事件の現場は東大

5月18~19日は東大で五月祭が開催される。

東大構内に部外者が入れる数少ない機会となるので、これを機に「事件現場を歩く」で「東大が事件現場になった事件」の現場を歩いてみようか。

昭和27年2月20日、東大法文経25番教室で劇団ポポロが一般人300名を集め、小林多喜二祭を行っていた。
そこに入っていた私服警官3名を、会場の観客が「スパイだ」と袋叩きにして、警察手帳を奪ったのである。
しかしこの記事は、後年「東大ポポロ座事件」として学内自治に関する大きな事件になる割には、真ん中あたりに1段だけで触れられているという小さな扱いである。

ちなみに「ポポロ」(popolo)とは、イタリア語で「市民」という意味で、英語であれば「people」ではないかと推測するのは易しい。
ちなみに、ローマにも「ポポロ広場」がある。

その記事の隣の隣には、ポポロ座事件よりやや大きな扱いで「ジープ再検証 千住ギャングの目撃者」という記事がある。
富士銀行千住支店でギャング事件があったのだが、それに関与したと思しき米兵数名と日本人数名のジープの話が書いてある。栃木一家4人殺しの項でも触れたが、目撃者の実名が書いてあるのは、今考えれば恐ろしいことではある。例えば犯罪グループがこの記事を読んで、報復されたらどうするんだろう?

この記事中、逃げた米兵の特徴が「コールマンひげ」とあるが、そのコールマンとは「嵐の三色旗」(1937)、「二重生活」(1947)など、日本でも公開された映画でも主演したイギリスの俳優ロナルド・コールマンであり、そのひげが日本の観衆に印象を与えたようである。

この昭和27年2月21日の読売新聞夕刊の中で、それらの記事より大きく扱われているのは、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員選挙で当選以降、60年以上にわたり国会議員の座にあった「憲政の神様」尾崎行雄が、体調を崩して臥せっていたところ奇跡的に健康を持ち直したという件である。
尾崎は、戦後も昭和21年の総選挙、昭和22年の総選挙でもトップ当選し議員の座にあった。
しかし安政5年(1858年)生まれの尾崎はすでに94歳という超高齢であり、議員として活動すること自体が奇跡的な状態であった。

さて、千住のギャング事件についても触れてみたいと思う。

この事件は、ポポロ事件の2日前になる2月18日、日光街道の千住宿にも程近い富士銀行千住支店で、「外人混る三人組」がジープで乗りつけ、ピストルで脅して225万円を奪い逃げて行ったのだという。

この前年の昭和26年9月8日に行われたサンフランシスコ講和会議によって締結された条約が発効するのは、この事件の2か月後の昭和27年4月28日。
それ以前は米兵の犯罪について報道することすらできなかったという話は、昭和25年7月11日に発生した小倉黒人米兵脱走事件などでも触れられている。
条約発効前であったこの事件では、そのようなこともなく「制服略帽姿の白人兵士」という表現が平気でなされている。
婦女暴行のような反米感情をあおるような種類の事件でもなかったということだろうか。

この記事が出た時点でわかっていることは、問題のジープは現場から4km西の江北橋で乗り捨てられ、別のセダン車(1948年型ハドソン)に乗り換えて川口方面に逃げて行ったのだと言う。

Wikipediaで「ハドソン・モーター・カンパニー」で調べると、1948年型というのは出てこないが、以下のような記述がある。

終戦後のハドソンは1942年モデルの小改良で生産を再開したが、ビッグスリー各社に先駆けたモデルチェンジで完全戦後設計となった1948年式では「ステップダウン(step-down)」ボディを採用、1954年式まで継続した。

・・・ということで、1948年~1954年まで似たような車体だったのではないかという事から、写真は1949年型。

千住の銀行ギャング事件の方は、3月の声を聞いても一向に解決の気配はない。

3月2日の読売新聞では、犯人となった外人兵のモンタージュ写真が出ている。
2人目の方がいわゆる「コールマンひげ」のようである。

この日、それ以上に大きく報じられているのは宮城県小牛田で発生した誘拐事件で、被害者となった小学生が殺害されていたというニュースである。
この事件については、犯罪に関しては有名なページ「無限回廊」でも「戦後の主な誘拐殺人事件」の冒頭でも触れられているが、何しろ誘拐事件に関する報道協定(昭和35年の正樹ちゃん事件を契機に制定、昭和38年の吉展ちゃん事件で初めて適用)など影も形もなかった頃であり、事件発生から逐一報道されていたようである。
この紙面でも「約束を守らないから殺害する」と報じられているが、簡単に考えても「報道することが被害者の殺害を早める」という事に気づかないものだろうか。終戦して日本国憲法が公布され「報道の自由」が与えられてまだ数年の話である。いや、終戦で「報道の自由」が与えられるまでもなく、この種の事件に関しては「羽織ゴロ」さながらに遠慮なく報道合戦が繰り広げられていた。

