最近の車ってエンコしませんよね

少し前までは車は「エンコ」していたような気がするが、最近は「エンコ」という言葉自体が既に死語となっているようである。

「エンコ」略さないで言えばエンジン故障。
どのような技術の進歩があって、最近の車がエンコしないようになったのだろうか。

前掲の記事によれば、エンコとはオーバーヒートやプラグのかぶりで発生したのだという。
で、オーバーヒートはともかく、「プラグのかぶり」とは・・・?
中古車買い取りに関するページで、以下のような解説があった。

『エンジンかぶり』が起こる主な原因は、エンジンを始動した直後に再びエンジンを切ってしまったことにあります。
近年の車に搭載される点火プラグは、電子制御により、燃料と空気の比率が調整されています。

外気温が低い時期などは、着火しやすいよう多めに燃料を噴出しています。
エンジンが温まるまでの間は、アクセルを踏まなくてもエンジンの回転数が高くなりますよね。
まさにそれが電子制御された状態です。
エンジンの回転数を高くすることで、燃料を濃く噴射し気化しやすい状態をつくっています。
温まる前にエンジンを切ると、プラグに燃料が多く付いた状態で停止されます。
プラグが燃料で濡れていると、再度エンジンを掛けても着火しずらくなってしまうのです。
これが『エンジンかぶり』と呼ばれる状態です。

なるほど・・・
そういえば、自分が子供の頃は、冬に車でスキーに行く前、父は出発の前から車のエンジンをかけて「車を暖めて」から出発していた記憶がある。
電子制御により、この「プラグが燃料で濡れる」状態が回避されるようになり、エンコの発生率も減少した、と言うことでいいだろうか。

間違っていたら指摘を頂くとして、以上の事を念頭に、今回の「事件現場を歩く」を語り進めていきたい。

東海道新幹線開業から2年が経った昭和41年、新宿から甲府や松本へ行く中央本線にはまだ特急すら走っておらず、165系の急行「アルプス」「かいじ」「穂高」や、準急「赤石」が走っていた。
そこへ12月12日、「こだま」用151系を山岳路線用にモーター出力を増強した181系電車で特急「あずさ」が走るようになるというのだから、甲府や諏訪や松本では相当な喜びだったであろう。

その12月12日の開業式の日、盛大な見送りを受けて甲府駅を出発した下り「あずさ」はその3分後、踏切でトラクターと衝突することになってしまう。
そのトラクターはエンコしていたのだ。

よりにもよってなぜ踏切でエンコ・・・?
車の事に詳しくないので、上記の引用とMT車に8年間乗っていた程度の乏しい経験からの推測でしかないが、踏切と言うのは前の車に気を付けながら最徐行で通り抜けなければいけないので、とかくエンスト(≠エンコ)が起こりやすい。
つまり「エンジンを始動した直後に再びエンジンを切ってしまった」状態となりやすい、と言うことである。

電子制御された今のエンジンならともかく、昭和41年当時の耕運機がどれほどの対濡性を持っていたか・・・?
一回エンストしてしまえばそこで終わりという状態だったのだろうか。

一度、甲府に行ってみようと思った。
決死モデル:チームWB小津麗

スーパーあずさ9号はE257系で松本行きである。

途中、立川と八王子には停車するが、その先は大月にも石和温泉にも止まらず甲府までノンストップとなる。
富士急との接続すら考慮しないという「スーパー」ぶりで山梨県東部の山間を快走し、1時間強で甲府に到着する。

