事件は路線バスに乗って

今回のダークツーリズムは、オーシャンウィスキーに関する事件となる。

昭和32年2月23日、徳島県は小松島から山間部に分け入った勝浦町で、ウィスキーによる毒殺事件が発生した。

これを一番最初に報じているのは、翌2月24日の徳島新聞である。

四国八十八箇所霊場のうち二十番札所となる鶴林寺において行われた初会式の帰り、その26歳の青年にとっては「いつもの場所」で酒を飲んでいた。
ただし、「いつも」と違っていたのはその青年ほか2名の青年に名指しでポケット瓶のウィスキーが贈られていたということ。その3人に対し「7分以内にそのウィスキーを飲み干して酔わなかったら、月給3万円の仕事に採用する」とのこと。
それはかれこれ2週間前であり、送り主は知らない人であった。
贈られた3人のうち1人は、その飲食店の息子であったが、本人は兵庫県伊丹の自衛隊にいることもありウィスキーに手を付けていなかった。
この時代のサラリーマンの平均給与は1万5千円強。月給3万円の仕事と言ったらその2倍になるので、相当魅力的ではあっただろうが、飲食店の息子は何か怪しいものを感じたのだろう。

しかし、冬とはいえまだ日はあったであろう午後4時半には、その青年は日本酒3合ですでにでき上っていた。
「怪しいからやめたら」「万一死んだら少しだけ証拠に残しておくよ」そう言ってラッパ飲みした次の瞬間、ばったり倒れてしまった。

医師による最初の見立てでは、急性アルコール中毒ではないかという診断であった。

翌25日の徳島新聞では、問題のウィスキーから青酸カリを検出したことを報じている。
事件は急性アルコール中毒ではなく、青酸カリによる殺人事件であるということが明らかになった。
そこで、県警本部長が自ら陣頭に立ち、捜査本部を立ち上げることになった。

では、問題のウィスキーがどのようにしてここまで来たのか。
その飲食店には電話が無かったようで、隣の雑貨店に呼び出しで、先の「7分以内に飲み干したら~」の電話が掛かってきたようである。
そしてその電話は、隣の集落の製材所の事務所からだということも突き止めた。製材所の主人も「午前中は事務所を空っぽにしている。でも事務所の前に誰かしらいるのに気づかなかったのだろうか」と言っている。
そして、該当のウィスキーは、その集落を走る路線バスによって、事件1週間前の17日に、飲食店の2軒隣の食料品店に届けられたものだった。このようなバスによる託送は、この当時は普通に行われていたということだろうか。

少なくとも、以下のことが分かる。

  • 被害者の26歳青年はその店に入り浸っている。
  • 製材所が空いている時間を知っている。

また、その地域の訛であることも判明し、事情を知っている土地の人間の犯行であることは動かしがたくなった。

さて、名指しされた3人のうち1人は今回被害にあった青年、もう1人は痛みの自衛隊に行っている飲食店の息子、ではもう1人は誰かというと、被害青年の同僚で30代の男であるが、20日頃問題のウィスキーを開けたら、白い沈殿物があったので手を付けないでいたのだという。

被害者に関して言うと、妻と2児があり、最近が土方として働いていたのだという。パチンコに凝ってはいるが恨みを買うような性格ではないとの妻の弁。

さて、ウィスキーがバスで運ばれてきたとなれば問題はそのバスである。

路線バスでワンマンバスが一般的になるのは昭和40年代も後半からのことなので、当時であればバスには車掌が乗務しているのが一般的な事であった。

そのバスは徳島バスで、徳島駅発福原行きとして運行されていたところ、徳島市を出て小松島市に入ったあたりで乗った身長5尺5寸ぐらいの25~6歳の男に、生名の停留所に着く前に「次でこれを下ろしてくれ」と頼んだのだという。5尺5寸というとだいたい165cmぐらい。当時はまだ日本国内での度量衡は尺貫法であり、翌昭和33年12月31日までそれは続いた。
ともあれ、焦点はその「ウィスキーを生名で下ろすことを頼んだ5尺5寸の男」に移ることになる。

ところで、電話の件は「製材所からの電話は重役が妹にかけたもの」「飲食店隣の雑貨店に変な電話があったのは14日ではなく13日では」などの証言が出て、事件はあやふやになっていく。

そしてその「5尺5寸の男」は意外にあっさり見つかった。

2月27日の徳島新聞が報じるところでは、それは小松島の29歳のミシンのセールスマンであるという。
このバスの終点の福原(上勝町)に用件があって行こうとしていたところ、停留所の近くの菓子店の娘に「これを生名の(該当の)飲食店に」ということで頼まれたのだという。

