いよいよ消える宇高航路

宇野〜高松の四国フェリーが廃止になるのだという。
昭和63年の国鉄宇高連絡船に続き、いよいよ宇野と高松を結ぶ航路が全く無くなってしまう。

その国鉄宇高連絡船は、昭和30年に沈没事故を起こしている。

第一報は昭和30年5月12日の四国新聞夕刊となる。
社会面ではなく一面トップで「紫雲丸けさ女木沖で沈没」とある。

・・・ン?
たしか紫雲丸の事故は5月11日だったはず。
それを5月12日の夕刊で「けさ」と言う?
題字下には「5月11日発行」と書いてある。

いわゆるあの「朝刊夕刊の法則」だろうか。
なぜかその日の夕刊の方が情報が早いのである。

そのあたりをWikipediaで調べてみると、

20世紀に入ってから主要全国紙などが発行翌日付(よって新聞の欄外に掲載される日付欄には「○○年○月○日(○日発行)」と掲載されている)の形でこぞって発行していた。朝・夕刊セット新聞の夕刊が発行日と同じ日付になるのは1943年10月11日付けの新聞からである。

あー… そうゆうことだったのね。
これまでの謎が全部解けた。

この当時にあってほぼ唯一と言って良い、香川県から本州方面への交通手段である宇高連絡船が沈没し、第一報の時点で死者が25名も出ている、というのだから地元では大ニュースであろう。
一面だけでは飽き足らず2面まで使って報道に割いている。

2面は、生存者の声を拾っている。

朝6時40分に高松を出帆した紫雲丸は、乗客678名、乗員60名、計738名を乗せ濃霧の中を宇野へ向かって進んでいたところ、朝7時を回ったところで第3宇高丸と衝突したのである。

乗客の大半は修学旅行の小中学生であったという。
時間からすると、高松で一泊して本州に帰る途中だったであろうか。

かわいそうなのは、現在西条市となっている地域の農村の小学6年生が修学旅行で香川県まできた所、児童が「連絡船に乗ってみたい」と言ったので予定変更して乗船したところ、この惨禍に遭い、80名の児童のうち29名が死亡、PTA会長も死亡したという。

コメントが取れた生存者が共通して語っているのは、衝突してすぐに沈没したということ。

翌5月12日の四国新聞の朝刊は、前日発行の夕刊と見出しはほとんど同じとなっている。
違うのは、死者が76名に増えていること、そして写真が空撮になっていることである。
同じ日の朝日新聞では、助けを呼んでいる修学旅行生の写真を遠慮なく撮影し、それが非難を呼ぶことになる。
いつの時代も「マスゴミ」は非難の対象だった。それでなくても明治の昔から「羽織ゴロ」と呼ばれてきた存在である。

また、下の方には香川県から選出の参議院議員平井太郎からのお見舞い広告も掲載されている。
平井太郎は東讃の三木町出身であり、昭和3年に明治大学専門部を卒業した後は家業の建設業を継ぎ、香川県高松商工会議所会頭・四国商工会議所連合会会長・香川県観光協会会長等を歴任。
戦後は昭和25年に保守合同前の自由党から参議院議員に立候補し初当選、3年後の昭和28年には幹事長まで務めることになる。
同じ昭和28年には、のちの西日本放送であるラジオ香川を創設するなど、香川県財界の大立者としても知られていた。

また、この事故を起こしたのは他ならぬ国鉄であり、追及の場は国会となる。
衆議院予算委員会でも追及の構えであった。

現在ネット上で見ることのできる国会議事録では、以下の委員会で追及がなされているようである。

第22回国会 文教委員会(昭和30年5月14日)
第22回国会 運輸委員会(昭和30年5月16日)

同じ日の2面でも、やはり紫雲丸事故の話題で占められており「処置は適切だったか」等の検証記事で埋まっている。
この時点で「人為ミス」を疑うことはなかった。

しかし紫雲丸の当務船長は既に紫雲丸と運命を共にしており、生存しているのは相手側の第三宇高丸の船長だけ。
衆議院運輸委員会では、長崎国鉄総裁や鳥居海上保安庁長官、肥田中央気象台予報課長などが参考人として答弁に立たされていた。

