「帝銀事件と登戸研究所」展

現在、明治大学の施設となっている陸軍登戸研究所で、帝銀事件に関する特別展をやるのだという。

帝銀事件と言えば、いまさら説明するまでもなく昭和23年に帝国銀行椎名町支店で発生した大量毒殺事件で、テンペラ画家だった平沢貞通が逮捕され、戦後の長きにわたり冤罪が争われた事件である。
私事になるが当方の祖父はある田舎の金融機関に勤めており、帝銀事件の話がテレビで出ていたのを見て、「あの事件が発生した時は、お茶なんて出されても飲むもんじゃないなという話をしていた」ということだった。

さて、という事で今日のダークツーリズムはズバリ「帝銀事件」である。

松戸から登戸に行くのは意外に難しいことではない。
特に今年3月17日のダイヤ改正によって、小田急への乗り入れが唐木田ではなく本線筋になったことで、向ヶ丘遊園に行く系統ができたのだ。
今や小田急も小田急車あり、東メト車あり、JR車ありの多民族国家の様相を呈している。
決死モデル:トルソーさん霧島

登戸研究所とは言っても、小田急と南武線が交差する登戸駅が最寄りな訳でなく、むしろ各駅停車しか止まらない生田が最寄りである。

ということで、EXEの特急や快速急行をやり過ごして各駅停車に乗り生田へ。
生田の特に南口は、明治大学の学生がゾロゾロ歩いてくる。

明治大学の生田キャンパスは、ここからしばらく坂道を歩いていくことになる。
アップダウンの激しい川崎市の北側の地形で、なかなか急な坂を登らされることになる。
そして、学生が多い地帯である割には飲食店が少ない印象を受けた。

そんでまあバス停にして2区間分を歩いて登戸研究所を目指す。
研究所の近くには小学校があるようで、小学生がゾロゾロ歩いている。こんなところで決死でもしようものならチャイルドロックは必至であろう。

そして裏門のような所から入って陸軍登戸研究所へ。
基本的には陸軍登戸研究所というのは明治大学生田キャンパス全体の敷地に何棟もの研究施設があったものを、現在はこことあと数棟だけが研究所の面影を残しているだけなのだという。
決死モデル:チームWB嵐山

そもそもなぜ陸軍は登戸に研究所を設置したのか。
それは、まず東京の大本営に電車で1本であったこと。(市ヶ谷までなら省線で市ヶ谷まで?)
そして電波の研究の上で高台の上であることが有利だったこと、秘密を守る上で東京から離れていることが望ましかったこと、ということだったようである。

現在、博物館として公開されているのは、研究所の中でも隅っこにあった36号館のみであり、ここでは枯葉剤の研究を行っていたようである。

内部には風船爆弾のレプリカなんてのも置いてある。
風船爆弾を何で作っていたかというと、和紙である。
和紙を何枚も重ねてこんにゃく糊で固め足りなんだりすると、それなりの強度を得ることができるのだという。
極度にものが無かった中で、どうやって米英に抵抗するかということを研究していたということがこの博物館の中で示されている。
それだけではなく、中国やインドの偽札の研究や印刷も行っていたようである。
偽札で経済を混乱に陥れるのは、割と最近でも北朝鮮が「スーパーK」などと言って100ドル札を作っていたというほどのものである。

さて、肝心の「帝銀事件と登戸研究所」企画展であるが、パネル展が主となっている。

このほか、犯行に使われたであろうビンやピペットのレプリカ、そして登戸研究所の毒物研究の責任者の手記や、警視庁捜査一課の係長のメモのコピーも初公開のものもあるという。

この登戸研究所では毒物に関する研究もやっていた。
それで、帝銀事件の捜査にあたっては、毒物の扱いに慣れていたであろう満洲の731部隊やこの登戸研究所の関係者が捜査対象になっていた。
帝銀事件に関した言及した現今の資料では、「青酸カリで殺した」といった書きぶりになっているようだが、それだと余りにアバウトすぎるようである。

