【義手と義足の昭和史】戦争になれば義肢の記事も増えます(S13.12.23)

北方領土をめぐって「戦争しないとどうしようもなくないですか」という発言で、あの維新すら離党クビになった丸山穂高はその後、NHKから国民を守る党というゴロンボ集団の党首に拾われたが、プロフィールに「N国」とは書いていない模様。一応、N国所属というのは恥ずかしいという自覚だけはあるようである。

その丸山穂高であるが、またぞろやらかしよった。
「竹島も戦争で取り返すしかないんじゃないですか?」

一体全体どういうつもりなのか。
次の選挙では大阪19区から出馬したところで当選の目はないだろう。つまりこれで議員生活は事実上終わりなのだ。であればやりたい放題やってやれ、とそういう事なのだろうか。

さて、この丸山穂高の言う通り戦争を始めれば、当然傷痍軍人が出る。
そして新聞にも義手や義足の記事が増える、ということである。
今回は、1紙面に3つも義手や義足の記事が載った記事を紹介したい。

昭和13年12月23日の東京朝日新聞の11面トップは「隠棲から再起奉公 両腕なき名技師 完全な義肢を製作」という見出しが躍っている。

これは、日中戦争で増加する傷痍軍人の義手や義足のために、鉱山事故で両腕を失って隠棲していた福岡県の鉱山技師が、東京第一陸軍病院における新しい義手の製作に協力したというものである。
この鉱山技師は義手でタバコを吸うことや字を書くこともでき、久留米の専門学校で教鞭を取るという事もしているという記事である。
而して、その義手がその後どれだけ実用化されたか、ということに関してはここでは触れられていない。

また、もう1つは右側の2段の小さな記事で「傷兵保護の映画」という見出しで、この年の漢口攻略戦に従軍した岸田國士、林芙美子、芹沢光治良、尾崎士郎、榊山潤といった作家に傷兵の保護をテーマとした作品の執筆を依頼した、というものである。
この4年後の昭和17年には、彼らを中心に「日本文学報国会」が設立され、文壇も本格的に翼賛体制に入っていく。
そして戦後、少なくない作家が「戦争への協力」を後悔し苦悩していくのである。

最後は左下の写真付き2段の記事であり「隻腕勇士に嫁ぐ」というもの。
前年の平津作戦における「南苑の戦い」で左腕がちぎれそうになっていたところ、その左腕を引きちぎって投げた上等兵がいて敵も味方も驚いたという武勇談の主が、東亰陸軍病院で知り合った看護婦と結婚するに至った、という記事である。
記事中では結婚のことを「ゴールイン」としており、すでにこの表現がなされていたことが見て取れる。

ちなみに「ゴールイン」は英語で、つまり「敵性語」ということになるが、戦時中における敵性語狩りは法律で強制されたものではなく、「戦争による中断」を避けたかったプロ野球界などが忖度して始めたものが多いのだという。

ファシズムのある所「忖度」は蔓延り続ける、ということらしい。

 

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