今日は両国からbb baseに乗って輪行である。
輪行ついでにダークツーリズムも入れることにしたい。
おせんころがしの事件とはどのような事件であったか。
昭和26年10月11日の読売新聞夕刊に第一報が報じられている。
断崖絶壁の名勝として知られる「おせんころがし」で、母子三人が殺され、生き残った幼い娘が泣いているのを近くの寺の住職が見つけ、警察に届け出たものである。
いわく、10日夜に興津町方面から小湊町方面に母子四人で歩いていたところ、自転車の男が母に話しかけ、口論になっておせんころがしの崖から全員をつきおとしたのだという。
そして娘だけが生き残ったのだという。
この時代、房総半島の主要な県道であったとはいえ、街灯なんて無かった時代、女子供にはかなり暗い恐ろしい道だったのではないだろうか。
個人的な思い出であるが、子供の頃、夜道を歩く時は「ちゃんと電池(懐中電灯)持ったか?」と聞かれたものだった。
ではなぜそんな夜中、寂しい道を幼い子3人連れて歩いていたのか?
それは行方不明になった父を探していたからである、という。
その父は、ヘビ行商という今では珍しい仕事についているようだった。
どんな仕事だろう?
ヘビを捕まえて蒲焼きにするとか?
それはともかく、発見した近所の寺の住職は「夷隅郡興津町」で、発見された場所は「安房郡小湊町」。
勝浦とか興津というのは夷隅郡つまり大原や大多喜と同じ括りになるらしい。
発見の経緯としては、興津町の住職が、隣町にある日蓮生誕で有名な誕生寺に出勤の途中、あまりに海が綺麗なので、県道から崖を下りてみた。
そしたら泣いている女の子を見つけた。
こんな誰もいないような断崖絶壁で幼い女の子が泣いているとはどういうことか?
「こんな寂しい所でどうしたの」
「お母ちゃんが殺されたの」
殺されたとは尋常ではない。
近くを見てみると、母子3人が惨殺されているではないか!
急いで警察に通報した。
考えてみれば「あまりに海が綺麗なので心を動かされ」なければ発見はされなかったわけである。
「海の美しさ」は母子三人の霊魂だったのだろうか。
日米野球が大きく報じられている陰で、小さく「おせん転がし母子殺し捕まる」との見出しで報じられている。
大原地区警察署に詐欺横領容疑で捕らえられていた菓子製造業の男が、おせんころがしの事件での容疑で再逮捕されたのだという。
いわく「小湊町へ向かう途中ゴザを盗み近くの空き家に誘ったが断られ…」とまことしやかに書いているが、おそらくは、想像であるが「この時に興津町から小湊町に向かっていた男」は他にもいたのかもしれない。
周囲には勝浦や鴨川などそれなりに人口のある町もある。寂しい道であるとはいえ、往来がゼロということは無かっただろう。
そこへアリバイの立証できない男がいた、ということらしい。
後年になればすっかり分かっていることだが、真犯人はこの男ではない。
とんだとばっちりであった。
ところでこの男の住居は「夷隅郡東海道」とあるが、まさか房総半島で東海道でもないだろう。そもそも自治体名ですらない。
「東海道」と誤植し得るのは、おそらくは東海村ではないだろうか。
大原町の北側にあり、昭和30年3月31日に大原町と合併して消滅し、現在は「いすみ市」になっているが「いすみ市立東海小学校」としてその名を今に残している。
おせんころがしの事件は解決しないまま、年を越して昭和27年に入ることになった。
その1月16日、今度は県都千葉市に近い検見川町で事件は発生した。
検見川町の60代と20代の二人暮らしの家で殺人事件が起きたというのである。
その20代女性被害者を「フラッパー」と形容している。
フラッパーとは?
