【義手と義足の昭和史】片腕の男の殺人

コロナ禍で「コロナで職失った可愛い子が風俗に流れ込むぞ」と発言したナイナイ岡村隆史が大炎上し、フェミニストからは「自殺するまで追い込むぞ」とまで言われる騒ぎに。

ともあれ、このコロナ禍で日本の経済と人権意識の貧困が浮き彫りになったような感がある。

では、女性が貧困に陥って春を鬻ぐ仕事に身を窶した結果、どんなことが起きたか。
これが考えうる限りでも最も悲惨な例では無いだろうか。
警視庁犯罪捜査記録 第1集」(成智英雄著 創人社 1963)に掲載されていた事件である。

それは昭和32年のことーーー

昭和32年9月21日の朝。
荒川区と足立区の境界でもある国道4号線千住大橋の、荒川区側の堤防に、若い女性の絞殺死体が浮いているのを、近所の製糸工場の工員が発見した。

その女性は身長1メートル47センチで女工風であったという。
死亡推定時刻は20日の20時頃、つまり前夜に絞殺されてから荒川に投げ込まれたのではないか、という推定がなされた。

この辺りを前掲書から補足すると、捜査会議では自殺説も疑われたが、「岸壁は直線で水が停滞するような場所ではない。一晩経って満潮を経ているので上流も下流も広範囲に調査せよ」という捜査方針が立てられたという。
また、被害女性に関して言うと、新聞では「女工風」とあったが「肉体には労働経歴の痕は認められない」とある。
また、自殺説を補強する捜査結果も出た。それは、上流にある尾竹橋公園の木の枝に、黒い黒色化繊の紐が垂れ下がっていたというのである。これで自殺したのではないか?という見立てもなされた。
しかし16時過ぎには解剖結果が報告され、胃からラーメンが検出され、なおかつ姦淫の跡があり、その精液から血液型A型の男と関係を持っていたのではないか、とのことであった。
その日の19時40分、女性被害者の指紋から身元が発見されたとの報告がなされた。

その女性は、群馬県高崎市の15歳の少女であったというのである。

このことは既に群馬県でもキャッチされていたようで、翌9月22日の上毛新聞には「容疑者二名浮かぶ」という見出しで報道されている。

まず被害者の方であるが、高崎市内の八千代橋の下で精神病を患った41歳の母と母一人子一人の生活をしていたようである。つまり今で言えばホームレス生活。
これが20日13時頃、「市役所に行ってくるので留守を頼む」と言って出たきり、帰ってこなかったのだという。

この記事では、被害女性は「男との交友関係もきわめて多く、そのほとんどが札付の不良で前から高崎署の補導対象になっていた」とされている。

また、容疑者についてもこの時点で目星がついていたようであるが、それはバタ屋と公務員であり、バタ屋の方が実名を出されているのに対し、公務員の方は住所も氏名も秘せられている。
まあマスコミって・・・ 昔からこんなもんだよな・・・。

ところで、この社会面のトップで最も大きく報じられているのは温泉街の盛況。
群馬県は草津、伊香保、万座など温泉地が多いことでも知られているが、サラリーマンの団体客の需要が増えているということが報じられている。
ちなみに伊香保温泉には高崎から東武鉄道の軌道線が直通していたが、この記事の前年の昭和31年に廃止になっている。

翌23日の上毛新聞でも、この事件は大きく報じられている。
犯人のキメ手がないと書かれている。

また、被害者の家庭環境であるが、いわく「乱れ切っていた母子の生活」。
母親は目が悪く、市の生活保護を受けて生活しており、獅子舞の男と一時期生活していたことも報じられている。
「獅子舞」というのは家々の前で獅子舞を踊って金銭を強要する仕事で、とうていまともな人間のやる仕事ではない。そのような事も昭和史の彼方に消えてしまっている。

これまた前掲書から補足するところでは、その生活は悲惨を極めている。
決してそれは「乱れ切っていた」の一言で形容できるものではない。

もともと、被害女性は戦後すぐまで父母とも健在であり、父親は高崎市内で工員をしていたが、被害女性7歳の時に病死してしまう。たぶん昭和24年頃ではないだろうか。
その後残された母子は、ゴム紐の行商で貧しい暮らしをしていたが、家賃を払えずに借家を追い出されてしまう。
そして八千代橋の下のバタ屋部落でテント暮らしをするようになった。
しかしそこは30歳の女盛り。その体を求める男は相当数いたようである。
そんな生活を続けて数年、昭和30年頃には性病に感染したが、極貧の身には医者にかかることもできなかった。
昭和31年春頃には、性病のために視力を失うまでになって行き、生活保護の身となり、精神まで病むようになっていた。月額は2,900円であったという。

