昭和30年のサイコパス

別件で八王子に来たので・・・
昭和29年1月19日生まれのユーミンがちょうど1歳を迎えた頃の話でダークツーリズムを敢行したい。

昭和30年の節分の日、八王子市内の飲み屋の女将が殺される事件が発生した。

後年、Wikipediaオワリナキアクムにまで載るような後年語り伝えられる事件である割に、当時の新聞での扱いは比較的小さいことがここから見て取れる。自分の場合「警視庁犯罪捜査記録 兇悪編」(成智英雄著 朝日書房 1959)=以下「成智本」=が本件を知るきっかけとなっている。

この新聞記事には「福笑い」云々のことは書いていないが、成智本には詳細に書いており、預金通帳と現金が無くなっていることから強盗事件と判断されるに至った。

また、同じ紙面では青ヶ島救援のためのヘリ第1便が出る旨が報じられている。この件は拙ブログでも「【義手と義足の昭和史】(5)義足なんか盗んでどうするの?」(S29.3.6朝日)でも触れているが、昭和28年11月から船が欠航し物資が何もない状態であることが報じられている。
このため、支援物資を送ろうという動きが報じられていたものである。
都立三田高校のグループが熱心に動き、意気に感じた製菓会社やセスナ機の会社も強力に動いていたが、都側は「ともかくも一番機は都で飛ばす」と言っているのだった。腰が重い割には手柄は都で取りたい、というお役人の根性を感じる。

事件の話に戻ると、捜査は比較的難航したようである。
被害者は年増の美人、男出入りもそれなりにあり痴情の線から常連客に捜査の中心を置いていたようである。

結局、粘り強い指紋照査の結果、現場に遺留されていたビール瓶と同じ指紋を発見、事件から2週間が経過した17日に同じ八王子市内の多摩少年院を出た19歳の少年を手配することになる。

成智本によれば犯人の少年はこの記事を山谷のドヤ街で見ていたのだという。
そして原文ママによれば「ヤバく(危く)なったから俺はズラかるぜ」と共犯の若者に言ってどこかへ逃げたらしい。
まだ「ヤバい」という言葉は一般的ではなかったようである。

この日のその他の記事に目を移すと、横浜の戸塚聖母の園火災の記事が掲載してある。
こちらは養老院の火災で、99名もの死者が出ている。
この時点での重大な火災として、昭和15年の西成線ガソリンカー火災(死者178名)、昭和26年の桜木町事故(死者107名)を挙げている。

