「義手と義足の昭和史」は今回から戦後編となる。
戦後の焼け跡から立ち上がった混乱期、人々は生きるのに懸命であった。
地下鉄も銀座線しかなかった時代で、都内には都電が網の目のように走っていた。
その中でも栄えある第1系統は上野駅から日本橋や銀座を通って品川まで走っていた。
その様子が東京都交通局によってyoutubeで見ることができる。
その都電1系統である、とはいえそこは焼け跡の日本であり・・・
昭和24年1月15日の読売新聞の下側中央で非常に小さく報じられている所では、
「品川から上野へ行く都電が三越前を過ぎたところでタバコをスリ取った義足の男を捕まえてみると、義足からお札がザクザク出てきた」というのである。
戦後の混乱期で誰も彼もが生きるのに一生懸命だった時代、この義足のスリも傷痍軍人だったのだろうかと思ったらさにあらず、スリの常習犯であり、昭和22年から前橋刑務所に食らい込んでいたのだが、そこでの刑務作業でトロッコの事故で左足を切断したのだという。
かの南千住の義肢装具サポートセンターが鉄道弘済会によって設立されたように、鉄道というのはとかく切断障害者を生み出しやすい職場でもある。
それで欠損フェチには鉄ヲタが多いのか?
・・・ということは無いだろうが、ともかくもそんな刑務作業での労災に補償など無かったようで、相変わらずスリで身を立てるしかなかったようである。
都電1系統といえば日本初のPCCカー・都電5500系が入れられていた系統でもある。
ただし昭和24年当時には5500系は入っていない。これは昭和29年のことである。
そんな「1系統の華」5500系は現在でも都電荒川車庫の「都電おもいで広場」に保存されている。
一度行ってみることにしよう。
本当は9:06の松戸行きに乗りたかった。
しかし起床したのがその9:06だった。
しかし後の予定もある。
とにかく行くしかない。
結局、15分ぐらい遅い電車で荒川車庫前を目指すことにする。
駅すぱあとで到着予定を調べてみると、十分挽回できそうである。
それで町屋駅でも走って1本早い都電に乗った。
果たして荒川車庫へ。
このご時世らしく、まずはアルコールで手を消毒して中に入る。
都電5500系の中には、模擬運転台がある。
とはいえ、PCCカーのABペダルでやるわけではなく、一般的なマスコンをスイッチ代わりに都電の前面展望を見せる、という程度のものである。
これをおそらく都電を定年退職したであろう嘱託の案内員がレクチャーする。
(決死モデル:チームYジャスミン)
その他、鉄道模型や昔の都電の制服やスタフなども保存している。
ただ、その模擬運転台は裏側だけで、表に面したところはABペダルが残っていた。
それで、どうにか予定の10:31の三ノ輪橋行きが来るまで決死し続けた。
では次の予定に行きましょう!