【義手と義足の昭和史】巡回義肢修理バス(S18.11.16)

昭和18年も後半になると戦況はさらに悪化。
そんな中、11月6日には大東亜会議が行なわれ、大東亜共同宣言が採択される。
参加国は大日本帝国、中華民国(汪兆銘を主班とする南京国民政府)、タイ王国、満州国、フィリピン共和国、ビルマ国。
オブザーバーとして自由インド仮政府。
要は死に体になった日本という番長が「お、お、俺らずっと友達だよな?な?」ということである。

その「大東亜の番長」であるところの日本の帝都では、大学生すら徴兵せねばならなくなり、10月21日には学徒出陣壮行会が明治神宮外苑で行なわれている。

全てが戦争の為に動いていた。
そんな時期の義肢シーンはというと…

昭和18年11月16日の読売新聞より。

品川にあった傷痍軍人職業補導所が、観光バスを改造して義肢の巡回補修車にするというニュース。

「傷痍軍人職業補導所」とは昭和14年に東京・品川に設立され、以後名古屋・福岡・仙台にも設立され、戦後はそのまま厚生省所管の身体障害者職業訓練センターとなっている。

学生まで戦争に駆り出さなければならなくなったとあっては、観光どころではなかったであろう。

ところでその観光バス改造の義肢修理車というのは、木炭バスだったのだろうか。
「石油の一滴は血の一滴」の時代、そうそう民間需要に回せる石油など無かったであろう。

品川から都心や新宿を通って木炭バスで行った三多摩の道はどんなものだったのだろうか。

ちなみに木炭バス自体は北海道中央バスや神奈川中央バスなどで復元して走らせている。

岩国市でもワゴン車を改造した木炭車があり、西岩国駅前に保存してある。
決死モデル:チームTヤギー

一度走っている所を見てみたいものである。

 

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