たしかSHIHOだったと思う。
「いつまでも美しくいられる秘訣は何ですか?」と聞かれて、
「あなたの周りを楽しいこと、大好きなものでいっぱいにしてあげましょう」と回答していた。
何の雑誌だったか忘れたけど・・・
なるほどね~
SHIHOというとスタイリッシュなイメージを持っていたので、もっと「努力しろ」とか「節制しろ」みたいなことを言うのかと思っていたら、意外にガーリーな答えが返ってきたもんだと思っていた。
で、意外にそれは真理を突いていると思う。
現在自分は、ハンガーノック寸前まで栄養を摂取しない非常モードで暮らしているが、それこそSHIHOが言っていたように、「楽しいこと」「好きなもの」で自分の周りを埋め尽くしていないと、こんなラマダーンのような生活など乗り切れない。
では「自分の好きなこと」って何?
どうやって休日(会社に出勤しない日)を乗り切る?
・・・そうだ。久しぶりに「事件現場を歩く」しようか。
関東圏内でどこか日帰りできるところ・・・
そう。いつか行こうと思っていた茨城の徳宿村一家9人毒殺放火事件の現場へ行くことにしよう。
そういえば、あの事件は昭和29年の秋に発生した事件だったはず・・・
調べてみると、10月11日に発生している。つまり今日!?
その上、犯人の名前が志保(ただし読みは「いつほ」)なのである。
ちなみにSHIHOの本名は「矢野志保」。
どうも呼ばれれているとしか思えない・・・
という事で、例によって当時の新聞から事件を振り返ってみることにしたい。
昭和29年10月12日の茨城新聞(平成2年12月31日まで題号は「いはらき」)で大々的に報じられている。
日が変わって10月11日となった丑三つ時、ある農家から火の手が上り、そこからは一家9人の死体が発見された。
この火事を発見して誰も逃げたものがいなかったという事である。
発見当初は「強盗殺人説」「怨恨説」「一家無理心中説」「長男の癲癇発作説」が挙げられていた。
ちなみに、最後の癲癇説であるが、長男は2月から3月まで、順天堂大学病院に入院していたのだという。
この時期の順天堂病院というと、4月19日に近くの文京区立元町小学校で2年生の女児が絞殺され、最初にこの順天堂病院に運び込まれている。(拙ブログでも「昭和29年のロリペド事件」(2017.6.3)で言及)
もしかしたら、この長男も病院からの外出の自由があれば、近くの元町公園あたりで友達と遊ぶ被害女児を見ていたかもしれない。
同日の読売新聞茨城版も報道合戦では負けてはいない。時あたかも「社会部の読売」の全盛期である。
読売の方では、既に「白衣の男が怪しい」旨を報じている。
11月10日の15時頃、見知らぬ白衣の男が近くの農家で被害者の家のことを聞いていたのだという。
その男は保健所の職員を自称し「あの家には頭のおかしい男がいるだろう」と聞いていたのだという。
薬で発作を抑えることのできる癲癇であるが、中には知的障害の発症率もあるという(「てんかん治療の過去・現在・未来」全国患者・家族全国集会2016より)。
世帯主の首に電線が巻かれていたこと、また、解剖の結果から焼死ではないこと、井戸から薬瓶が出たことが報じられてはいるが、まだ「毒殺」という結論には至っていない。
また、地元の鉾田保健所のコメントも載っており「保健所員が外を白衣で歩くわけがない」。それもこの年の10月10日は日曜日で、保健所が仕事をしているはずもないのだ。
ちなみにこの10月10日が「体育の日」に制定されるのは、この事件から12年後の昭和41年のこととなる。
翌10月13日の茨城新聞でも、白衣の男に関する言及がなされ、犯行前日(10日)の目撃証言を集めている。
また、この時点で死因を「毒殺」と特定している。
当時はこの舟木集落では水戸~鉾田間の鹿島参宮バスが公共交通機関であった。