また、紙面左側はスポーツ欄になっているがプロ野球は大映-毎日戦で、現在でもある程度知られている選手としては大映は坂本文次郎、毎日は本堂保次、荒川博、山内和弘、榎本喜八、西本幸雄といったメンバーが出場している。
特に榎本はルーキーイヤーでありクリーンアップではなく6番打者、のちに監督となる西本幸雄は引退の年であり代打での出場であった。

また、近鉄-東映戦も行われており、現在でもある程度名前の知れている選手としては近鉄が日下隆、武智修、鬼頭政一、小玉明利、関根順三。東映が毒島正一、土井垣武、今西練太郎といったメンバーが出場していた。

また左下の相撲欄に目を移すと栃錦や若乃花(初代)といった「栃若時代」の全盛期であった。
他には千代の山、羽黒山といった力士の名前もある。

14日の四国新聞夕刊では、国会の論戦において自由党の平井太郎に続き、社会党の森崎隆も追及を始めた旨の記事が出ている。
森崎隆は左派社会党から昭和25年に初当選し、昭和31年まで参議院議員を務めている。

また、先述の平井太郎(自由党)は、参議院本会議で「海底トンネルの建設」にも言及している。
ただし具体的にどこが入り口でどのような建設方法でといった具体的なものではない。
一連の運輸大臣に対する要求の中には、「乗船名簿を整備せよ」という、現在では至極当たり前のことも指摘されている。

また、長崎総裁は前年の洞爺丸事故に続き、今般の紫雲丸事故の発生を受け、辞意を表明していた。

紙面の下の方にはプロ野球に関する記事があり、川崎球場でトンボ-西鉄戦が行われたようである。
現在でもある程度知られている選手としては、トンボがドン・ブッサン、兵頭冽、サル・レッカ、スタルヒン、武末悉昌。
西鉄は河野昭修、豊田泰光、中西太、大下弘、関口清治、高倉照幸、日比野武、仰木彬といった全盛期のメンバーが出場していた。

また、大阪球場では阪神-大洋戦が行われており、現在でも知られている選手としては阪神が吉田義男、藤村富美男、田宮謙二郎、三宅秀史。
大洋は引地信之、青田昇、手塚明治といった選手が出場していた。

翌15日の四国新聞夕刊では、1面トップで瀬戸大橋に関する構想が掲げられている。
とは言っても、本州~淡路島~四国というルートなので、現在で言う明石海峡大橋と大鳴門橋のルートということになる。

前年の洞爺丸の事故で青函トンネル構想が立ち上がったのと同様、瀬戸大橋の計画もこの紫雲丸の事故により立ち上がったもの・・・というわけでもなく、昭和23年には計画が立ち上がっていた所、昭和28年以降の台風被害続出で立ち消えとなっていたものであった。
特に鳴門海峡に架かる橋は海面20メートルの高さで「金門橋にも匹敵する」と、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを引き合いに出してその壮大な夢を語っている。
ちなみにゴールデンゲートブリッジは昭和12年、日本で言えば盧溝橋事件のあった年に竣工している。

また、三木武夫運輸大臣が高松に来たことも報じられているが、三木運輸相自身、同じ四国の徳島からの選出議員であった。
それと平井太郎と同じ明治大学の出身で、こちらは専門部から法学部まで出ている。
この2人が同じ四国で同じ明治出身の自民党政治家であるということで、特段の仲間意識や交流があったかということまではネット上では調べることができなかった。

さて、以上の予備知識を得たうえで、ダークツーリズムに臨むこととしたい。

とは言っても色々と忙しくて、徹夜案件が終わった後も会議が2件入っていたり、溜まっている仕事をこなしたりで猛烈に忙しい。
結局風呂に入るために帰宅したが、はっきり言って風呂に入ったというだけ。
1時間半も滞在できたであろうか。