調べてみると、「おてんば」とかそのような意味合いがあり、昭和初期にはアメリカで「フラッパーファッション」が流行したのだという。
現在では通用していない英語が氾濫していたのも、やはりoccupied Japanならではだったのだろうか。
ともかくも被害者の男関係は多かったということが報じられている。
いきおい、捜査の焦点はそちらに当てられることとなった。
しかし被害者宅は随分と荒れ果てたあばら屋であることよ。
昭和26年という時代を考えても、かなりのものである。
後々分かることだが、この「あばら屋」であることは、犯人にとって外から覗きやすく、犯行を容易にしていたことが分かっている。
ターゲットは女しかいない「弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者を叩く」典型的な事件だった。
それは、他にも盗みを働いており、その線から検見川町での殺人も自供したということであった。
自供して精神的に楽になったのか、どんぶり飯を2杯も平らげたという。
この事件についての報道はこれだけにとどまっているので、他の記事を見つつ時代相を紐解いていきたい。
この記事の隣には、「館山の売春宿に売られていた埼玉県鳩ヶ谷の元バス車掌のうち、残り1名が浦和市警察署に保護」というニュースである。
昭和20年代の警察史には、こうした事件がまだ沢山ある。
家出娘がよく狙われていたのだが、バスの車掌という女性にしてはかなりいい職業でもこうして狙われていたというのが驚きである。
そうかと思えば、今は「チーバくん」の鼻先となっている関宿町の二川中学校では、教頭があろうことか女生徒を妊娠させたという事件が起きている。
女性が被害に遭う事件が3連発で報じられている。
昭和をノスタルジーで語るのは容易だが、女性にとってさぞ恐ろしい時代であっただろう。
昭和28年3月4日の読売新聞では「第二の小平?」という言い方で検見川町の事件の男の余罪が報じられている。
既に検見川の事件は千葉地裁から死刑が言い渡されており、東京高裁に控訴している身であった。
ちなみに「小平」とは、戦後の混乱期に食べ物で釣って8人の女性を強姦殺人した小平義雄のこと。
「男はつらいよ」でも、寅さんが「助平の始まりは小平の義雄」などと口上している。
この時点で分かった余罪は以下の通り。
・昭和23年1月 静岡県沼津で女性を殺害
・昭和26年8月 栃木県小山で女性を殺害
・日時不明 青森県内で女性を殺害
実にいろいろな所で女性を殺害していたのである。
それで、収監中の宇都宮拘置所から静岡県まで連れ出して、遺体を捜査すると、供述通り女性の白骨死体が出てきたというのである。
死体は千葉県匝瑳郡(八日市場の方)の女性で、闇商売の仲間であったという。
そして、おせんころがしでの事件との関係が分かったのは、実に昭和28年も押し迫った12月のことであった。
呼び名も「死刑囚」に変わっている。
また、この昭和28年の5月18日には、県道であったこのおせんころがしの道路は二級国道128号館山茂原千葉線に指定されている。
死刑囚に名の変わった犯人の話に戻ると、この他にも福島県いわき市でも女性を殺害したという。
どれだけ殺してんねんというほどのものであった。
結局、この12月21日には宇都宮地裁でも小山の事件に関して死刑が言い渡され、1人で死刑判決を2回下されるという非常に珍しい例となった。
死刑が執行されたのはこの6年後の昭和34年10月14日、宮城刑務所においてであったという。
ちなみに、カービン中事件の犯人が東京拘置所の死刑囚をについて著した「さらばわが友 実録・大物死刑囚たち」には、本件の犯人は全く出てこない。
ちなみに、同書は以下の事件について扱っている。(拙ブログで取り上げている事件はリンクした)
- 帝銀事件
- 三鷹事件
- バー・メッカ殺人事件
- 市羽村四人殺し
- 元町小学校女児殺害事件
- カービン銃事件
- 小松川高校女高生殺人事件
- 雅樹ちゃん誘拐殺人事件
・・・という事件のダークツーリズムへ赴くことにする。
で、例のホテルに1泊しての感想は・・・
そんなに不快なことはなかったが、でも8000円だの6400円取るようなホテルじゃないだろ、というのが正直なところ。
このコロナ禍の中、よく営業が継続できるものである。
さて、両国駅へといきましょう。
朝の日差しが強い。
撮影は結構苦労しそうである。
両国駅に到着すると、それらしき自転車の集団が既に集まっている。
・・・と思って、レンタサイクルのプレハブで聞いてみると、これはまた別のグループで、BB baseの受付は、駅の脇の作業用の入り口であるということだった。
ちなみに、BB baseでの旅は「パック旅行」という扱いになる。
それで、みどりの券売機でカードで切符を受け取ろうとすると「受け取り可能なご予約はありません」と表示される。
一瞬肝をつぶすが「切符」ではなく「ツアー」を選択すると出てくる。
かつて房総方面の急行列車や海水浴列車の出発ホームだった列車ホームは、現在は臨時列車のためにだけ残されている。
「BB base」は既に到着して出発を待っていた。
(決死モデル:チームY城ヶ崎;電磁戦隊メガレンジャー出身)
車内は基本的に2+1列のボックスシートで、ドアの脇に自転車を立てかけるスペースがある。
自分の場合、折り畳み自転車で車輪が小さいので、アームは展開せずに立てかけることになる。