鹿島参宮バスは昭和40年6月1日に常総筑波鉄道と合併して「関東鉄道」として発足する。
ただし、鉄道の部分は、昭和54年に鉾田線を「鹿島鉄道」、筑波線を「筑波鉄道」として再び分離することになる。
その鹿島参宮バスの菖蒲沼バス停から、白衣のままでこの舟木集落を共同墓地やら小学校やら、色々な所を徘徊していたようである。
そして犯行後は、水戸に現れて警察署前の食堂で悠々と食事をしていたのだという。
また、被害者の家から自転車が盗まれており、自転車での逃走も示唆された。
翌14日の茨城新聞では、盗まれた自転車が現場から9km離れた涸沼の近くで発見されたことを報じている。
地図では「現場から9km」としているが、記事では「現場から二里半」としている。
計量法の改正で取引に尺貫法を使われるのが禁じられるのは、この4年後の昭和33年の末のこと。まだ日本人には「km」より「里」の方が通りがよかった事が伺える。
自転車が発見された沼前村は、昭和30年2月11日に長岡村・上野合村・川根村と合併し、東茨城郡茨城町として発足している。
ちなみに、その合併相手である川根村は、昭和26年の築地八宝亭事件の主犯で自殺した男の出身地でもある。現在の関鉄グリーンバスの奥ノ谷あたりがこれに該当し、この徳宿の事件の犯人が乗ったバスに、八宝亭事件の犯人も乗っていたのかもしれない。
翌15日の読売新聞茨城版では、「白衣の男」が誰なのか、その候補を数人挙げている。
容疑者ですらない段階でここまで大々的に報道するというのが当時の時代相を如実にあらわしている。
その中の1人は行商人で、白い上っ張りのようなものを着ており、常に注射器を持って歩いているという。
何で注射器を常に? ・・・ああ、そうか。この人はきっとヒロポン中毒なのではないだろうか。この時期かなり問題になっている。
また、住所が事件の発生した舟木集落であるという接到前歴がある男も捜査本部でマークしているという。
そうかと思えば県内の無免許医師についてもリストアップが進められている問う状態であった。
真ん中の記事では「第二の帝銀事件」としており、この事件の6年前の昭和23年、東京の帝国銀行椎名町支店で12人を毒殺した帝銀事件の記憶がまだ生々しい時代でもあった。
その記事では、犯人を「医療関係者ではないか」としている。
事件も数日を経過すると、だんだん新聞での扱いも小さくなっていった。
そんな中で事件から10日が経とうとしていた10月20日の茨城新聞で、水戸のタクシー運転手が「それらしき男を栃木県の小山まで乗せた」という証言をしたことが判明。
タクシー会社の女事務員は、怪しい客だと思って目を付けていたのだという。
「小山行きの列車が出そうだが乗り遅れそうなので車で行く」と、小山までタクシーで行くことにしたのだという。
ただ、その男の特徴は県警本部で探している男とは多少違うようであった。
また、一般市民が投稿する形で犯人像を推理していたりもする。
この時期、犯人の見つからない事件は推理小説家に犯人像を推測させる記事が結構出ている。
しかし、それが当たったためしはあまりないようにも思える。
翌10月21日の茨城新聞では、地元舟木集落の「幽霊が出る噂」を報じている。
被害者の家の向かいの家の息子が、夜小便に出ると、被害者の家に青白い顔の子供がいて足がない。その子供は見る間に空に上って行ったのだ・・・という怪談話が村中に伝わっていたのだという。
また、犯行当夜近くを通った青年は「深夜零時の時点で何もなかった」と証言している。
そうしている中にも犯人の割り出しは進んでおり、おとなり栃木県栃木市の男がそうではないかと申し出があったが、特徴が違うので却下となった。
また、この事件に関連して読者の推理を募集するコーナーはまだ続いており、今度は磯浜町(現:大洗町)の50歳の主婦。「軍隊経験者が怪しいのではないか。商取引先を洗った方がいい」という。