10代半ばであった被害女性もまた、母と同じことをして露命を繋がねばならなかったのだ。

前掲書にいわく、
日本国憲法第二十五条に “すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利がある” と明らかに書いているが、国家は十四才の少女が病母を抱えて、月額二千九百円で文化的な最低生活が出来ると云うのか
と国の無策を嘆いている。

ところで、同じ9月23日の朝日新聞であるが、犯人の36歳の男が職場の上司に連れられて自首した旨を報じている。
それは、高崎の福祉事務所の吏員であり、被害者一家の生活保護の担当者であったというのだ。

この記事を読む限りでは、以下のような経緯となっている。

・20日昼過ぎ、被害女性を連れ出す。
・17時15分高崎発の列車で東京方面へ。
・19時20分上野到着。
・都電で千住大橋付近へ。
・22時頃、荒川の堤防へ行き「東京で働くよう」説得するも拒まれる。
・これに怒って被害女性を突き倒し、右手でちょっと締めるはずみに被害女性が川に落ちてしまった。
・怖くなってそのまま高崎に逃げ帰った。
・自分と被害女性はおかしな間柄ではない。

どう考えても「そんなはずはない」としか思えないような供述である。
嘘くささでは先般の東京高検検事長の定年延長並みと言っても過言ではない。

ところで逮捕されたこの男、左手の袖がぶら下がっているが、このあたりを前掲書から補足すると、

・高等小学校卒業後、昭和10年10月頃から高崎市内で製材工として働いていた。
・昭和11年3月10日、機械に巻き込まれ左腕を付け根から3寸ぐらいで失う。
・その後小間物行商をする。
・その後、市の職業紹介所の臨時雇いとして働く。
・昭和22年3月、中川村役場厚生係で働くようになる。
・昭和30年1月、中川村が高崎市に編入され、高崎市福祉事務所勤務となる。
・福祉の金では食っていけないと思い同情して、被害少女と関係を持つようになった。
・被害少女が10代半ばでありながら処女ではないことに驚いた。相当数の情夫がいたようだ。

群馬県群馬郡中川村とは、上越線の井野駅周辺とその西側が村域であり、被害者母子が暮らしていた八千代橋とは全く関係のない地域である。
「昭和の大合併」が無ければ、犯人の男も、田舎の村の一吏員としてつつましくその役人生活を全うしていたのかも知れない。

ともあれ、本件は「義手と義足の昭和史」マターでもある。

翌9月24日の上毛新聞では、犯人が福祉事務所の役人であったことについて「またも」という言い方で報じている。
群馬で役人の犯罪はこれが最初では無かったようで、それも福祉の現場で起きていたというのである。

新聞の中で報じられている内容は、前日までの犯人の供述とさして変わるところはない。

やはり前掲書から補足すると、捜査や取り調べの結果の経緯は、以下の通りであったという。

・昭和32年9月18日水曜日、役所から退勤しようとすると、ヤクザの若い衆が待ち構えて「あの子に扶助金を餌に体を張らせていいのか?」という。「何かお間違えではありませんか?」「そんなに言うなら福祉事務所長の前で話を付けてやろうか」「お金ですか?」「別にゆすりに来たんじゃねえ。あんまり汚いやり方だからあの子から手を引けって言ってんだ」
・9月20日金曜日。「済まんがヤクザ風の男が来ても休んだって言って追い返してくれないか」これはやばい。。。懲戒免職となったら退職金も出ないぞ。。。

この先はあくまで、犯人となった福祉事務所の男の供述である。

・まず被害少女を東京で奉公させて、失明して気が狂った母親は養老院にでも入れてやればバレることはないだろう。ということでまず被害少女を東京に連れ出そう。
・15時頃、市のゴミ捨て場にいた被害少女を発見。「米を5升あげるから6時半に中屋町で会おうよ」
・17時に退庁。帰宅するも米は無し。仕方がないのでどこかで米を買って被害少女に見せ「今晩は東京にでも行こうよ。明日は休みなんで都合がいいんだ」少女はひどく喜んだ様子。
・北高崎駅18時23分の上野行きに乗る。
・21時20分、上野到着。
・浅草へ出て、中華そばを食べる。
・千住車庫行きのバスに乗る。「北千住駅の近くに従弟がいるんだ。職を紹介してもらおうよ」「嫌だ」
・被害少女は京成の千住大橋駅前で降りてしまった。そして千住大橋方向へ戻ろうとする。
・少女の機嫌をとりながら、千住大橋から荒川の上流方向へ歩く。
・ボール紙の屑が積んである所(ちなみに死体発見現場は製紙工場の敷地であり、第一発見者はこの工場の工員)でしばらく話し込んでいると欲情を覚え行為に及ぶ。小雨の降っている闇夜だった。
・被害少女は、かわいそうに足を踏み外して川に落ちてしまった。
・こんなことが知れたら世間体も悪く役所を首になるだろうから逃げることにした。
・タクシーで上野駅へ出て、23時50分の米原行きに乗り、高崎に到着したのは日付を跨いだ21日2時40分のこと。