これをナイロンワイヤーで括り付けて出発ということになる。
基本的には、両国を出ると本千葉で客を拾い、降車側は上総一ノ宮・勝浦・安房鴨川で客を降ろす、という運行計画となる。
ただし、市川で運転停車して特急を先に通し、千葉でも運転停車する。
(決死モデル:チームTアンヌ;ウルトラセブン出身)
本千葉での停車時間は3分程度であっただろうか。
ホームに出て決死するには十分な時間ではあった。
景色は住宅地から農村となり、そして太平洋の雄大な海景色となる。
上総一ノ宮で結構な数の客が降りる。
そして次の停車駅は勝浦となる。
勝浦では1番線に到着し、やはり作業用のスロープからの出入りとなった。
(決死モデル:トルソーさんのファラキャ;超電子バイオマン出身)
勝浦の駅前には棕櫚の木が植えられており南国ムードを醸し出している。
最近はGOTOキャンペーンの宿がクラスタになってしまった。
ここから小さな市街地を抜けて国道128号線を南下していく。
意外にアップダウンが激しく、漕ぐのは結構難儀する。
上総興津の駅までは3.4km程度であるというが、アップダウンが存外に激しく序盤からかなり運動させられる。
それと、歩道が無い所があったりで結構危険である。
そして上総興津の駅へ。
典型的な千葉局型駅舎が現在でも残っている。
「安房」ではなく「上総」なので、まだここは夷隅郡で「大原の方」なのだ。
(決死モデル:チームP桃園;大戦隊ゴーグルファイブ出身)
正にこの駅舎の中で、被害者母子は休んでおり、加害者は声をかけたのだ。
現在では、もしかしたら生き残った女児と同じ年の頃ではないかという老人が休んでおり、そのうちに東南アジア系の女性グループがやってきた。
安房鴨川行きが1番線に到着すると、海水浴客が出てきた。
外房のメインルートである国道128号線で特徴的なのは、歩行者用のトンネルが自動車用のトンネルとは別に整備されていること。
その何個目かのトンネルの前で左の小道を抜け、おせんころがしの碑へ。
(決死モデル:チームWB嵐山;太陽戦隊サンバルカン出身)
今回の事件自体、崖から転がされて殺された事件ではあるが、この事件に因むものではなく、大昔の「豪族」がどうたらとか言っていた時代のこと。
この土地の領主は、領民に重税を課していたのだという。
これに反抗した領民たちは領主を崖から海に落とした。
しかしそれは「おせん」という領主の娘が身代わりになったものだった。
この事に良民たちは嘆き悲しみ、おせんを慰める碑を建立したのだという。
また、父親である領主も心を入れ替えたのだという。
最近では不法投棄を禁じる看板ばかりになっており、まるで「汚染ころがし」である。
そして今きた脇道の逆を行き、旧道に入る事にする。
こちらのアップダウンが激しく曲がりくねった道こそが元々の国道128号線であり、被害者と加害者が通ってきた道でもある。
・・・と、上半身裸の老人が、屋号の書いた大きな魚籠を背負って新国道を渡ろうとしている。
房総の漁村の原風景とも言うべき人ではないだろうか。
ここからは地形に沿って旧道を行く事になる。
左手の崖下には太平洋が広がる。
そして「不法投棄禁止」の看板が立ち並ぶ。
途中から、ガードレールが石造りのものとなる。
この石造りのガードレールは、もしかしたら事件当時を知っているのだろうか。
鴨川方面に向かう被害者母子を見ていただろうか。
(決死モデル:チームPウメコ;特捜戦隊デカレンジャー出身)
いみじくも、現場の海岸では父子が海水浴をして遊んでいた。
その他にも海水浴客が「危険 遊泳禁止」の看板も糞食らえで遊泳している。
被害者を突き落としたであろうまさにその場所で、若い女性3人組が写メを撮っていた。
そんな事件から69年目の夏の風景。
さて、この先はトンネルを抜けると鴨川市に入る事になる。
そして日蓮誕生で知られる誕生寺となる。
この先は、清澄寺の千年杉でも見ようかと思った。
清澄寺は結構な山にあるので、登っていかないといけない。
というか、昨日今日と自転車を漕ぎすぎてもう平地すら前に進まない。
なぜここまで疲れる?
食後に眠くなる状態で自転車を漕いでいるとこんな疲れが来るとか?
もう清澄寺は後にしよう。
とにかく鴨川を目指そう。
安房天津のあたりは典型的な宿場町のように思えた。
そのバス停は「仲宿」。
いい感じに昭和が残っていた。
ただ廃墟化している家屋も多かった。
(決死モデル:チームRナオミ;仮面ライダー電王出身)
鴨川市域に入ると、巨大な病院が目に入る。
これは「亀田病院」と言い、攻めの経営で有名な病院であるという。
救急ヘリ用のヘリポートまであるというので驚きである。
だいたい1時間強の余裕を残して鴨川入りすることができた。
ちょっとココスで一休みするか。
ココスの何がいいかというと、ホットミルクが飲めることである。
この間に写真のexif付けやブログつけを行う事に。
そして、30ふん前になったので安房鴨川駅を目指す。
安房鴨川は、木造駅舎の前面に南欧風のハリボテを擬したファザード建築である。
bb baseはその駅舎の脇から入る事になる。
いよいよこれで、bb baseの旅も終わる事になる。
(決死モデル:トルソーさんのラ・バルバ・デ;仮面ライダークウガ出身)
今回の輪行距離としては26kmで3時間24分。
都合、表定時速は7.6km/hとなった。