【義手と義足の昭和史】進駐軍の米兵と義足の紳士(S27.9.25)

昭和27年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効するまでは、国際法上は日本は「独立国」ではなかった。
だからMADE IN JAPANの製品は「MADE IN OCCUPIED JAPAN」と表記しなければいけなかった。

そしてめでたく「独立国」となってからも、米兵はまだ日本に居続けることになった。
それは朝鮮戦争のためである。

だから、その頃の日本で「米兵がいる」ことは日常のことであった。

その講和条約発効からちょうど5か月が経過した昭和27年9月25日の徳島新聞の随筆欄に、後年「新宿警察」「人斬り家業」で知られることになる藤原審爾が寄稿している。
この時期、藤原は直木賞を受賞するが肺結核のために入院生活を続けていた。
それがなぜ、縁もゆかりもない徳島県の新聞に寄稿するのかは不明ではあるが、兎も角も、こんなことがあったようで・・・

昼下がりの中央線の電車の中でこんなことがあったのだそうな。

4人の米兵が乗っており、彼らは朝鮮戦争に従軍する兵士の肩章を付けていた。
左端に座っていた20歳ぐらいの米兵がタバコを吸いだす。
その米兵の前に立っていた学生は憮然として床を蹴って別の所に移動する。
その学生の隣にいた職人風の男も同様に別の場所に移って行った。
その結果、4人の米兵の前だけぽっかり空いてしまった。
右端の米兵は困った顔になった。
国電は次の駅に停まり、乗って来た3人ぐらいの青年客と行商風の老人が米兵の前に立つことになった。
米兵は狼狽したような顔で老人に煙草を勧める。
老人は周囲の雰囲気を察して「要らない」という。
残る青年たちにも煙草を勧めたが「自分たちはすでに持ってるので」と言って謝絶。
これで車内の雰囲気が険悪になった。
すると、その米兵の隣にいたステッキを持った紳士が、その米兵から煙草をもらって吸い出した。
それで、車内の険悪な雰囲気はなくなった。
次の駅に停まると、そのステッキの紳士が下車した。
その紳士はビッコを引いており、義足だったのだ。
筆者は、その姿から「たたかう」ということの容易でなさを読み取るのだった。

・・・と、よく分からないのだがとにかく義足の紳士がそういうことがありました、という話であった。

昭和27年当時であれば中央線は40系などの旧型国電であっただろう。
それと、国電の車内はやはり禁煙だったはずである。
この頃の運転系統としては、既に昭和8年の時点でお茶の水~中野の複々線化が完成しており、各駅停車は両国~中野、両国以遠~飯田橋という系統で運行していたのだという。
それが戦後になり両国折り返しがなくなり千葉方面に直通するようになったのだという。

前掲の新聞記事が具体的にどこの駅のことかは不明であるも、東中野は現在の鉄道弘済会義肢装具サポートセンターが南千住に移る前にあった場所である。
決死モデル:チームPペギー

 

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