そしてまた会議のために家を出る。

今日2回目の会議の前にはまず腹ごしらえをしないといけない。
ということで、新橋のガッツリ系を探してみると、駅前のニュー新橋ビルの地下に「カレーは飲み物」という店があるらしい。
決死モデル:チームWBミサメグ

ニュー新橋ビルの地下は、赤提灯の並んだ猥雑な一帯である。
昭和がそのまま残っているうな感じもするが、店員は中国人やベトナム人だったりする令和の風景。

「カレーは飲み物」は、ライスが200gから500gまで選べて同じ値段になっている。
それだけで足りなければ「ガリ豚」という肉の塊を200gか300g追加で頼むこともできる。

ガッツリ食って腹一杯になったら会議場に向かうことにする。

予め会議の主催者には言ってあったが、20時10分ぐらいしか居れない事を伝えてあった。
そして途中で失礼して東京駅に向かう。

新橋の街もすっかりクリスマスムードだ。

そして東京駅八重洲口へ。
岡山行きのグランドリーム岡山1号は8番乗り場からの出発である。
決死モデル:チームRナオミ

急いで乗り込み、出発となる。
途中、バスタ新宿ではなく横浜YCATで客を拾って岡山を目指す事になる。

途中、足柄サービスエリアで途中休憩となる。
足柄サービスエリアは夜行高速バスの途中休憩のメッカともいうべき場所で、「西の足柄、東の土山」というほどのものである。
決死モデル:チームY間宮

ただ、休憩時間は10分程度しかないのですぐに行って戻るしかない。
そしてまた西へ向けて出発。

目が覚めた頃は、山陽インターチェンジに到着した頃である。
時間にして5時半ごろ。
だいたい10分程度の早着のようなので、このままの調子で行けば岡山駅6時44分発の児島行きに乗れるかもしれない。
時刻表通りなら岡山駅西口6時40分に到着するので、可能性として乗れないことも考慮に入れないといけなかったのだ。

果たして岡山駅には6時35分ごろ到着し、余裕で6時44分に間に合うことができた。

そして茶屋町に到着。
ここで宇野行きを待つ。
かつては、下津井電鉄がこの茶屋町から出ていた。倉敷市南東部の交通のジャンクションであることに変わりはない。
決死モデル:チームP桃園

ところで、宇野行きは7時28分発。
高松行きにマリンライナーが7時26分ということは、何も6時44分の児島行きに乗らなくても、7時10分岡山発のマリンライナーでも間に合ったってこと?

だったらそう案内して欲しい。Yahoo路線。

そして末期色113系に乗って宇野を目指す。

瀬戸大橋の開業前は本州と四国の大動脈であり、マンモス電機EH10が最後に運用に就いたのもこの宇野線であったというほどの由緒ある大幹線だった。
現在はローカル線であるが、それでも玉野市というひとつの市を結んでいるのでそれなりに客はいる。

宇野は今や1面2線の小駅であるとはいえ通学の高校生を沢山のせている。

そして宇野に到着。
現在の宇野駅は往年のブルートレイン「瀬戸」が発着していたような長大なホームはない。
決死モデル:チームY城ヶ崎

そして駅舎は南欧風になっている。
なぜ南欧… と思って気が付いた。
瀬戸内海は池中海だからだ。

7時57分に宇野に到着し、高松えのフェリーが出発するのは9時05分。

1時間の間、宇野で何をして過ごすか。
確かすこやかセンターという所に玉野市営電気鉄道の保存車両があったはず。

ちょうどそこには「すこやかセンター」行きのバスが停まっているではないか!
ただ、うまく行けたとして戻って来れる保証はない。
タクシーで戻るにしても、電話で呼ぼうと思えばそれに時間がかかる。
それならいっそ、最初からタクシーで行ったらがいい。
何となれば玉野市電唯一の遺構であるアパートの階段も見れるかも知れない。