こうなると、新聞社が自ら実際の事件をネタに探偵ごっこを仕掛けていると思われても仕方のない状態になっていた。
ちなみに、下の広告欄に「大丸東京店 本日開店」と書いている。これが現在の東京駅八重洲口の大丸である。
10月23日になると、一度は捜査線上に上がった「犯人小山説」が捜査本部にも再浮上し、それが確定することとなった。
小山市内で、白衣を買った店と、その男の足取りに関して複数の証言が上がったのである。
その男は「白髪混じり、標準語、五十過ぎ」という人物像で一致していた。
また、事件のあった舟木集落を白衣の男が徘徊していた10月10日の朝、友部駅で乗り換えていたという証言も出てきた。
現在、水戸線の列車は全列車が友部から水戸に直通するようになっているが、当時は小山9:27発の717列車が友部に10:46に到着し、10:51の一ノ関行き227列車に乗り換え水戸に11:14に到着した・・・ という事になっていたようである。
また、本件犯行後の10月12日には小山へ戻り、駅前食堂で大飯を食らっていたという目撃証言も出ている。
ただ、このことに関して捜査本部は「あれだけの知能犯が小山に戻るだろうか」と疑念を示していた。
そして10月25日の茨城新聞では、犯人のモンタージュ像を掲載している。
そして、本件犯行後タクシーで水戸からお山に逃げた男を、本件犯人と捜査本部も断定している。
そしてその男は、小山駅前のマーケットで姿を消したという結論に至った。
そしてこの小山市のマーケットを「悪の温床」と決めつけている。今であれば商店会事務局から茨城新聞が訴えられかねないような記事である。
また、読者参加企画の犯人捜しは、今回もまた磯浜町(現:大洗町)で28歳の農業の男性。
「白衣の男も殺されており、水戸から小山までタクシーで行ったセーターの男が(白衣の男と別人で)怪しいのではないか」という。
これはなかなかの新機軸で、きっと彼は探偵小説マニアなのではないだろうか。28歳と言えば昭和2年生まれ。もしかすれば御存命で、昨今のガルパンブームも見ているかもしれない。
10月27日の茨城新聞では、唯一の物証ではないかというサイダー瓶からの指紋検出について報じている。
犯人は涸沼の東側の沼前村で自転車を乗り捨てたが、そこから水戸へ行く途中の長岡村(現:茨城町長岡)の商店でサイダーを買って飲んだのではないかという。
ご丁寧に飲んでいる所の再現写真まで載せられている。
また、25日に公開されたモンタージュ写真に関する反響が寄せられている。
現場付近の目撃者からは「もっと穏やかな顔だった」「顔が上品すぎる」と言われ、小山市内の目撃者からは「そっくり」と言われているようだった。
また、読者参加の犯人推理企画はまだまだ続いており、水戸市内の会社員(35)は、「詐欺犯が何かの口実で被害者宅に出入りするようになり、放火に及んだのではないか。朝鮮人とのつながりもある」としている。
ところで季節はスポーツの秋。
茨城県内の各学校でも秋の運動会が行われていたのだが・・・
11月1日の読売新聞茨城版の報じるところでは、石岡一高の運動会では仮装行列が行われ、
「ついに捕まる 白衣の男」という、白衣の男のコスプレをやったようである。
今であれば「不謹慎」「遺族の感情を考えろ」などと炎上になり、学校長が謝罪する騒ぎになったであろうか。
また、この面のトップでは、中共に抑留されている戦犯の帰還に関する話が報じられている。
このすぐ2か月前の9月に、テイチクレコードから「岸壁の母」を出して大ヒットしている。
歌った菊地章子は、その歌詞に涙が出て、全く録音にならなかったという。
この中国からの引き上げ船は、昭和33年9月7日まで続けられた(拙ブログ「黄色いワンピース」(2017.11.26)も参照)。
