【義手と義足の昭和史】犬クンの義足(S13.3.13)

義手と義足の昭和史前回で紹介した盧溝橋事件の1か月後。
今度は上海で戦闘状態が勃発した。これが「第二次上海事変」である。

これは「LIFE」誌の1937年10月4日号に掲載された「上海南駅の赤ん坊」という有名な写真であるという。
日本軍の爆撃により一人上海南駅に投げ出され、大火傷を負った赤ん坊。

Wikipediaによれば、以下のような状況であったという。

午後4時、16機の日本軍の飛行機が来襲し、空襲によって上海南駅で杭州行きの列車を待っていた市民たちが多く死傷した。王小亭は急いで彼の車で廃墟となった上海南駅に駆け付けた。彼が駅についたときの惨状と混乱を、彼はこう語っている。
「それはひどいありさまでした。人々はまだ起き上がろうとしていました。死者や負傷者が線路やプラットホームを越えて散らばっていました。手足がそこらじゅうにありました。私の仕事だけが見たものを忘れさせてくれました。ふと、私の靴が血で浸されているのに気付き、私は映写機の再装填をやめました。線路まで歩いていき、頭上の燃えている橋を背景に長回しのシーンを撮りました。そこで線路から赤ん坊を拾い上げプラットホームに運んでいる男性を見つけました。彼は別の酷く傷ついた子供のところに戻って行きました。その母親は線路で死んで横たわっていました。私がこの悲劇を映画に撮っているときに、飛行機が戻ってくる音が聞こえました。即座に残った映画フィルムで赤ん坊を撮影しました。私は赤ん坊を安全なところへ運ぶために走って行きましたが、そのとき赤ん坊の父親が帰ってきました。爆撃機が頭上を横切りました。爆弾は落ちてきませんでした。」
やけどを負い、けがをして泣く赤ん坊の名前も性別も、この後生き残ったのかも不明のままである

いずれ、この写真は、アメリカの中国への同情と、反日感情をあおることになったのだという。

ちなみに、この当時の上海南駅は、現在杭州への高速鉄道が発着する上海南駅とは全く別の場所にあり、上海軌道交通4号線の「西蔵南路」と「南浦大橋」の間ぐらいにあったのだという。現在の上海南駅は、上海市街の南の外れ。

そんなアメリカ人の憎んでいた日本で、アメリカに関するどのような新聞記事が掲載されていたか・・・

昭和13年3月13日の読売新聞の少年少女面では、別に「鬼畜米英」だ「少国民」だという論調の記事が掲載されていたわけではない。

真ん中あたりの写真ニュースで「何んとキバツな 犬クンの義足」と題した記事が掲載されている。
これがアメリカはフィラデルフィアの犬であるとのことで、書き出しが「ビッコひきひき」と、現在であれば差別用語として新聞ではとても書けない用語で始まっているのも時代相である。

ともあれ、当該の犬は線路に右の後脚を挟まれて、原文ママで表現すると「可哀そうに生まれもつかぬビッコに」なったのだという。
そしてアルミで作られた義足で、前と変わらず元気で走り回ることになったとのこと。
この当時のアメリカには、義足を付けた犬が数頭いたのだという。

アメリカ政府が、日本の関税自主権を認め「不平等条約」を脱したと評価された日米通商航海条約の破棄を通告するのは翌昭和14年のこと。
いよいよ日米関係も暗雲が差し掛かっていった ―――

 

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