まあ・・・かなり「盛った」供述なのは確かのようで・・・
例えば東京の地理を全く分からない15歳の少女が勝手に夜のバスを降りて何も分からない所へ行くだろうか、とか、川に落ちたならせめて助けを呼ばないだろうか、とか。
左腕を切断したことは同情に値するにしても、こんな逃げ口上ばかりでは、人間的にはかなりのクズであったようである。

結局、全て自供したのは10月1日になってからのことであったという。

63年の時を経て、その陰惨な足跡をダークツーリズムにて辿ることとしたい。

ということでまずは松戸から上野行きに乗る。
事件は高崎からの客車列車であっただろうが、おそらくはEF56やEF57が牽引していたであろう。

そして上野から浅草は地下鉄だったであろうか。
都電なら須田町〜福神橋の24番や、須田町〜東向島3丁目の30番が上野浅草を結んでいたようである。

今回は地下鉄で浅草へ。
地下鉄の浅草駅からからの地下食堂街は臭い。
何十年とこもった匂いの蓄積を感じた。

で、仲見世を歩くがだんだん密な状態に戻りつつある。

ダークツーリズムの初めは、浅草六区でラーメンを食べるところから始めたい。

事件当時のラーメン屋は「船橋屋」と言ったそうだが、今は現存しないであろう。
そうなれば適当なラーメン屋に入ることにしたい。
どうせ入るなら人気店に行きたいではないか。

「浅草六区 ラーメン」で検索すると一蘭が出てくる。
でも一蘭ってチェーン店だよね?
なんというか、それでは・・・趣が無い。
いや、ダークツーリズムに趣も何もあったものではないが、ともかくもガッツリ煮干しラーメン系にすることに。

狭い店内は主人が1人で切り盛りしていた。
煮干しラーメンの常として刻んだ玉ねぎが乗っている。
そして、無料でスタミナ納豆丼も付けてくれるというので頼んでみる。
おかげでかなり腹が膨れた。

さて、供述通りバスで現場を目指してみることにしたい。

浅草六区から千住大橋へは、現在でも都営バスの草43系統が通っており、休日は20分に1本走っている。平日は30分に1本であり、観光志向のダイヤといえようか。

浅草公園六区はあくまでターミナルではなく途中停留所であるが、乗り場が1番と2番に分かれている。そのくらいターミナル性が強いということであろう。
決死モデル:チームPさくら

1番の乗り場はこれから乗る草43系統の他、尾竹橋通り(町屋駅前)を通って足立梅田町へ行く草41系統の乗り場でもある。
乗客はその草41系系統の方が多い模様。

バスは国際通りを北上し、三ノ輪で国道4号線に合流する。
そして問題の千住大橋を渡り、京成線のガードをくぐったところで「京成中組」のバス停となる。ここが千住大橋駅前。

そして国道4号線を大橋方向に戻る。
昭和2年に架橋された千住大橋は東京でも・・・というか江戸でもかなり由緒のある橋だそうで、16世紀に架橋された時は単に「大橋」と呼ばれていたのだという。
それは「入鉄砲に出女」の時代、江戸に出入りする橋を架けることをこの大橋以外に許可されていなかったからであるという。
決死モデルチームPウメコ

また、この大橋は松尾芭蕉の「奥の細道」のスタート地点でもあり「矢立ての地」の碑も立てられている。

・・・で、事件現場といえば荒川区側にわたって八紘一宇の碑を上流側に歩いた所であろうと思われる。
八紘一宇の碑は、陸軍大臣 林銑十郎の揮毫によるものであるとのことなので、昭和8~9年の建立であろう。

橋から現場を見渡すには、隣に係っている千住水管橋が邪魔である。
特段河川敷として整備されているわけではなく、無機質なコンクリートの堤防となっている。それは事件当時も同じであったそうな。

さて、ことのついでに新しく開業した虎ノ門ヒルズに行くことにしたい。
千住大橋からだと南千住駅まで歩いていくのが一番近そうである。

事件当時の一杯飲み屋があったであろうサンパール前の交差点・・・はもういいや。ダークツーリズムはもうここでおしまい。
南千住駅まであるいて、日比谷線で虎ノ門ヒルズ駅へ行くことにする。
決死モデル:チームP芳香ちゃん

虎ノ門ヒルズは、開業2日目であるが特段何があるというわけでもない。
とはいえ数人が写真を撮っていた。

あとは適当にブラブラ歩いて終わり。
何と今日はPメンだけで全日程が完結した。

 

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