、その地下室に兄弟で数日間寝泊まりしていたというので、現在のように遊園地としての機能もあったということなのだろうか。単なる陸上競技場に売店の設備まで要らないだろう。

ともあれ、今日すべきことは全部終え、後は帰宅することとしたい。

そして東武の西川田駅へ。
西川田の駅舎は、上下線の間に挟まった形となっている。
私鉄ではたまに見る形式であるが、そのホームというのがやたら広い。
決死モデル:チームR真夜

このサイズの大きさも東武らしさなのだろうか。
ちなみに、この駅舎には構内踏切があるわけではなく、地下道を通りて入ることになる。
1時間に2~3本しか来ない路線なので、構内踏切でもいいと思うのだが・・・

兎も角も、その1日2~3本、宇都宮~栃木を往復する電車に揺られて東武宇都宮へ。
決モチームTアンヌ

死刑囚の兄はこの駅の売店でパンを買い、弟に与えたのである。

ホームは1本で2線の頭端式ホームとなっているこの駅は、現在デパートの中にある。

夕食にするには少し早い時間でもあり、写真の整理とブログに掛かりたい。
ということで、駅の近くの喫茶店で諸々の作業を行う。

宇都宮と言えばやはり餃子ということで、夕食は餃子にしたい。
ところで、今回の決死旅行では、持ってきたこの衣装の左肩がどこかに落ちていたので、左向きのメンだけでつないできた。
今回はそんな苦労もあったのである。

さて、宇都宮がなぜ「餃子の町か」と言えば、1人当たりの餃子消費量が日本一だからということに過ぎない。べつに宇都宮に特別な餃子の製法があるとかそういうことではないようである。
そのせいでか、節操もなくチーズ餃子だの椎茸餃子だのと色々な種類の餃子がある。

その中で、シンプルな焼き餃子と水餃子を食べてからJRの宇都宮駅へ向かうこととしたい。

宇都宮から、80系の後裔であるE231系に乗って大宮に着くと、20:56の新習志野行き「しもうさ号」にちょうど接続した。
決死モデル:チームT美川

駅ナカの薬局で湿布を買って「しもうさ号」に乗ると、大して混んでいなかった。

しかしこの接続の良さは、やはり死刑囚の霊が「もうぇんなぇんな」(cv. U字工事)と言っているようでもあった。

 

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