【ブックレビュー】生体れき断 下山事件の真相

昭和史に興味がある、というのであれば、下山事件は避けて通れないのではないだろうか。

昭和24年7月5日、その年に発足した日本国有鉄道の初代総裁・下山貞則氏が専用車での出勤途中に日本橋三越で行方不明となり、翌6日 に常磐線の北千住~綾瀬の東武鉄道と交差するあたりで死体で発見されたという事件である。

この事件は自殺なのか、殺されたのかについて、朝日と毎日の両新聞社ばかりではなく、法医学界では東大と慶應、警視庁内でも捜査1課と捜査2課でも対立し、結局は何も分からないままになってしまった・・・ということだけはとりあえず本を読む前からわかっている知識である。

(写真はWikipediaから)

今回読む本は以下の本である。

かつて、下山事件関係のサイトを見て、ずいぶんと生々しい写真が載っているものだと興味を持っていた。
別に凄惨な事件現場の写真があるわけではなく、修正の掛かった古い白黒写真に「不気味の坂」を見たというだけなのかもしれない。
いずれ、こうしてこの本を手に取る時が来たということである。

本日のモデルは、鉄道をテーマとしているだけに仮面ライダー電王出身のチームRナオミ

この本の著者は、平正一氏という、毎日新聞の記者であり、下山事件は公訴時効を迎えようとしている昭和39年の初めに出版された本である。

下山事件は色々な立場で意見が紛糾した事件なので、誰がどの立場で書いたのかということは、読む前に明確にしておかなければいけないと思う。

この本にしても、毎日新聞の記者として知りえたことが書いているので、その点のバイアスは逃れえないだろう。

ただ、取材側から見た下山事件ということで、マスコミ内部でどのように動いていたかという、当時の空気感が分かって貴重である。

戦後、GHQによる民主化で、日本の労働運動は「特高が取り締まる非合法なもの」から「自由に経営者側に要求する権利のあるもの」に変わった。
しかし、「竹馬経済」から脱却し、日本経済の自立を目指す政府は、昭和24年・・・

  • 6月30日 吉田首相、中央官公庁165,000人の人員整理を発表。
  • 7月1日 国鉄下山総裁、95,085人の人員整理を通告。国鉄職員の15%。
  • 7月2日 国鉄首脳と国労の会談を行うも物別れ。
  • 7月3日 国労、闘争指令37号「首切り通告を拒否し、職場を死守せよ」
  • 7月4日 15時50分、第一次整理30,700名の指名発表。

このような中で、翌7月5日、専用車ビュイックで出勤途中、日本橋三越に立ち寄ったまま行方不明になったのである。

日本橋でいなくなった総裁が、まさか翌日足立区の方で列車にはねられたバラバラ死体で見つかるとは、誰にとっても寝耳に水だったようである。

当初、捜査当局は組合による拉致・殺害の疑いで捜査を進めていたようである。

また、死体解剖を担当したのは東大であるが、死体に生活反応が無かったことから、「すでに死体になって列車にひかれた」という鑑定結果を出した。

(ただし、東大の鑑定結果はそこまでで「自殺か他殺か」についてまでは言及していない)

ただ、死体になって轢かれたというのであればそれは「他殺」ということになる。
東大や朝日新聞は、それで他殺説を支持し、そのようなキャンペーンを張った。

一方で、総裁が轢かれた、当時農村であった足立区五反野周辺では、総裁の目撃証言が多数寄せられ、そのどれもが「下山総裁のような紳士が、1人で呆然と歩いていた」というものである。
それは、東武鉄道の五反野駅の駅員からも寄せられたようである。

法医学の面からも、轢殺した機関車から検出した血液はゼリー状になっており、それは生きた人間が轢かれた時出ないと現れない兆候だ、という意見が、慶應医学部から出された。

この事件は、法医学的にも一大論争を巻き起こすこととなった。
著者である平氏のもとには、米子医大(現:鳥取大医学部)の学長まで務めた精神科医・下田光造氏から、精神医学的な見地から見た下山総裁の状況から、初老期うつ憂症による自殺ではないかという手紙が送られている。

茫然として下山総裁が歩いていたという、東武鉄道の築堤のあたりを歩いてみた。
奇しくも、下山総裁の轢死体発見時と同じ雨が降っていた。

現在は「五反野親水緑道」として遊歩道として整備されている。
また、築堤ではなく高架橋となっており、線路の下は自転車置き場や倉庫となっている。
今、ここから上って東武の線路に入ることはできないだろう。

当時、総裁は三越前の駅から銀座線に乗って浅草に到着し、そこから東武に乗って五反野まで来たのだろうか。
しかしなぜ、北千住でも小菅でも西新井でもなく五反野で?
総帥は最初から死ぬつもりで、五反野で降りることを選んだのだろうか。
東京鉄道局長も経験している下山総裁は、その五反野の常磐線と東武が交差するあたりが、自殺の多発地帯であり、自殺防止を呼び掛ける看板も立つような場所であったということを知っていたのかもしれない・・・ とする資料もある。

現在、五反野の緑道と常磐線が交差する場所には、下山総裁の追憶碑が立っている。
誰かが水や茶を供えていた。
元々は、轢死地点にあったのだが、常磐線の高架化工事によりこの地点に異動したのだという。

もはや事件から70年近く経とうとしている。
労働運動は、他ならぬ国民の反発にあい急激にその勢力を低下し、日本人は経営者の言うままに低賃金労働にあえいでいるという状況。

たとえ下山事件が組合かその周辺による他殺であったとしても、もはやその様な事件は今の日本では起こりようもないだろう。
日本人は、「陰徳あれば陽報あり」を信じていた昔の日本人以上に、従順に飼い慣らされてしまったのだから。

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