そのセールスマンが言うところでは「仕事でお世話になっている家の娘さんなので引き受けた。送り主の名前は、近くに似た名前の花火屋があるので、花火だと思っていた。ウィスキーとは知らなかった」という。
それとは知らずにウィスキーを届けて後は、仕事があったので生名で事件があったことすら知らなかったようだが、ラジオで「茶色のオーバーの男」と言われていたのが自分であることに気づいて新聞社に名乗り出たのだという。

ここまで割り出されても、警察は犯人探しにてこずっていた。
徳島の勝浦郡はミカンの生産で有名な地域。ミカン用の殺虫剤には青酸化合物が使われており、入手は簡単だったのだ。

ではその小松島の菓子店に、だれがウィスキーを預けたかということになる。

その店の女将がおぼろげな記憶を思い出すところでは、
「16日19:58の藤川(上勝町)行きが出てすぐ、男の人が表の通路で『生比奈へ行くバスはもう出ましたか』と聞く。包みを送るよう頼まれたので、21:08のバスもあるが、遅いので翌日の朝一番でもよければ」と受けたのだという。
そのようなバスでの荷物の託送は、この店ではよくあることであり、顔までは覚えていないとのことであった。
宅配便の無い時代の話、バスでの荷物託送は地方における貴重な物流手段であったということだろうか。

ところで、犯人として疑われているのは名指しされた3人のうちの1人でもある被害青年の同僚も同じで、容疑者でもない段階から実名報道されてかわいそうなほどである。
そしてまた、名前の一部を勝手に使われた小松島の花火師もいい迷惑である。それも、名前もあろうに「助平」とは・・・

さて、ここまで犯人が内部事情に通暁しているのであれば、知り合いの線であることはもう動かしがたい事実である。
特に、最後に小松島の菓子店に荷物を託送した男が一番怪しい。
曰く「身長は5尺5~6寸、黒オーバージャンパー、年は24~30歳」とかなり詳しい。

ただ、捜査の決め手となるのは、名指しされた3人のうち1人は兵庫県で自衛隊に入っていたわけで、それを知っているかどうか、ということにもかかっている。
それで、名指しされたもう1人もまた捜査線上には残っていた、という事である。

ところで、下の記事に「走るほど赤字の徳鉄」という見出しの記事がある。
ここで「徳鉄」と呼ばれているのはどうやら徳島県内の国鉄のようである。
日本国有鉄道だった頃、徳島県内・・・というか四国全体は、四国総局によって運営されており、徳島県内だけ独自の鉄道管理局というのはなかったはず。
かつて「徳島鉄道」と呼ばれていたのは徳島本線であったようだが、この記事のちょうど50年前の1907年(明治40年)と、明治期には既に「徳島鉄道」はなくなっているのである。(とはいえ、1953年に鉄道が廃止になって65年になる鞆鉄道や、1961年に鉄道廃止になって57年になる九十九里鉄道も、2018になる今なお相変わらず「鉄道」を名乗っているが・・・)
ちなみに、徳島県内各線の営業係数は、状態の良い順に高徳線170、徳島線187、鳴門線230、牟岐線241、小松島線302、そして鍛冶屋原線が366とどこもかしこも赤字という状態である。それでも後年の白糠線や美幸線の2千いくらという惨状を知っていると、このような数字も可愛く思えてしまう。

事件の話に戻ると、最初の怪電話は、実は徳島駅の公衆電話から掛けられたものではないかという疑いが強くなってきた。

2月28日の徳島新聞夕刊では、以下の人達を怪しいのではないかと睨んでいる。

  • 最初の怪電話で名指しされた3人のうち1人
  • 上記3人のうち1人(当該飲食店居住)
  • その母(当該飲食店経営)
  • 当該飲食店に下宿していた大阪の男性
  • ウイスキーを届けたセールスマン
  • 親友で徳島市内に住む運転手

