第323回水泳 ~欠損バーの前にひと泳ぎ~

体重の推移は以下の如し。

まあ昨日-2.0祭したので減ってるということはないだろう。
ただ10回平均で見れば確実に減ってる。
この調子で-3.0の高み・・・いや低みを目指していきたい。

そのためには引き続きカロメ生活を続けていくのみである。

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博&動

K・P・Pきゃりーぱみゅぱみゅの「最&高」は本当に最&高ですよね。本当に。
ああ何でこんなに最&高なんだろう。

で、腕のないKPPの周囲にミロのヴィーナスを何体も置いてるというのは、やっぱり「腕がない」というのが普遍的な女性美だってのを分かっててやってるんじゃないかと思うんだけどどうだろう?

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第321回水泳 ~準特急と特急の違い~

体重の推移は以下の如し。

第319回で、「体重が-2.0になったらシャブ」と予告したら、あっさり到達してしまった。
さあこれはシャブだ・・・ とは思ったものの、これから仕事では徹夜案件があり、どこかに食べに行くということも出来ないので明日にすることにする。
この状態で徹夜案件なら、さぞ減っていることだろう。

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昭和30年のサイコパス

別件で八王子に来たので・・・
昭和29年1月19日生まれのユーミンがちょうど1歳を迎えた頃の話でダークツーリズムを敢行したい。

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super-azusa

2015年4月「かわいすぎる市議」として八王子でトップ当選した社会党候補がいる。
思えば、当選当初からこんな論調が目立っていた。

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【義手と義足の昭和史】犬クンの義足(S13.3.13)

義手と義足の昭和史前回で紹介した盧溝橋事件の1か月後。
今度は上海で戦闘状態が勃発した。これが「第二次上海事変」である。

これは「LIFE」誌の1937年10月4日号に掲載された「上海南駅の赤ん坊」という有名な写真であるという。
日本軍の爆撃により一人上海南駅に投げ出され、大火傷を負った赤ん坊。

Wikipediaによれば、以下のような状況であったという。

午後4時、16機の日本軍の飛行機が来襲し、空襲によって上海南駅で杭州行きの列車を待っていた市民たちが多く死傷した。王小亭は急いで彼の車で廃墟となった上海南駅に駆け付けた。彼が駅についたときの惨状と混乱を、彼はこう語っている。
「それはひどいありさまでした。人々はまだ起き上がろうとしていました。死者や負傷者が線路やプラットホームを越えて散らばっていました。手足がそこらじゅうにありました。私の仕事だけが見たものを忘れさせてくれました。ふと、私の靴が血で浸されているのに気付き、私は映写機の再装填をやめました。線路まで歩いていき、頭上の燃えている橋を背景に長回しのシーンを撮りました。そこで線路から赤ん坊を拾い上げプラットホームに運んでいる男性を見つけました。彼は別の酷く傷ついた子供のところに戻って行きました。その母親は線路で死んで横たわっていました。私がこの悲劇を映画に撮っているときに、飛行機が戻ってくる音が聞こえました。即座に残った映画フィルムで赤ん坊を撮影しました。私は赤ん坊を安全なところへ運ぶために走って行きましたが、そのとき赤ん坊の父親が帰ってきました。爆撃機が頭上を横切りました。爆弾は落ちてきませんでした。」
やけどを負い、けがをして泣く赤ん坊の名前も性別も、この後生き残ったのかも不明のままである

いずれ、この写真は、アメリカの中国への同情と、反日感情をあおることになったのだという。

ちなみに、この当時の上海南駅は、現在杭州への高速鉄道が発着する上海南駅とは全く別の場所にあり、上海軌道交通4号線の「西蔵南路」と「南浦大橋」の間ぐらいにあったのだという。現在の上海南駅は、上海市街の南の外れ。

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【義手と義足の昭和史】西洋は見た目重視、日本は機能重視!(キリッ(S12.8.27)

昭和8年「我が代表堂々退場す」の時は、中華民国は満州非承認の急先鋒であり、なおかつ中国大陸では局地的な戦闘が勃発していたとは言うものの、全面的な戦争に至っているというわけではなかった。

その状況が一変するのが昭和12年7月7日の夜である。

その舞台となった盧溝橋の歴史は非常に古いく、金代の1192年に完成している。
そして13世紀に「東方見聞録」をものしたマルコ・ポーロは、この盧溝橋を「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と表現したというほどの橋である。
爾来七百幾星霜、科挙に赴く受験生が渡ったかもしれないし、宦官が渡ったかもしれない。
そして元代、明代、清代ときて中華民国の時代となり、中国も外圧という形ではあり、非常な痛みを伴いつつも近代国家の道を歩んでいくことになる。

中華民国になって26年目、すなわち民国26年7月7日の晩、謎の発砲が起きる。
日本軍はこれを中国兵の仕業であると難詰した。
このいざこざは思いのほか大規模な戦闘に発展することになった。
これが日中戦争の始まりである。

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第319回水泳 ~生涯2回目の119番~

体重の推移は以下の如し。

昨日は何の故でかシャブに・・・いや、しゃぶしゃぶに手を出してしまった。

炭水化物はないとはいえ、あくまで今はカロメ生活なので、ある程度以上まで下がらなかったらシャブには手を出さないことにしたい。
とりあえず次なる目標は-2.0としよう。-2.0に到達したら、シャブ食べ放題に手を出すことにしよう。

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【義手と義足の昭和史】我が代表堂々退場した頃(S8.12.13)

昭和8年2月24日、スイスはジュネーブで行われた国際聯盟総会にて。

リットン調査団の報告書に基づいた対日勧告書(満州国を国家承認せず、国際管理下に置くこと)が賛成42、反対1、棄権1の圧倒的多数で採択されると、大日本帝国の全権代表として出席していた松岡洋右は憤然として退場、翌25日の東京朝日新聞では「我が代表堂々退場す」という今日残る名文句の見出しで報じられることとなった。
ところで、この見出しでは「聯盟よさらば!」とあるが、国際聯盟の脱退を政府として決定したのは3月8日、それを国際聯盟に通告したのは27日であるという。

当方としても現在話題となっている百田某同様、Wikipediaで見る以上の近代史に関する知識は持ち合わせていないのだが、この後の日本の国際的孤立を象徴する出来事となったこの「堂々退場す」にしても、その前段階の「十字架上の日本」という、日本の立場を述べた英語の演説は、松岡のその英語力が英仏など各国の代表に好評ではあったという。

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【義手と義足の昭和史】もう一つの南京事件(S2.7.9)

現在、Twitterで「南京事件」で検索して最もいいねやRTが多いのは、安田峰俊氏のこのツイートではないだろうか。

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