その5日後の11月6日の茨城新聞では、長岡村で発見されたワイシャツから「I・M」の刺繍と、「フ・ミドリ」という符丁を解読している。
今考えれば、これが事件解決の決定的な手掛かりになるのだが、当時の扱いとしては小さいものであった。
この日の扱いが最も大きいのは、水戸市内で開催された第9回県展であり、入賞者の名前が次々と掲載され「文化の秋」を思わせている。
また、下に大々的に広告が打たれている十字屋というのは、昭和27年に開店した十字屋水戸店であり、その後昭和53年まで営業していたのだという。
〽今日も電話でお買い物 十字屋 テレビショッピング~ で知られた十字屋は昭和40年代から経営不振が表面化し、各地の店舗が次々とダイエーなどに業態転換し、最後まで残っていた山形店も今年の1月30日に閉店したのだという。
さて、この時代ではお定まりの容疑者誤認だの何だのがあり、事件が思わぬ形で結末を迎えるのは、事件から1か月が経とうとしていた11月7日の朝である。
その日の読売新聞(本社版)夕刊が報じるところでは、栃木県の塩原温泉で枕探しで大田原署に捕まった男が「実は茨城の9人殺しも俺だ」と自供したという。
それで手錠を外したところ、ポケットに持っていた仁丹ケースを取り出して中身を飲み込んだらそれが青酸カリで、慌てた大田原署員が吐き出させようとしたが、それも叶わずついには絶命したのだという。
その様子が写真にも載っているショッキングなものである。
ワイシャツは犯行の2日後の10月12日には発見され、そこの縫い取りと宇都宮市内のクリーニング店の証言から犯人の目星はすでについており、報道陣がそれに気づくのは11月に入ってから、という事だったようである。
また、日本シリーズでは中日の日本一が決定したことが報じられている。
第7戦の先発は中日が杉下、西鉄が河村であった。
指名手配したのは11月6日で、塩原温泉で逮捕されたのが翌7日と、指名手配されてからは全くのスピード逮捕であった。
男は神奈川の横須賀生まれであるというが、台湾に渡るなどの間、前科数犯を重ねて刑務所生活が長いという「犯罪気質」があったようである。
指名手配直前の11月4日には宇都宮市内にいたようで、問題のクリーニング店に目撃されており、それっきり姿を消していたのだという。
兎も角も、犯人の自殺という結末で、動機や犯行方法など、すべては謎に包まれたまま終わることとなってしまった。
・・・さて、プールから上がったこととて、痛い足を引きずって岩本町から秋葉原で乗り換え、上野駅から茨城を目指すことにしましょう。
この緊縮財政のさなかではあるが、上野駅からはグリーン車に乗ることとしたい。
(決死モデル:トルソーさんのファラキャ)
この列車は勝田行きであるというが、グリーン車は「土浦行」と書いてある。
そこへグリーン車のアテンダントさんが来て「水戸まで行かれるようですがこの車両は土浦までです。土浦到着後30分で次のグリーン車を連結した列車が来ますがどうしますか?」と聞く。
つまり、勝田へは11~15号車だけが行くということ。
そんな運用あるんだね・・・
果たして土浦に到着し、前方の11~15号車に大々的な民族大移動。
(決死モデル:トルソーさんの丸尾)
連結器周辺に配線類が集中しているようで、サンライズ瀬戸・出雲のような大々的な解結作業があるわけではない。
大した作業もなく粛々と切り離されて、5両だけとなった列車は勝田を目指す。
列車内は座席がほぼ埋まる程度で、当方もどうにか座ることができた。
石岡に到着し、7分間で接続する茨城空港行きのバスに乗れば、茨城空港→奥ノ谷で鉾田行きのバスに乗ることができるが、さすがにそれは面倒くさいのでやめることにした。
そして水戸に到着。
同じホームにE501系のいわき行きが待っていた。
