67年前の今日、ゴールデン街の近くで

今日は待ちに待ったる欠損バー

前回の欠損バーの時もそうだったけど、欠損バーの前にまたぞろダークツーリズムをすることに・・・
拙ブログでは、その時の事件の後日譚である昭和30年小菅拘置所の脱獄事件についても触れたが、その脱獄で鉄格子を切断するのに使用した金鋸はどこで入手したか。

例の脱走事件は、脱走犯の兄が多大な役割を果たしていたことは先のエントリで述べた通りである。
凶器の入手も、やはりその兄が絡んでいた。

逮捕の翌々日、昭和30年5月23日の朝日新聞が報じたところによれば、脱走犯と兄はあぶり出しの暗号文で連絡を取っていたのだという。

あぶり出しか・・・ 自分自身も幼稚園の頃、ミカンの果汁でやったような気がする。
それにしても「あぶり出しなら囚人とやり取りできる」なんて簡単なものだったのだろうか。
だって、「あぶり出しで暗号通信しますよ」なんて書くはずもなく、そんなの書いたら刑務官にバレるのではないだろうか。
勘が強くないと脱獄もできないということか。

で、そのあぶり出しに至る雑誌のやり取りも手が込んでいて、別の死刑囚を使って兄が外から偽名でやり取りしていたのだという。

で、雑誌の背綴じの部分にのこぎりを忍び込ませたのだという。
「背綴じ」というのは、少年ジャンプやゼクシィのような分厚い雑誌の背表紙の部分である。
60年後の日本では、そんな背綴じのある婚活雑誌が女子プロレスの凶器にまでなっているが、そんな手の込んだやり方をやるとはなかなかのものである。

でまた、その受け取った死刑囚の言い方がとぼけている。
「そのころの友達から送られてきたもので、別に気にも留めずに同房の囚人に回し読みしていた。金鋸が入っていたなんて知らなかった」
今だったら別の囚人との交流など考えられないが、当時はそれができたのだ。
だからこそ「さらばわが友 実録・大物死刑囚たち」なんて本もできたのだ。

では、このすっとぼけた死刑囚は一体何をやらかして死刑囚となったか ―――

昭和26年(1951年)5月25日。
つまり67年前の今日、新宿区役所裏手の歌舞伎町旅館街にある繊維会社の役員の家で発生した。

役員一家は千葉の房総半島にある実家に墓参りに行っており、お手伝いさんが一人で留守番をしていた。
そこへ兇漢が押し入り、強盗殺人となったようである。
犯行時刻とみられる夜11時頃、銭湯帰りの学生などが同家からの悲鳴を聞いていた。
現場にはお茶が出されていたので、当初から顔見知りによる犯行であることが疑われた。

ほかのニュースに目を移すと、東大の五月祭で左翼の学生が「きけわだつみの像」を建てるの建てないので東大当局とひと悶着起こしている。
今年の五月祭は先日行っているが、ことこの事件においては、「学内での立像は学術功労者に限る」という建前を東大当局が使っているが、なにぶんにもサンフランシスコ講和条約発効前の「Occupied Japan」、進駐軍に忖度してこのようなことになったというのは想像に難くない。例えば広島や長崎の原爆に関する記事すらかけなかったような時代である。

また、そのほかのニュースでは、タイとの航空路線の一番気がやってきた旨のニュースが報じられている。
現在のタイ国際航空(TG)とは違う、POAS(タイ国太平洋航空)というキャリアだったようで、英語版Wikipediaを見る限りでは、1947年に設立されたが1951年にSiamese Airwaysと合併しタイ航空(現在のタイ国際航空(TG)とは別の国内線キャリアで、2レターコードはTH)を設立、1988年にタイ国際航空と合併したという歴史があるようである。
ちなみに、そのPOASとしての就航当時の機材はDC-4で、香港経由だったようである。