犯行に使われた毒物は、青酸カリということであれば一般でも ―――それこそ単なる画家であった平沢貞通でも――― 容易に入手することができたかもしれない。写真の現像や農薬にも使われていたということなので(徳島・勝浦毒ウイスキー事件に関する項も参照)。
しかし、検出された毒物は「青酸ニトリル」だったかもしれないというのだ。
同研究所関係者も、かなりの人が青酸ニトリル説(青酸カリではなく)を取っていた。
青酸ニトリルであれば、製造にはそれなりの施設が必要であり、一般の人間がそうそう手に入れるものではない。松本サリン事件だって、近所のサラリーマンが誤認逮捕されたが、その当初から「専門的な設備が必要なサリンを、一介のサラリーマンが製造できるものか?」という見方は存在しており、実際そのことで冤罪が晴れて釈放されている。そのサラリーマンは、後年長野県公安委員に就任している。(知事となった田中康夫のパフォーマンスかも知れないが)

警視庁捜査陣は「毒物班」「名刺班」(犯行時やその前の類似事件時に渡された名刺を手掛かりにしていた)と分かれて捜査にあたっていたようであるが、名刺班が実在の医学博士と名刺交換しており、出所不明の大金を持っていたテンペラ画家・平沢貞通を逮捕したことから、毒物班も「捜査方針の転換」を余儀なくされたのだという。
つまり「毒物は青酸ニトリルじゃなくて、青酸カリだよな?」という点である。
毒物班にとってはそれは青天の霹靂として捉えられた。

結局、「では平沢はどこで青酸カリを入手したのか」明らかにされないまま、死刑を宣告され爾後40年近くを獄中で過ごし、昭和62年に肺炎で死去することになる。
その間、昭和42年には時の法務大臣であった田中伊三次が一挙23人に死刑執行のサインを行ったが、平沢貞通だけは「これにはサインできない」と渋ったのだという。それほど冤罪性の高い事件だった。

登戸研究所は明治大学が買い取ることになり、理工学部や農学部といった理系のキャンパスが集まることになった。
現在博物館として公開されている36号館の近くでは、農学部のビニールハウスが何棟かあり、花卉を栽培しているようであった。

また、「秘密保持を徹底」されていたというこの広大な敷地では、明治大学のスクールカラーである紫紺の旗がなびいている。

この生田キャンパスへの交通機関は、生田駅へ歩いていくことの他、向ヶ丘遊園駅まで小田急バスが走っている。頻度にして日中は30分に1本。

向ヶ丘遊園駅は開業当初からの駅舎であり、破風部分には昔の小田急の社紋もあしらわれている。
ちなみに西条八十が「いっそ小田急で逃げましょか」と歌った昭和2年の開業当初は「稲田登戸」という駅名で、現在の駅名に変更したのは昭和30年であるという。
決死モデル:トルソーさんラ・バルバ・デ

帝銀事件が発生していた頃の登戸研究所はまだ明治大学に買収されておらず、慶應義塾大学や北里研究所が使用していたようである。
捜査関係者も小田急のHL車などに乗ってこの「稲田登戸」駅に降り立ったであろうか。

ところで、ラ・バルバ・デが水着姿なのは、嵐山がさっきまで着ていたRQ衣装を落とした時に、台座のポッチを折ってしまい、立てることができなくなってしまったためである。

そして新宿で省線・・・じゃなくて山手線に乗り換え、池袋で武蔵野鉄道・・・ではなく西武池袋線に乗り換え、椎名町へ。
決死モデル:チームYジャスミン

ちょっと前まで椎名町は北口だけの小さな駅舎であった。しかし現在では橋上駅になってしまっている。
ただし、事件発生当時は木造のいかにも「昔の私鉄」感あふれる駅舎だったようである。
そんな写真が、橋上駅に展示してあった。

「ターミナル駅の1駅先」こそがその私鉄の姿を示している、という説がある。
例えば東横線の代官山、京急の北品川、京王の初台、井の頭線の神泉・・・
西武池袋線で言えばこの椎名町ということになるが、椎名町駅周辺はごみごみした普通の商店街である。

そして、帝国銀行椎名町支店の跡は、現在は普通のマンションになっている。
「大島てる」にその記述はない。

 

 

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