翌3月3日の記事では、ポポロ事件に関して、3人の警官から奪い取った警察手帳の中身に関して言及されている。

学生運動団体の幹部の動向が、事細かに書かれており、「公安」の仕事をしていると感じさせられる。

見出しには「きょう衆院法務委で究明」とあるが、その究明の結果が以下のページで公開されている。

ついでに言うと、その翌日の参議院文部・法務連合委員会でも話題になっている。

また、千住ギャング事件でも調べは進んでおり、熱海で2名逮捕されたのされないのという話が報じられている。
ただしこれは憲兵司令部スポークスマンによる「大本営発表」。
報道の自由という事に関しては、だれが統治しているかという違いだけで、大日本帝国もGHQもさして変わりなかったのではないかと思わされる。

ほかの記事では、秋葉原駅の貨物主任が収賄で逮捕された旨の記事が報じられているが、秋葉原駅は昭和50年(1975年)2月1日まで貨物営業を行っており、青果市場が併設されていた。
事件としては、秋葉原駅の貨物主任がリベートをもらってヤミ米を運んでいたというものであり、秋葉原駅だけではなく青森の五所川原駅の助役も逮捕されている事件であった。

余談ながら、昭和29年の元町小学校学童殺害事件の犯人の父親は、この秋葉原青果市場に勤めており、「警視庁史(昭和中編)」には以下の記述がある。

以来、捜査本部は、玉の井特飲街、浅草山谷の旅館街など、(犯人)が立ち回ると予想されるあらゆる方面に捜査網を広げて追跡捜査を続け、六日目の五月一日午後一時三十分ごろ、同人の実父の勤先である千代田区神田山本町秋葉原青果市場に小遣銭を無心にきた(犯人)を張り込んでいた池田、町田の両刑事が逮捕した。

そしてついに、その日の夕刊で、千住ギャング事件の容疑者が1人逮捕された旨のニュースが報じられる。
逮捕されたのは「コールマンひげ」の方で、蓋を開けてみると米兵ではなくキャンプ・ドレイク(朝霞)駐屯のフランス兵で、曹長あったという。
もう1人は二等兵で、まだ逃亡中であるという。

当時、進駐軍にはどれだけの米兵以外の人員がいたのか、Wikipediaの「連合国軍占領下の日本」の項で調べる限りでは、

日本に進駐した連合軍の中で最大の陣容は、約75パーセントの人員を占めるアメリカ軍で、その次に約25パーセントの人員を占めるイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍をはじめとするイギリス連邦の諸国軍であった。オランダ軍中華民国軍カナダ軍フランス軍、そして終戦土壇場になり日本へ侵略したソ連軍は、国力の問題や英米の反対により部隊を置かず、東京など日本国内数か所に駐在武官のみを送るに止めた

・・・とのことで、その「駐在武官」だったのだろうか。

さて、外人兵の片割れも程なく3月4日には御用になっている。
築地の聖路加病院前でタクシーを降りた片割れは、別のタクシーに乗って千葉街道(国道14号線)を東進することに。

ところが小松川橋で検問にあたっていた警察官は、その件で緊急警戒が出ていたことを知っていたので車の中の外人を見るや止めて顔を見てみると手配の外人そっくり。
これでお縄になったというのである。

終戦から7年を経過し、東京に出入りする各街道でも「検問」が必要なほどに車の往来が激しくなっていたのであろう。

また、これを報じた3月5日の新聞では、事件の全貌も報じている。
事件の後、根拠地である埼玉県の久喜まで行って金を山分けして解散したようである。
また、このギャング事件では死者はおろかケガ人も発生していない。
それは「死刑になりたくなかったから」とのことで、今でこそEUの加入条件に「死刑廃止」が掲げられ、そのためにEU加盟を目指すトルコが死刑制度を廃止したなどの話があるが、この時代はまだフランスでも死刑制度は存知されており、18世紀の昔から「市民の名の下に」ルイ16世やマリー・アントワネットを葬ってきたギロチンもまだまだ健在であった。

フランス史上最後にギロチンで処刑されたのは1977年9月10日で、女性を誘拐・殺人したチュニジア移民の庭師が最後の被執行者であったという。
拙ブログの最大のテーマである手足の欠損の話題にになると、その彼はフランスに移住して3年目の22歳の時、仕事中の事故で右足の3分の2を失い、その後はポン引きを生業にしていたのだという。
後進国からの移民で、障碍者となった彼のその後の10年間はどのようなものであっただろうか。