「すこやかセンターね。はい、すぐ着きますよ」と岡山弁の年配の運転手は気っ風が良い。
「ヤクルト飲みね」と、パチ物のヤクルトをくれた。

すこやかセンターにはものの数分で到着した。
決死モデル:チームR園田

そして問題はアパートである。
駅としては「玉保健所前」という所らしいが、現在でも保健所があるかどうかは定かではない。

運転手も「保健所?そがいなもんあったかのう?」と要領を得ない。

それでも、どこかのページを開いて、藤井海岸駅と大聖寺前駅の中間である旨を言うと、
「ああ、その辺じゃったら電車道が自転車道になっちょる」

連れていってもらった所は、まさにその場場なった。
心おきなく撮影し次なる目的地え。

タクシーの運転手曰く、
「瀬戸大橋が出来る前はフェリーも沢山走っちょったんじゃけどね、もうお客さんも少のうなって16日に廃止になるんですわ」

そうして到着した宇野桟橋は、やたら高齢者でにぎわっていた。
明らかに宇高連絡船を知る世代で、何なら紫雲丸だって知ってるかも知れない。
決死モデル:チームRスマレ

13日〜16日は混雑が予想され、切符は片道しか売らないらしい。

そうこうしているうちに船が来た。

船は定刻の9:05に出帆。

船内には「うどんコーナー」がある。
これは宇高連絡船にもあったといい、四国情緒を高めてくれる。

座席はかなり埋まっているが、立ち客が出るという程ではない。

宇野港外を出ると、大槌島の向こうに瀬戸大橋が見える。
紫雲丸の事故が、瀬戸大橋の建設の機運を作り、それは33年の後に結実することとなる。

向こうに高松の町並が見えてくると、左手に女木島が見える。
この女木島のすぐ東で、「国鉄五大事故」のうちの1つに数えられる事故が発生したのだ。
決死モデルチームPウメコ

こんな所でウメコもニコニコさせてられないよな…
(ダークツーリズムではいつものことだが)

さて高松に到着し船旅は終わり。

この宇高フェリーは廃止になっても、小豆島などのフェリーは残るので、桟橋自体が廃止になるわけではないようだ。
決死モデル:チームWB小津麗

さて、ダークツーリズムという割には資料の用意は全くない。
なので図書館で資料蒐集することとしたいが、「いしづち9号」がれる11時50分までの1時間半でバスが丁度良く来るとも限らない。

ということで、宇野の時にひきつづきタクシーを使うことに。
高松市立中央図書館に近い所に西方寺というお寺があり、紫雲丸の慰霊碑もあるという。

というここで高松市立中央図書館。
高徳線の昭和町駅にも近い。

ここでマイクロフィルムで当時の四国新聞をたぐる。
・・・と、小学生の一群が見学で来る。
小学生に見られながら「紫雲丸が…」の記事を見るというのはなかなかつらい。
引率の先生は若い人だったが、紫雲丸の話ぐらいは聞いたことはあるだろう。

南海丸の時と同じで、どこまでコピーするべきか悩んた。
なにしろ海難審判は昭和35年に結審しているのだ。
そこまで延々コピーする?

結局、瀬戸大橋の夢を語るところまでで打ち切ることとした。
これが時刻にして11時15分頃。

タクシーがつかまればすぐに西方寺から高松駅を回れるかも知れない。
しかしそのタクシーがつかまらない。

もはや高松駅に着くかどうかも怪しい時間になってきた。
もう西方寺はあきらめるしかない。

そもそも、事故現場でニコニコ写真撮ってたり、記事を踏んづけているような自分に「慰霊」などする資格はないのかも知れない。

ちょうどタクシーが止まってくれたので、高松駅を目指す。

タクシーの運転手はけっこうな老齢で、讃岐弁がきつく開き取れなかった。

高松駅にはどうにか間に合い、「いしづち9号」に乗ることができた。
いしづち9号はアンパンマン列車で、宇多津からは岡山からの「しおかぜ」と併結する。
決死モデル:トルソーさん霧島

