【義手と義足の昭和史】西洋は見た目重視、日本は機能重視!(キリッ(S12.8.27)

昭和8年「我が代表堂々退場す」の時は、中華民国は満州非承認の急先鋒であり、なおかつ中国大陸では局地的な戦闘が勃発していたとは言うものの、全面的な戦争に至っているというわけではなかった。

その状況が一変するのが昭和12年7月7日の夜である。

その舞台となった盧溝橋の歴史は非常に古いく、金代の1192年に完成している。
そして13世紀に「東方見聞録」をものしたマルコ・ポーロは、この盧溝橋を「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と表現したというほどの橋である。
爾来七百幾星霜、科挙に赴く受験生が渡ったかもしれないし、宦官が渡ったかもしれない。
そして元代、明代、清代ときて中華民国の時代となり、中国も外圧という形ではあり、非常な痛みを伴いつつも近代国家の道を歩んでいくことになる。

中華民国になって26年目、すなわち民国26年7月7日の晩、謎の発砲が起きる。
日本軍はこれを中国兵の仕業であると難詰した。
このいざこざは思いのほか大規模な戦闘に発展することになった。
これが日中戦争の始まりである。

戦争がはじまるということはつまり、義肢の需要が増大するということに相成るわけである。

盧溝橋事件から1か月余り後の昭和12年8月27日の朝日新聞では、「目覚ましい進歩 義肢の働き」と題した記事が掲載されており、「今回の日支事変に於いて名誉の戦傷を受けた廃兵に対して義肢を御下賜になった~」といった記事で書き出されている。
この当時、盧溝橋事件に始まる一連の戦闘は「日支事変」と呼びならわされていたようである。

ともあれ、この記事は義肢の技術に関するもので、財団法人義肢研究所が記者の質問に回答している。
この「財団法人義肢研究所」というのは、現在の啓成会であろうか。啓成会は、関東大震災の被災者の救済事業として発足している。

で、その義肢研究所が言うのには・・・

日本の義肢はアメリカ、ドイツ、フランスのような欧米の物よりも格段に進歩している。外国の物は体裁が優先だったり、ただ歩ければよいぐらいに思ってるかもしれないが、日本の物は昨日が優先だ。両手をなくした人だって受傷前の熟練した仕事に就くことだってできる。両手が無くても工場で働いている人もいれば、片手が無くても飛行機を操縦している人もいる。

やはり、具体的にどのように欧米に比べて優れているのか、過去の物に比べてどのように発達したのかという所までは読み取れなかったが、義手で「機能優先」ってのはつまりフック義手ってことなのだろう。

琴音ちゃんならともかく、このんで付けようと思う人はいなかっただろうな・・・

 

 

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