さて、ポポロ事件に話を戻すと、国会でも話題になったような公安の動きは「特高警察の復活」として受け取られたようである。
終戦から7年、「特高」の記憶はだれにも生々しかった。

前述の衆参両院の法務委員会では、警察も備考の事実を認めたことを報じている。

それにしても本富士署長の証言も白々しい。
「演劇に常時警察官を派遣していることは知らなかった。単に観劇に行っただけ」
今であれば「たとえそれが本当であるにしても、勤務時間中に行ったのであれば問題」という方面で話題になっただろう。

共産党や社会党の野党議員も、一様に反発のコメントを出している。

この時期は、世間全体的に「戦争の時代への回帰」に対して神経質であったようで、ポポロ事件と別の記事で「生きかえる参謀本部」というシリーズ物の記事を掲載している。

千住のギャング事件はといえば、日本人の協力者はまだ捕まっておらず、フランス兵の片割れが捕まった城東~千葉方面を中心に警備を展開している旨が報じられている。

さて、その後フランス兵両名はどのようになったか。

3月18日の読売新聞では「西貢サイゴンへ送られる予定」である旨を報じている。
西貢サイゴンは現在のベトナム・ホーチミン市であるが当時はフランス領インドシナであり、記事中に「ベトナム」という書き方はされていない。

フランス兵の所属はあくまで、仏印に展開していた部隊という事になったのだろうか。

ベトナムなどにとっては「独立戦争」となる第一次インドシナ戦争の終結としてベトナムが南北に分離独立する「ジュネーブ協定」が結ばれるのは、この事件の2年後の1954年のことである。

この紙面で報じられている別の記事としては、まだ実用化されていなかった「テレビ」の電波割り当てについての言及がある。
当時から「小放送局の乱立」は危惧されており、厳格に運用することが決められた。

さて、新聞を捨てよ。街に出よう。

まずは、ギャング事件の現場となった富士銀行千住支店の66年後を歩きたい。

現場となった銀行は、やたらと北千住駅から離れているような感もあるが、もともとは千住町役場も千住警察署もこの近くにあり、日光街道の「千住宿」もこの近くにあった。
むしろ北千住駅が千住宿のはずれにあったのである。
決モトルソーさん霧島

現在でも国道4号線が通っている。
跡地はすでに銀行ではない。商業の中心地はすでに北千住駅周辺に移っていた。
現在、地方として商業の中心が郊外のイオンなどに移転していること同様、鉄道の開通により商業の中心地は宿場町から駅周辺に移ったという事なのだろう。そうやって街は変わり続けていくのだ。

富士銀行の後身であるみずほ銀行千住支店もまた、北千住駅の近くにある。
宝くじの売り場があるという事は、富士銀行の合併相手である第一勧業銀行の店舗だろうか。

個人的な話であるが、自分がゆうちょ銀行以外の銀行の通帳を持ったのは、このみずほ銀行が最初である。
それは、自分の郷里の都市に支店のある銀行が、富士銀行と第一勧業銀行だけだったからである。
しかしその2行も合併してしまった。

さて、千住の次は東大へ行こうか。
千代田線で根津で降り、東大の本郷キャンパスを目指す。
千代田線で東大へ行くなら湯島の方が近そうだが、正門や安田講堂辺りになると北に寄っており、根津の方が比較的近い。

今日は五月祭で大賑わいである。

そして問題の法文1号館。
決死モデルはチームY城ヶ崎

25番教室は事件現場となったとはいえ、毎年の受験のシーズンになるとセンター試験の会場としてテレビに映し出されることで有名でもある。

各教室も、各サークルによる展示や講演で賑わっているが、25番教室はスタッフとなる学生の控室になっているようで、テープが張られ一般客は入ることができなかった。

いずれ、ポポロ劇団の多喜二祭を見ようと思った観客と、それを監視しようと思った警官はこの狭い階段を昇って行ったのである。
そして、そのような歴史を遠い過去に追いやるように、週明けからも、そして永遠に学生や受験生を呑吐し続けていくだろう。
きっとそれでいいのである。

さて、銀行ギャングのフランス兵2名は当時の植民地であるベトナムに軍法会議のために送られていったが、奇しくも今日は代々木公園でベトナムフェスティバルの日である。

ということで

昼も近づいてきたこととて代々木公園へ。
決モチームY宇崎

そしてたらふくフォーやバインセオを食べてベトナムフェスを堪能する。

 

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