(決死モデル:チームR真夜)
E501系というと、常磐線の水戸~いわきを旅行するときは、ほとんど必ずお世話になる車両である。
いろいろ意見はあると思うが、長い距離をロングシートというのは結構つらい。まあボックスシートもつらくはあるけれど。少なくとも、松戸から北千住や上野へ行く時に、1号車のボックスシートに座ろうとは思わない。
E501系も、せっかく上野~土浦直通用に従来の103系などと同じような感じで製造したのであろうが、取手以遠に行く全列車にグリーン車を連結することにしたのであぶれてしまい、水戸以遠や水戸線しか投入できるところがなくなってしまったのであろう。
そして水戸からは関鉄グリーンバスで鉾田を目指す。
事件当時、犯人が舟木を目指した鉾田行きのバス系統は現在でも健在で、1日5往復が走っている。
ちなみに、関鉄グリーンバスというのは、2000年頃に導入された関鉄バスの分社化で、石岡地区の地域子会社を「関鉄グリーンバス」として独立させたものであるという。ちなみに鉾田営業所は「関鉄メロンバス」であったが、2005年に関鉄グリーンバスに統合されたのだという。
関鉄系列というと、土浦などのイメージがあるが、水戸市内にも偕楽園などに路線を持っているようで、それは意外であった。
そしてバスに揺られること1時間、菖蒲沼のバス停に到着する。
犯人を目撃した女車掌に運賃をいくら払ったかは分からないが、現在はPASMOで一発である。
ところで、PASMOの表面を写真に撮ると個人情報が丸わかりになるので、裏返しにして撮影した。
(決死モデル:チームPウメコ)
ところで、事件から64年目の菖蒲沼は、やたら堆肥臭い。
64年前にここに降り立った犯人も、やはり堆肥の匂いの中を被害者の家を目指しただろうか。
また、この周辺は野菜畑やビニールハウスが並ぶが、ところどころ林がある。
こういった風景がこの界隈の原風景となるであろうか。
さて、ガソリンスタンドを過ぎると、いよいよ問題の場所となる。
該当の場所付近は鬱蒼とした林となっており、昼でも不気味な雰囲気である。
茨城県在住の方のブログによれば、該当の地点は2説あり、北側の林か南側の馬頭観音の立った林かという事であった。
ちなみに、事件当時を知る方の書き込みによれば、こちらの方が現場であったとしている。
その付近には車が数台止まっている。
もしかして親族による64回忌の法要をここでやっている・・・!?
と思ったが、どうやら工事関係者のようであった。何かの工事をここでやるらしい。
南側の馬頭観音が立っている林の方も撮影した。
これが事件に関係して建てられたものかどうかは定かではない。
さて、来意を果たしたので後は帰ることとしたい。
水戸行きのバスまで1時間強ある。
その間、どこかしらで時間を潰さないといけないが、南側の交差点にファミマがあるようであり、そこにイートインがあれば、そこで時間を潰すことにしたい。
周辺はちょっとしたロードサイド地帯となっており、大きめのドラッグストアがあるなど、それなりに栄えた地帯となっていた。
ところで、ファミマにはコンセントまであり感激した。惜しむらくはWiMAXの電波が入らなかったこと。
ところで、関東鉄道バスというのは停留所に停まる時、走っている時点でもうドアを開け始めている。
これは行きの時も帰りの時もそうだった。
関鉄系列ではこれが当たり前なのだろうか?
(決死モデル:チームP芳香ちゃん)
まあ短気な水戸っぽラしいといえばらしいのかもしれないけど。
外はもう、暮色に包まれていた。
そして水戸駅に到着。
駅の中でゆっくりする間もなく、7分後には上野行きが出るというが、この非常モードの中、炭水化物はなるべく取りたくない。
そんな中で便利なのがこの納豆である。
という事で数個買う事にした。
そんな茨城行きでしたとさ。