結局この少年が逮捕されるのは、その10日後の2月27日となる。
この時点では少年であったため、実名報道はされていない。

また、新聞での扱いも小さいのでやはり成智本によってその経緯を振り返ってみると、犯人の少年自身の供述では以下のようになっている。

僕は去年十二月八日、(共犯)君は今年一周十日に多摩’少年院を退院しました。一周二十二日頃に国電の山手線の電車の中で、偶然(共犯)君と出逢いました。
(中略)
僕は(共犯)君と相談して一山ふむ計画をして一周二十七日に渋谷区上通りの宝華園というそば屋ヘ「吉川四郎」という偽名で住込みました。そして二十九日の朝七時に電話で(共犯)君を呼んで、ビール四本とカメラ一台を盗って、ボストンパックに入れて逃げて足立区北千住でカメラを三千円で売って、その夜は山谷の大島屋ヘ泊って、八王子の(被害店舗)のマダムを殺して、お金を取る相談を致しました。
僕が多摩’少年院を出て、院外補導少年として、そば屋の「江戸芳」という店へ出前持ちに雇われて住込んでいた頃、一度(被害店舗)のマダムがそばを食べに来た事がありました。そのときマダムは一人暮しで大金持ちだという話を聞きましたし、とても綺麗な優しそうな小母さんなので、その後三度ばかり行って飲食した事があります。その時マダムが僕を「江戸芳」の息子だと感違いしているので、「そうです、三男坊です」と云うと「道理で旦那さんとそっくり・・・」と云われた事がありました。
その頃は五十位の女中さんが一人いましたが、通いだという事でしたし、あそこなら気を許して飲ませてくれる、お金も沢山ある、死人に口なしだから完全に殺して、証拠を残さないように上手にやれば、絶対に捕るような事はないと思ったので、あそこへ行く事にきめたのです。
(共犯)君も大賛成をしたので、僕は(被害店舗)の見取図を書いていろいろ計画を説明しました。
(共犯)君は黙って聞いていましたが「隣の家もくっついていて、それに交番が近過ぎて駄目だ」と云うので僕は、「うんと酔わせて根棒か何かで殴って即死させて金を盗れば簡単だ」と去いました。(共犯)君はじっと図面を見て、「いくら酔払らわせても、隣との境が板一枚じて声でも出されたらおしまいだよ」というので、それもそうだと思って、二人でいろいろ考えてみましたが、なかなかいい考えは出ませんでした。すると(共犯)君が「福笑い」遊びをして、目隠しをしている時に絞め殺したら、どんなもんだろう」というので、僕は名案だと思って賛成しました。
(中略)
私が前に来た時は中野町のそば屋「江戸芳」に住込んでいたので、マダムは私をそこの息子だと信じているので、すっかり安心して陽気にはし々いで、とても愉快そうでした。その時横顔を見て(こんな綺麗なマダムの息の根を止めて、ここにあるお金をみんな頂戴するのだと思うと、痛快だなあ)と
思いました。
(中略)
マダムはあと十分で殺されるのも知らないで、愉快そうに炬燵の上へ福笑いのおかめの絵をひろげているのを見ると、おかしくもあり面白くて堪りませんでした。僕と吉井は舌を出して、この計画遂行を悦び合いました。
(中略)
今考えてみると、あのマダムには気の毒とは思いますが、僕が生きてゆくためには、あんな事をするより外に方法がなかったので、仕方がなかった事だと思っています。
今後は心を入れかえて真人間になりますから今回の事だけは、何とかご寛大にお願い申上げますこの外別に申上げる事はありません」

もうこれサイコパスだろ?

成智本の著者・成智英雄はこの犯人を「戦争が生んだ奇形児」として、アプレゲールと一緒に扱っているが、人を殺しておきながらここまで悪気がないとなると、今なら「サイコパス」と言われるだろう。

裁判は9月に行われ、既に20歳になった少年は実名が出ている。
成智本によれば、弁護側は不幸な生い立ちであることから情状酌量を狙っていたようである。

  • 昭和10年? 活動写真の弁士の六男として葛飾区に出生
  • 昭和12年 母が家出し行方不明
  • 同年夏 広島県に移住。父子だけの生活。
  • 昭和20年 原爆時は山にいて無事
  • 茨城県稲敷郡江戸崎の伯父宅へ
  • 昭和24年 江戸崎中学校2年の時に、窃盗で逮捕され茨城学園に収容。
  • 昭和25年 足立区内の飲食店で働きながら足立区立第二中学校を卒業。
  • 同飲食店で金の持ち逃げで捕まる。
  • 昭和26年8月 喧嘩で日本橋署に捕まる。
  • 昭和27年7月 詐欺や窃盗6件で南千住署に捕まる。
  • 昭和27年10月 窃盗で滝野川署に捕まる。
  • 昭和28年1月 自転車泥棒で神田署に捕まり、多摩少年院へ。

もう生まれついての犯罪気質であり、刑務所の中でしか暮らせないような人間だったのだろう。
結局、2人とも死刑が宣告されることになった。

事件の場所は、八幡神社のマーケットというが、成智本に割と詳しく書いており、だいたいこの通りではないかと推測される。
「マーケット」と呼ばれていた中で、現在でも営業しているのは角の花屋だけだった。
決死モデルチームPウメコ

しかしデカレンジャー出身とはいえ、このような場でニコニコ写真撮らせてる自分もたいがいのサイコパスではないだろうか。

そして次なる用件のために京王八王子略して京八から慶応戦の電車に乗ることに。

京王八王子は京八だけに「k-8」という駅ビルがある用である。

 

 

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