甲府到着は1番線。
決死モデル:トルソーさんメア

向かい側の0番線には、静岡行きの「ふじかわ」が停まっている。
そういえば前に甲府駅に来た時は身延線で来たのだった。

そして隣の線路には貨車が止まっており、向こうにはEF64も見える。
昔ならどこでも見る事ができた「一般駅」の情景である。

51年前の事故現場へ行くバスは30分あるので、猫屋敷として有名な山梨県庁へ行ってみることとする。

県庁は駅から歩いてすぐという、意外にも全国的に珍しい立地である。

で、案の定黒猫が歩いている。
その他にももう1匹猫がいたので、車いす用のスロープの所にマタタビを撒いてみる。

そうすると、マタタビの匂いにつられて猫がやってきて、地面や手すりをスリスリしだす。これは可愛い。

暫し猫を堪能した後、甲府駅前の4番の停留所に戻り、57番の長塚営業所行きの中の人となる。

「長松寺町」バス停周辺はすっかり住宅地となっている。

今回は車が絡む案件だけに、カーレンジャー出身のラジエッタWB)を 決死モデルで起用したい。

それでも、やたら古い肉屋の閉店跡があり、その看板には「牛豚馬鶏肉」なんて書いてある。
馬肉は食肉として相当メジャーだったであろう名残を残すものである。
ここが街道筋でいくつかの焦点があり、それ以外の、現在住宅地となっているあたりは一面の田んぼだったであろうか。

さて、「池田小学校前の踏切」とは言うものの、甲府市立池田小学校自体が線路から遠い所にあり「前」と言えるほど前にはないが、一応ここではないかという踏切に行ってみることにしたい。

11時29分、「スーパーあずさ11号」が甲府を出発したと思われる時間となったので、決死撮影の準備をする。

そして・・・

その約5分後、新鋭E353の「スーパーあずさ」が踏切を通過する。
現在、周囲は住宅やマンションやドラッグストアとなっており、踏切を渡る車も、おそらくはAT車の軽自動車ばかりとなっている。

さて、ついでなので、山梨交通電車線の保存車輌でも見に行くか・・・。
ということで、いったん甲府駅まで戻る。

山梨交通電車線というのは、昭和37年まで甲府駅から甲斐青柳(増穂町)までを結んでいた鉄道路線である。
(写真は「日本民鉄電車特集集成 第1分冊」より)

身延線は釜無川(南アルプスを源流とする富士川の支流)の東岸を行くが、山梨交通電車線は西岸の今諏訪や小笠原を走っていた。

昭和37年に「祝われながら」廃止されたものの、車両は上田丸子電鉄を経て江ノ電に譲渡され、江ノ電で廃車になった後は、故郷である山梨交通の沿線であった増穂町の長沢新町駅の近くで保存されているというのである。

ということで、山梨交通電車線のよすがを偲びつつ行ってみることとしたい。

現在甲府駅前の1番乗り場から出る、鰍沢営業所行きのバスこそが、電車線の末裔とも言うべき路線である。
決死モデル:チームPみく

この路線は1時間に1本程度出ており、乗客数もそこそこ多い。
路線としても、電車線は甲斐飯野まで西進していたものがそこから90度曲がって南下するという不思議なルートを取っていたが、そんなルートも電車線と一緒である。

現在、電車線のよすがを残すものは、長沢新町に残されている当時の電車を覗いて何も無いようである。
ちなみに、甲府駅前駅は、写真の奥の建物の位置にあったようである。

そしてバスに揺られること1時間弱で長沢新町に到着。
それなりに市街地であるが、電車線が走っていた当時は長沢新町駅は棒線駅で、小笠原から終点の甲斐青柳までは1閉塞だったようである。
(右の写真はRMライブラリー(5)山梨交通鉄道線回想録より)

そして、釜無川に向かって歩くこと数分で利根川公園に着く。

保存されている電車は、考証自体は深くされていないようで、江ノ電時代の腰板2灯のままになっている。
山梨交通時代は、前照灯は取り外し式になっていたようで、昼間は前照灯自体を付けていなかったようである。
そのことは、前掲の2枚の白黒写真からもお分かりいただけよう。

この様な方式は、東武伊香保線の路面電車などでも採用していたようである。

さて、山梨交通の電車も見たこととて、後は甲府駅に戻りましょうかね。
とは言っても、1時間以上時間があるので、幸いにもバス停前に喫茶店があるのでここでブログの編集をしつつ時間を潰すことにしたい。

そして甲府駅に戻り、15:55発のスーパーあずさ22号で戻ることとしたい。
車両は新鋭E353系である。
決死モデル:チームTレナ

あとはゆっくりE353系の走りを楽しむだけ・・・

 

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