「いしづち/しおかぜ」は瀬戸内海を右手に快走する。

いつものことながら、寝不足でもあったので寝ることに。
目が覚めた時には、今治から高縄半島の西側に来ていた。

国道11号線は高縄半島をショートカットするが、予讃線は律義に海側を走る。

そして松山に到着。
国鉄の駅としては全国で最後に開業したという松山駅は昭和2年の開業。
ただし松山における鉄道自体の歴史は古く、四国で最も古い明治21年に松山市〜三津が開業している。
そしてその4年後には高浜港まで開通し、関西方面の汽船の便を図っている。

さてその松山駅であるが、1番線にはアンパンマンのフォトスポットがあるのと同時に、ガラスケースの中に列車編成表が入っている。
この昭和感はなんだろう。きっと四鉄局がキハ181「しおかぜ」やキハ58「いよ」「うわじま」を走らせていた頃から使っていたのではないだろうか。
決死モデル:チームPペギー

さて、そんな暇もなくこんどは宇和島行きに乗り換えないといけない。

宇和島行きはひきつづき瀬戸内海を右手に走る。
向井原からは内子経由ではない旧線を走ることになる。
現在は「愛ある伊予灘線」として観光開発に余念がない。

ところでこの列車の伊予長浜到着は15時35分。
そして戻りの列車は16時04分なので、都合29分で全ての用件を終えないといけない。
決死モデル:チームTレナ

伊予長浜の駅舎だけで時間を浪費してる暇はないのだが、なかなか深度合成のピントが合わない。

その29分だけの長浜であるが、町並み自体がなかなか昭和情緒があり、撮るべき所が多い感じがする。

しかし時間は刻一刻と過ぎる。

昭和の面影が残る商店街を抜け、例の「ンョハー」を撮る。
逆光だがここまで来てしまうと仕方ない。
衣装を変えてもう一枚。
決死モデル:チームY楼山

・・・と、商店街の向こうに古い感じのトラス橋がある。
それは昭和10年竣工になる開閉式の長浜大橋であり、現在は国の有形文化財にも指定されている。

しかしもう16時04分まで10分を切っている。
あそこまで行けば通れるかも知れない。

結局ここまで来て撮らないわけにもいくまい、ということで一か八か撮ることにした。

あとは一目散に伊予長浜駅を目指すだけ。

結論から言うと、16時04分の松山行きに間に合うことはできなかった。
これで下灘駅で夕日を見るということはできなくなった。

そうなると、この長浜で瀬戸内海に沈む夕日を見る、ということになるが、それができそうなスポットは駅からけっこう歩く。
行けないことはないだろうが、この次の17時35分を逃したら、いよいよ泣くに泣けない。

おとなしく、駅周辺の漁村でインスタ映えしそうな所を探すしかない。

とはいえ、映えそうな所が全くないわけではなく、中島みゆきの「シーサイド・コーポラス」に出てきそうな古いアパートとの取り合わせなども撮れた。
決死モデル:トルソーさんアハメス

さて、あたりはすっかり暗くなり、17時35分の松山行きの客となる。
バタバタした弾丸旅行もいよいよ終りを迎えようとしている。

松山到着は18時31分で、松山発のドリーム杭山が19時40分で、都合1時間強ある中でどこかで夕食にしたい。

調べると、伊予鉄の古町の近くにデカ盛りの中華の店があるらしい。
ちょっとそこに行ってみるか…

市内線というか城北線は、市駅を起点に時計回りが1系統、その逆が2系統となっているようだった。
ということで1系統に乗って古町へ。
決死モデル:チームP芳香ちゃん

実際にその店に行って麻婆丼を頼んでみると、聞きしにまさる大盛りである。
満足裡に腹をさすっていると、もう19時21分!
バスまで20分を切っている。

さっさと古町から戻ることにしたい。
幸い、2系統が19時27分にある。

どうにかドリーム松山に間に合い東京に帰ることができる。
途中休憩は豊浜サービスエリア。
決死モデル:チームPユウリ

あとは東京を目指すだけ。
どうやら経路としては淡路島を通るようだった。

 

 

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