【義手と義足の昭和史】米ソ義肢技術競争?(S39.3.11)

今回の「義手と義足の昭和史」は、冷戦ネタで御機嫌を伺いたい。

昭和50年代後半に子供時代を過ごした男の子にとっての国際観は「キン肉マン」によって醸成されたといっても過言ではないのではないだろうか。
中国と言えばラーメンマンだったし、スリランカと言えばティーパックマン、スイスと言えばウォッチマンで、西ドイツと言えばブロッケンジュニアだった(ブロッケンジュニアに至ってはナチスの恰好であったが、よくも西ドイツ大使館やサイモン・ヴィーゼンダールセンターあたりから抗議が来なかったものである)。

そしてソ連はと言えば「ウォーズマン」である。
当時、小学生だった自分は、お袋にこんなことを聞いた記憶がある。
「お母さん、ソ連って軍国主義?」
「何で? 社会主義だよ」
「だって、ウォーズマンは戦争だよ」

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【義手と義足の昭和史】交通戦争の時代へ(S35.12.12)

義手と義足の昭和史」もしばらく間が開いていたが、再開することとしたい。
今回は昭和30年代半ばの新聞記事より。

戦後10年以上が経過し、高度経済成長に差し掛からんとしていた時期・・・

自動車の増加と共に、交通事故も激増している時期であり、昭和35年の流行語に「交通戦争」が挙げられたと言う程であった。

Wikipedia「交通戦争」によれば、この10年後の昭和45年まで死者は増え続けたものの、

交通弱者である歩行者を交通事故から守るため、歩道やガードレール、横断歩道橋の整備を積極的に行ってきたことや、交通違反者に対する罰則強化、交通安全運動を推進したことが成果として現れ、1979年(昭和54年)には死者8,048人とピーク時の半分にまで減少した[1]

・・・のだという。

厚生労働省にでも出向けば、年別の手足の切断理由の統計は出ているのだろうか。

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【義手と義足の昭和史】(5)義足なんか盗んでどうするの?

平野啓一郎「かたちだけの愛」でいう「南千住のセンター」、GIMICOさんが言う「南千住のテーマパーク」であるところの、現在の義肢装具サポートセンターの経営母体である鉄道弘済会は、昭和7年に誕生している。
またJRどころか日本国有鉄道もなく、「鉄道省」というお役所だった時代のこと。 “【義手と義足の昭和史】(5)義足なんか盗んでどうするの?” の続きを読む

【義手と義足の昭和史】(4)昭和30年、毛穴まで表現できるようになったんです

義手と義足の昭和史」今回は昭和30年代に入りたい。
とは言っても昭和30年2月20日の記事なので、日本の年度で言えばまだ昭和29年度が続いているというあたりである。 “【義手と義足の昭和史】(4)昭和30年、毛穴まで表現できるようになったんです” の続きを読む

【義手と義足の昭和史】(1)国際的孤立の中で

自分が初めて「義手」を見たのは、かなり幼い頃である。
地元の産業団地のような所で、何かの博覧会をやっていたのである(後年のつくば博を小さくしたようなの)。
つまり昭和54~55年頃。
白い着物を着たおじさんの片手は、金属のフックだった。
つまり傷痍軍人さんだったのだが、これが強烈なインパクトとして残ることになる。

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