さて、歌舞伎町の強盗殺人についてであるが、墓参りから戻ったら女中が殺されていたというのだから驚かないはずがなかったであろう。

ただ、犯人の目星はついていたようである。
すなわち、付き合いのあった内で金に困っていた男。
その男は八王子に住んでいた。

名指しで犯人とされた男の談話も載っている。
曰く「疑われて迷惑」。
この時期はまさに朝鮮戦争の真っ最中である。
日本は、米軍が使うテントや軍服、軍用毛布の生産で「糸へん景気」が起こっており、この昭和26年の法人税上位はすべて繊維会社だったというほどだという。
日本が高度経済成長するのはかなり後の話、この頃はこんなモノカルチャー経済もまかり通っていたのだ。
しかしそんな糸へん景気も長くは続かず、倒産する機織ハタ屋も続出していたという。
名指しされて疑われた男も「ハタ屋は今みんな苦しいのだ」と言っている。

結局、この時点で逮捕にまで至ったようであるが、「容疑を否認している」状態であった。

容疑者が否認を続け、捜査陣をてこずらせていたこの事件も、自供により幕切れとなるのは6月3日の深夜であったという。

警視庁犯罪捜査記録 第2集 兇悪編」(成智英雄 1959)によれば、容疑者の拘留期限が切れるその日、警視庁捜査一課長は辞表を手に「今日の23:50まで捜査させてください」と願い出たのだという。

その日、容疑者と付き合いの深い親方が警察に申し出るには、
「あの男が逮捕されてからというもの、八王子の家族が寂しいから家に泊まってくれという。その布団で寝ると血まみれの女の夢ばかり見る。布団がほつれたところからのぞくと、血の付いた背広が縫い込まれていたので布団を変えたらやっと眠ることができた。まるであの家は亡霊屋敷だ」

そんな因縁話めいたところから事件解決の糸口になる物証が出てきたのだという。
最大限、科学的(?)に理解しようとすれば、本質的に人間の血の匂いや死臭は、何らかの本能的な恐怖を呼び起こすという事だろうか。

新聞で「アプレ紳士」と決めつけられたこの犯人、一時期は社長も務めていただけあって、人間的には社交的であったようである。
拙ブログでも取り上げた元町小学校学童殺害事件の21歳の犯人に対しても、ウザ絡みして事件の真相を聞き出したりと、なかなかのウザい助平オヤジぶりだったようである。

ともあれ、今日の「事件現場を歩く」は、その歌舞伎町 ――― つまりゴールデン街に近い場所となる。

惨劇の舞台となった新宿区役所の裏手の路地は、今や旅館街の面影はほとんど失せ、キャバ嬢のドレスを売る店だったり、ホストクラブだったりと、現在誰もが知る「歌舞伎町」となってしまっている。
決死モデル:チームTエリー

それでも、昔のたたずまいを残す料亭が残っていたりもする。
それにしてもこの街を徘徊しているのは目つきの悪そうな男ばかりで、写真を撮影するのも難儀する雰囲気である。
かつて発生した陰惨な事件すらも昭和史の彼方に吹き飛ばすように、この町は生き続けていくに違いないのだ。

歌舞伎町と言えば、平成13年9月1日に、死者44名を出した歌舞伎町ビル火災も発生している。

この事件はビルの3階の雀荘で16名、4階のセクシーパブで28名はが死亡した。
放火とみられているが未だ犯人は捕まっていないという事件である。

現在の跡地は、両隣が雑居ビルであるのに対してぽっかりと穴が開いたような平屋の韓国料理店が入っている。
現在流行りのチーズタッカルビも売っている店のようである。
やはり、ここでも陰惨な事件の面影を、外から来た人々がかき消すように活力的に営業していた。

実際、入ってみるとチーズタッカルビの他にもポンテギ(蚕のさなぎ)なんてディープのも売っている。
なかなか気合の入った本場韓国料理店のようである。

さすがにポンテギは食べられなかったが、キムチチゲを頼んでみた。
トゥッペギ(器)が小ぶりだったのは気になったが、クッパにして食べるコンギパプ(白飯)は大盛にしてくれたのでありがたかった。
また来てみたいと思わせるような店だったのでお勧めです。

あとは、さっきの現場近くのルノワールでプールに関するエントリーを書き上げ、あとはいい時間になったら欠損バーに赴くだけ ―――

あ、車椅子がある。あの人も来てるんだ。

今日は琴音ちゃんファン歓喜の日である。

 

関連するエントリ(とシステム側で自動的に判断したもの)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です