【義手と義足の昭和史】義足公使と隻眼提督(S8.4.6)

去る11月27日に紹介した「上海南駅の赤ん坊」の写真は、日本でもネトウヨ業界で特に有名だったようで、「反日的捏造」の象徴にすらなっているようである。

これは第二次上海事変の時の写真であった。
では、「第一次上海事変」はどうだったのかというと、むしろこちらの方が「義手と義足の昭和史」というテーマには近いのである。

昭和7年の時点で、日本は上海の国際共同租界(英米伊日)を根拠として諸々の経済活動を行っており、その居留民を守るという名目で、陸軍や海軍の兵隊を1000名常駐させていた。
かといって、英米伊日が仲良くやっていたかと言えばそれも微妙。日本は、麻薬と通信の利権を、武力を使ってでも欲しかった。

そこへ昭和6年9月18日、柳条湖事件を契機に満州事変が勃発。中国での抗日運動が広がることになり、日本製品の不買運動、日本人の襲撃、日系企業への襲撃といった形で現れることになる。
そして昭和7年1月28日に最初の軍事衝突。
この戦闘状態は3月下旬に米英仏伊の仲介で停戦協定が結ばれるまで続くことになる。

そして停戦なった後初めての天長節(天皇誕生日)である昭和7年4月29日。
上海の虹口公園でその祝賀式典が行われることとなった。
天皇裕仁はこの時満31歳。

当時日本に併合(韓国的な立場で言えば「強占」)されていた朝鮮の活動家、尹奉吉により、爆弾テロが引き起こされ、日本の要人に死傷者が出た。
(ところで、尹奉吉が太極旗の前で宣誓する姿は、バージニア工科大学銃乱射事件の趙承熙に似てないだろうか)

この結果、在上海公使の重光葵は右足を失い、海軍大将野村吉三郎は右目を失うこととなる。
重光は切断手術直前の5月5日、停戦協定に署名することとなる。

そして皇后より義足を下賜され、1年近く後の昭和8年4月6日、宮中参内の栄に浴すこととなる。
その場には、隻眼となった野村提督も来ていた。

もう一つの南京事件(S2.7.9)」でも触れたが、戦傷者や国家功労者に義肢を下賜するのは、皇后陛下の役目であったようである。

現在でも、神奈川県湯河原にある重光葵記念館には、重光の使用した義足が展示されているが、大腿義足であったようである。つまりRAK。
また、義足に特段のギミックがあったわけではないので、歩くときには杖が必要だったようである。

その後、重光葵は戦中から戦後に亘り、東條内閣・東久邇宮内閣・鳩山内閣で外務大臣を務めることになる。
第2次世界大戦の降伏文書を戦艦ミズーリの上で調印したのもまた重光葵であり、日本の近代史への足跡を、その義足で踏み越えて行ったのである。

 

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