動機としては、以前に交通事故で下りた保険金狙いではないかと捜査本部では睨んでいた。
この保険金で、飲食店や雑貨店へのツケを支払っていた。

そして2月は終わっていく。

月が変わって3月3日の徳島新聞では、これまで捜査線上に出てこなかった意外な人物を容疑者としてクローズアップしている。

それは、被害青年の父親である。
前日朝、この父親は「高野山に出かける」と言って出奔していた。

警察がこの父親に容疑を抱くに至った経緯は以下の通り。

  • 徳島駅から飲食店の隣の雑貨店に電話をかけていた男が、父親によく似ていた。
  • 小松島のバス停近くの菓子店にウイスキーを預けた男に似ている。
  • 3月2日朝、「高野山へ行く」と7:00発のバスに乗り、20:20の南海汽船「南海丸」に乗船している。
  • 息子が死んだというのにもかかわらず見舞いに行っていない。
  • かつて薬物商をしていた。
  • ミカン農家でもあり、殺虫剤に青酸化合物を使用している。
  • 送り主として勝手に名前を使われた花火師をよく知っている。
  • 探偵小説の愛読者なのでこれだけの知能犯をできそう。

昔の警察史を読んでいると「探偵小説」がやたら目の敵にされる。今でいうオタクのようなものであっただろうか。
実際、この父親も「内向的な性格」として徹頭徹尾描かれており、現在のオタクバッシングに通底するものすら感じる。

そして翌4日の徳島新聞夕刊で、父親を逮捕したことを報じている。

3月3日の16時から小松島警察署において任意で事情を聞いていた所、日が変わって4日の1時15分に自供して逮捕に至ったのだという。

なんで実の父親が息子を殺したのか・・・

  • 昭和30年夏頃、父親の金15,000円を持ち出して飲食店や女遊びに費消した。
  • ↑このことから息子を毒殺しようとウイスキー3本買ったが、自分で飲んでしまった。
  • 昭和31年8月、酔っ払った息子は「お前のような奴は親とは思わん」と暴言を吐く。ここで殺意を固める。
  • 飲食店の女将は息子を諫めるどころか酒を一緒に飲んでいる。
  • また、名前の挙がったもう1人も息子に酒を飲ませ不良化させている。

それで年が明け昭和32年2月初め、徳島市内でウイスキーと青酸カリを買い求め、自分の好きな写真現像室にそれを置いて機会を伺っていた所、2月10日に「おやじ!文句言うなら家に火をつけるぞ!」
この一言が実行のトリガーとなったようである。

さて、淡路島からだと洲本のバスターミナルから淡路交通のバスで徳島に来ることになる。
決死モデル:チームR持田

ところで、四国のバスターミナルで驚かされるのは、バス乗り場の歩道に接したところだけではなく、1列先の道路上もバス乗り場に使う事である。
松山に行った時、同じようなバスの並べ方で死角となり、危うい所で落出行きのバスを乗り逃がすところだったこともある。
また、徳島は四国の県庁所在地で唯一、市内や郊外へ行く私鉄が存在せず、都市交通の全てはバスが担っているという都市である。

また、犯行当時走っていた徳島駅~福原間のバスは、現在でも82番の徳島~横瀬間が健在であり、横瀬から先の福原までは、上勝町営バスとなっている。
ちなみに、その上勝町というのは人口1,400人という過疎の町となっている。

この横瀬行きのバスで生名を目指すことになる。
生名までは1時間強のバスの旅。

徳島市内から南小松島までは、県道120号線を走り、そこから先は山へ分け入り勝浦川沿いを走ることになる。
勝浦川沿いの県道16号線は曲がりくねっており、事件当時は補装もされておらず、より過酷な旅だったのではないだろうか。

そして生名に到着。
四国第20番札所の鶴林寺に最も近いバス停となってはいるが、ここから徒歩50分という距離である。
また、ここは勝浦町役場に近くはあるが、集落としては生比奈と横瀬の中間にあるだけという感じ。
決死モデル:チームYジャスミン

ところで、あのウイスキーをバスの車掌から受け取った食料品店、そして怪電話を受けた雑貨店が共に、現在でもここに存在していた。
ただし、該当の飲食店は既に更地となっており、奥に消防団の詰め所が立っていた。
事件の時は、消防団も怪電話で名前の挙がった1人の濡れ衣を晴らそうと一生懸命になっていた。

ところで、バス停の傍にある鶴林寺の石柱であるが、この石柱は昭和32年8月 ――― つまり事件の半年後に地元有志によって寄進されたものであるという。

「あのミステリーじみた事件の舞台」というイメージを払しょくする意図があったのかどうかは分からないが、事件後のこの地を60年以上見守っていたということに変わりはない。

現在では、道の駅が農産物直売所になっていたり、人形文化交流館ができていたりと、地域おこしに余念がないようであった。
沿道では、この地域特産のみかんが実り始めていた。
今でも、青酸系の農薬を使用しているのだろうか。

 

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