【義手と義足の昭和史】義手で円タク(S13.12.18)

最近、Amazonプラスで1969年当時の「サザエさん」をやっており、差別用語がてんこ盛りで放送できないレベルなのだという。

ああ、この台車に乗ってる人は・・・
差別用語で言うところの「いざり」というやつで、戦後も傷痍軍人などでそれなりの数いたようである。九段のしょうけい館にあったような車椅子と言うのは高級品であったようである。

さて、今回の「義手と義足の昭和史」は、そんな傷痍軍人たちが惨めな思いをせずに働けるように、社会的にはどんな努力がなされていたかというのがテーマである。

昭和13年12月18日の東京朝日新聞には、
再起奉公の首途に 操縦の手を贈る 円タク就職の窓を開く
という見出しの写真付き記事がある。

時代相としては、中国大陸での戦線が泥沼化していく一方で、つまりはそれだけの死者そして傷痍軍人を生み出していたということである。
そして、社会不安の払拭や戦意高揚の観点から、傷痍軍人の再就職問題もまた目下の課題であっただろう。

この当時の義肢の開発の中心と言えば、この12月に中目黒に移転したばかりの財団法人義肢研究所となる。

この義肢研究所で、自動車運転のための義手が開発されることとなった旨の記事である。
発端は、この年の4月にダイナマイト運搬時の事故で右手首を切断した朝鮮(咸鏡北道:清津や羅津の方)から来た労働者が、拙ブログでも紹介した「義手の戦闘機パイロット」の記事を携えて義肢研究所の所長を訪ねたことに始まる。
「飛行機でも操縦できるなら、自動車でも」・・・それが、義肢研究所スタッフの意気に火をつけた。
開発にあたっては、研究所内に自動車の実験台を設ける、交通法規を改めて確認するなどかなりの苦労があったようである。

そして所長の計らいで円タクを借り、再就職に及んだのだという。

円タクと言えば日本の戦前期におけるタクシーの代名詞的な存在。
現在は江戸東京博物館に保存してあるのだという。
これを機に行ってみることとしたい。

ということで早速両国駅へ。
今回は自動車マターなので、決死モデルはチームWBラジエッタ

Google mapで見ると、両国駅の北側の国技館側と江戸東京博物館がつながっているように見えなかったので、両国駅の南口から出て大回りで江戸東京博物館へ。
実際に行ってみたら、国技館側に出ることもできたようで遠回りしてしまった。

入り口は長いエスカレーターを登って6階にあり、そこからお江戸日本橋を模した橋を渡って、江戸時代の街並みや大名屋敷の再現、吉原の花街の再現などもあった。

基本的には拙ブログでも扱った松戸市立博物館同様、時代順の並べ方となる。

江戸時代の展示が終わると、さっき渡った橋をくぐる形となり、時代は明治となる。
明治時代を示しているのは、1900年に銀座に登場したという「日本初の公衆電話」で、実際に受話器を取ってみると案内音声が流れる。
五銭の白銅貨で通話する仕組みになっていたようである。

そして浅草の十二階(凌雲閣)のレプリカ、関東大震災の時代を経て、いよいよ今回の目玉である円タクの展示と相成る。

円タクの他に、当時のガソリンスタンドや交通信号の展示もあった。

手前にあるガソリンスタンドは塔状になっており、上のガラス張りの部分に何ガロンかが表示されるようになっている。
また、奥側の交通信号機は下に係官がいて手動で板を回すスタイルとなっていた。

その後、昭和の高度経済成長期の部分では松戸市立博物館同様、団地の展示があったり、その後は竹の子族~ボディコン~コギャル~メイドさんといった時代相を表す服飾の展示もあった。

一度行ってみると面白い所であった。

 

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