「義手と義足の昭和史」は今回から戦後編となる。
戦後の焼け跡から立ち上がった混乱期、人々は生きるのに懸命であった。
地下鉄も銀座線しかなかった時代で、都内には都電が網の目のように走っていた。
その中でも栄えある第1系統は上野駅から日本橋や銀座を通って品川まで走っていた。
その様子が東京都交通局によってyoutubeで見ることができる。
「義手と義足の昭和史」は今回から戦後編となる。
戦後の焼け跡から立ち上がった混乱期、人々は生きるのに懸命であった。
地下鉄も銀座線しかなかった時代で、都内には都電が網の目のように走っていた。
その中でも栄えある第1系統は上野駅から日本橋や銀座を通って品川まで走っていた。
その様子が東京都交通局によってyoutubeで見ることができる。
昭和18年も後半になると戦況はさらに悪化。
そんな中、11月6日には大東亜会議が行なわれ、大東亜共同宣言が採択される。
参加国は大日本帝国、中華民国(汪兆銘を主班とする南京国民政府)、タイ王国、満州国、フィリピン共和国、ビルマ国。
オブザーバーとして自由インド仮政府。
要は死に体になった日本という番長が「お、お、俺らずっと友達だよな?な?」ということである。
コロナ対策で個人商店の休業が奨励されている。
これに対し1日50万円、最大400万円の休業保証金が用意されていると言うが、さてどれほどの慰めになることやらで・・・
いや、税収に限りがあるのは分かるんだけど。
“【義手と義足の昭和史】傷痍軍人に嫁いで支えてあげましょう。そのために皇族は和歌も詠む(S18.8.21)” の続きを読む
第二次世界大戦の戦況は悪化していく。
ガタルカナル島から日本軍が撤退した昭和18年2月のこと。
アメリカ側の映像はこのようになっていた。
明治38年6月22日「堀江六人斬り」で17歳の芸妓「妻吉」が発狂した主人に斬られ両腕を失って18年後の記事を紹介したい。
ちなみに、拙ブログのヘッダ画像もまたこの「堀江六人斬り」を報じた新聞記事である。
朝日新聞が保守層・・・というかネトウヨから「反日」だの「アカヒ」だの叩かれるほどのリベラルな報道姿勢は、戦前の翼賛的な紙面の反省からきていると言われる。
大阪府知事がムチャクチャなのは、何も今に始まった事ではない。
コロナ禍で「コロナで職失った可愛い子が風俗に流れ込むぞ」と発言したナイナイ岡村隆史が大炎上し、フェミニストからは「自殺するまで追い込むぞ」とまで言われる騒ぎに。
昭和27年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効するまでは、国際法上は日本は「独立国」ではなかった。
だからMADE IN JAPANの製品は「MADE IN OCCUPIED JAPAN」と表記しなければいけなかった。
《戦に負けるということ》2
MIOJとは、
MADE IN OCCUPIED JAPAN占領下の日本製という刻印。同時代の多くのカメラにこの印が刻まれています。サンフランシスコ講和条約が結ばれたのが昭和26年9月。最後のMIOJものですね。
戦いに負けるとはこういうこと。
MIOJを見るたびに、国家の主権を感じます pic.twitter.com/GYbE9EsFUX
— 八百富写真機店 ヤオッター (@yaotomicamera) October 21, 2019
1950年代のアメリカ。
それは東西冷戦の始まりであるとともに、中産階級の消費文化が花開いた時代でもあり、西側世界の全てがアメリカの豊かさに憧れていた。
日本はまだ高度経済成長の直前で、名実ともに「発展途上国」であった。
9月に入り、プロ野球もストーブリーグの季節となってきた。
ヤクルトの畠山和洋内野手が現役引退を決意したことが球団関係者の話で分かりました。https://t.co/c3dQICK1gg
— 産経ニュース (@Sankei_news) September 8, 2019
北方領土をめぐって「戦争しないとどうしようもなくないですか」という発言で、あの維新すら離党になった丸山穂高はその後、NHKから国民を守る党というゴロンボ集団の党首に拾われたが、プロフィールに「N国」とは書いていない模様。一応、N国所属というのは恥ずかしいという自覚だけはあるようである。
その丸山穂高であるが、またぞろやらかしよった。
「竹島も戦争で取り返すしかないんじゃないですか?」
昭和史マニアのルーチンワークとして何気なくWikipediaの「1959年」の項を見ていたらこんな記事が目に入った。
大瀬しのぶというローカルタレントがいて、CMにも盛んに出ていたのでそのハゲ頭はお茶の間でおなじみの存在だった。