体重の推移は以下の如し。
一応炭水化物は摂取してないので体重は順当に減ってる・・・ と言いたいところではあるが、なかなかどうして減るのは鈍化している。
-2.0祭から4日が経過して、まだその水準に戻っていない。
体重の推移は以下の如し。
一応炭水化物は摂取してないので体重は順当に減ってる・・・ と言いたいところではあるが、なかなかどうして減るのは鈍化している。
-2.0祭から4日が経過して、まだその水準に戻っていない。
新京成で帰ろうと思ったらDB電車にエンカウント。
DBと言ってもドイツ国鉄のことじゃなくてドラゴンボール。
(旧国鉄色)です。今日の東京新聞朝刊千葉版から。「乗りたくてオラワクワクすっぞ~ ドラゴンボール来月上映、新京成ラッピング電車」。映画「ドラゴンボール超(スーパー)ブロリー」の劇場公開に合わせ、26日から運行を開始。運行状況は新京成のHPへ https://t.co/sUSjnp4yRG pic.twitter.com/x8O7kKNkm7
— 東京新聞鉄道クラブ (@tokyotetsukura1) 2018年11月29日
昔の学制では、現在の防衛大学校に該当する学校として「陸軍士官学校」「海軍兵学校」があった(ただし現在の防大と直接の接続はない)。
そしてその上に「陸軍大学校」「海軍大学校」という現在の自衛隊で言う幹候学校みたいなのがあり、その陸大を首席で卒業すると、畏くも天皇陛下の前で講演を行う「御前講演」を行うのが通例であったようである。
下村定中尉の御前講演。マルヌの会戦の経過とその分析。
有名なタクシーによる兵員輸送にも言及。
末尾で日露戦争で只管突撃を繰り返した当時に触れつつ、数の上で優勢だった仏軍が敢えて退却を決断した点を肯定的に評価しているのが興味深い。 pic.twitter.com/Ehe5DrkRxd
— 退役 (@Schlieffen_Plan) 2015年12月8日
四肢のうち三肢までが無いという「triple」で最も有名なのは、エクアドルのVictoria Salcedoさんじゃないだろうか。
体重の推移は以下の如し。
「あまちゃん」のGMT5だか7だかも歌っていたが 〽師走は忙しい~
まずは最近全然洗濯物が乾かないのでコインランドリーで洗濯を乾かして、しかる後に団地の自治会役員の関係で防災訓練(消防署にも協力を仰ぐ本格的なもの)をやったりなど。
体重の推移は以下の如し。
まあ昨日-2.0祭したので減ってるということはないだろう。
ただ10回平均で見れば確実に減ってる。
この調子で-3.0の高み・・・いや低みを目指していきたい。
そのためには引き続きカロメ生活を続けていくのみである。
体重の推移は以下の如し。
第319回で、「体重が-2.0になったらシャブ」と予告したら、あっさり到達してしまった。
さあこれはシャブだ・・・ とは思ったものの、これから仕事では徹夜案件があり、どこかに食べに行くということも出来ないので明日にすることにする。
この状態で徹夜案件なら、さぞ減っていることだろう。
別件で八王子に来たので・・・
昭和29年1月19日生まれのユーミンがちょうど1歳を迎えた頃の話でダークツーリズムを敢行したい。
「はれのひ」騒動にユーミン実家呉服店も怒りの声 「被害に遭われた方は、最悪の1日」 https://t.co/YzhfICSs7E @zakdeskから
— e-town八王子☆イータウン八王子 (@e_hachiouji) 2018年1月11日
2015年4月「かわいすぎる市議」として八王子でトップ当選した社会党候補がいる。
思えば、当選当初からこんな論調が目立っていた。
かわいすぎる社民党候補者、佐藤あずさ(30)がトップ当選! http://t.co/LBbifRGBps
美人コンテストですか…
社民党や共産党に入れる方は
正気では無いと思うのだが… pic.twitter.com/a2l3nB25xJ
— パンパカ工務店 (@kitanihonganba) 2015年4月26日
社民党が産んだ左翼のアイドル
佐藤あずさ4/27 八王子市議選に立候補していた社民党の佐藤あずさがトップ当選
客観的に考察すると言える事は3つ
①社民党の人を見る目のなさ
②土井たか子はまだ死んでない
③日本の未来は暗いぜ pic.twitter.com/S3E3Q5ot1T
— Shhh… (@neo_touj0u) 2015年4月27日
「義手と義足の昭和史」前回で紹介した盧溝橋事件の1か月後。
今度は上海で戦闘状態が勃発した。これが「第二次上海事変」である。
これは「LIFE」誌の1937年10月4日号に掲載された「上海南駅の赤ん坊」という有名な写真であるという。
日本軍の爆撃により一人上海南駅に投げ出され、大火傷を負った赤ん坊。
Wikipediaによれば、以下のような状況であったという。
午後4時、16機の日本軍の飛行機が来襲し、空襲によって上海南駅で杭州行きの列車を待っていた市民たちが多く死傷した。王小亭は急いで彼の車で廃墟となった上海南駅に駆け付けた。彼が駅についたときの惨状と混乱を、彼はこう語っている。
「それはひどいありさまでした。人々はまだ起き上がろうとしていました。死者や負傷者が線路やプラットホームを越えて散らばっていました。手足がそこらじゅうにありました。私の仕事だけが見たものを忘れさせてくれました。ふと、私の靴が血で浸されているのに気付き、私は映写機の再装填をやめました。線路まで歩いていき、頭上の燃えている橋を背景に長回しのシーンを撮りました。そこで線路から赤ん坊を拾い上げプラットホームに運んでいる男性を見つけました。彼は別の酷く傷ついた子供のところに戻って行きました。その母親は線路で死んで横たわっていました。私がこの悲劇を映画に撮っているときに、飛行機が戻ってくる音が聞こえました。即座に残った映画フィルムで赤ん坊を撮影しました。私は赤ん坊を安全なところへ運ぶために走って行きましたが、そのとき赤ん坊の父親が帰ってきました。爆撃機が頭上を横切りました。爆弾は落ちてきませんでした。」。
やけどを負い、けがをして泣く赤ん坊の名前も性別も、この後生き残ったのかも不明のままである。
いずれ、この写真は、アメリカの中国への同情と、反日感情をあおることになったのだという。
ちなみに、この当時の上海南駅は、現在杭州への高速鉄道が発着する上海南駅とは全く別の場所にあり、上海軌道交通4号線の「西蔵南路」と「南浦大橋」の間ぐらいにあったのだという。現在の上海南駅は、上海市街の南の外れ。
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昭和8年「我が代表堂々退場す」の時は、中華民国は満州非承認の急先鋒であり、なおかつ中国大陸では局地的な戦闘が勃発していたとは言うものの、全面的な戦争に至っているというわけではなかった。
その舞台となった盧溝橋の歴史は非常に古いく、金代の1192年に完成している。
そして13世紀に「東方見聞録」をものしたマルコ・ポーロは、この盧溝橋を「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と表現したというほどの橋である。
爾来七百幾星霜、科挙に赴く受験生が渡ったかもしれないし、宦官が渡ったかもしれない。
そして元代、明代、清代ときて中華民国の時代となり、中国も外圧という形ではあり、非常な痛みを伴いつつも近代国家の道を歩んでいくことになる。
中華民国になって26年目、すなわち民国26年7月7日の晩、謎の発砲が起きる。
日本軍はこれを中国兵の仕業であると難詰した。
このいざこざは思いのほか大規模な戦闘に発展することになった。
これが日中戦争の始まりである。