台風観測終わって意気上がった結果・・・

台風が西日本に直撃して、西鉄バスまでが計画運休という騒ぎになっている。

今の台風ならレーダーもあれば衛星もある。
「プロジェクトX」で、富士山レーダーの建設で気象庁観測課長として陣頭指揮を執ったのが作家の新田次郎だったという話は有名である。

そんなレーダーも衛星も無かったころの話・・・

昭和28年台風第5号は、昭和28年7月30~31日に小笠原諸島を北上し、8月1日に八丈島の南側まで達したところで進路を北北東に変え、8月2日頃銚子の沖合をかすめて、上陸はせずに太平洋に逸れて行った・・・というものである。

当時、気象庁の前身である中央気象台は、日米の航空路確保の観点から、海上定点観測を要請されていた。
そのあたりの事情は、「日米航空路のために68年前に「凌風丸」が北方定点に出港」(2015.10.16)に記されている。

そしてこの昭和28年台風第5号観測で定点観測に行ったのが、海防艦を改造した「竹生丸」であった。
なにしろ台風の中を命がけでの観測である。
東京に帰ってきた時はさぞや意気が上がったのではないだろうか。

そんな8月3日の夜も更け、日付が4日に変わった午前2時ごろのこと。

売春防止法施行前の「赤線地帯」として知られていた洲崎パラダイスで、7~8人の男たちが乱闘している。

特飲店の女給は急いで警察に届け出た。
警察官が行ってみると、2人の男が血まみれで倒れている。

急いで月島の病院に収容したが、このうちの1人は脳内出血で死亡してしまった。

倒れていた彼らは、先日台風5号を南方洋上で観測して帰ってきた中央気象台の観測院だったのだ。

生き残った方に経緯を聞いてみると、
「最初は新橋で5~6件のみ歩き、その後船員寮に近い月島で飲んでタクシーで帰ろうと思ったら、5人組の男が乗り込んできた。そして船員寮の方ではない洲崎まで連れていかれ殴るけるの暴行を受けた」
という。

腕時計や現金を奪われており、不良による強盗殺人が疑われた。

翌5日になると、そのタクシーの運転手の証言により、事件の全貌が明らかになってきた。

「4日午前1時ごろ勝鬨橋のあたりから洲崎弁天町まで、そして3時ごろに洲崎弁天町~新橋を、2~4人連れの犯人らしい男連れを乗せた」
というのである。

そして、車内では交番の前を通らないように遠回りさせたり「ケンカの相手は死んだらしい」「まず薬を買わないと」などと会話していたという。

ただ、携帯電話も無い時代に、喧嘩があって逃げる途中に「死んだらしい」などという情報をどうやって知った?という気もしなくはない。

他の記事に目を移すと、社会面トップには乾燥血清に関する記事が載っている。
原爆の後遺症や朝鮮戦争で飛ぶように売れたという趣旨の記事となっている。
まだ売血が非合法化されていないころだった。

翌6日はその原爆から8周年となる。
広島の相生橋周辺の空撮写真が載っているが、まだまだ高い建物は建っていない。

さて、早くも洲崎の観測員殺しは犯人が逮捕された。

日付が6日に変わった午前2時、深川警察署に21歳の石川島重工の雑役夫が自首してきたのである。

そしてそれを皮切りに、築地市場の軽子(26歳)など3名を強盗殺人の疑いで逮捕するに至ったのである。

ところで「軽子」とは?
築地市場では、よくターレットが走り回っていた。
あのターレットを動かして物を運搬する仕事が「軽子」であり、後年その呼び名が差別的であるとして「配送人」と改められたようである。

そして、この事件の全貌も明らかになった。
それは4日に日が変わった午前1時ごろのこと・・・

今でこそ都営地下鉄の「勝どき」駅となっている場所は、かつて都電の「月島通8丁目」という電停であった。
その近くの飲み屋でDQN共が飲んでいると、これまた酔っ払った2人の男が入ってこようとする。

「ごめんなさいね。もうカンバンなのよ」
「ハァ?こんな汚い店で飲めるか!」

その「こんな汚い店」で飲んでいた4人のDQN達の怒りに火が付いた。

タクシーで帰ろうとするその2人の男の車に強引に乗り込んだ。

「月島12丁目の船員ry・・・」
「いや、洲崎パラダイスだ!」

そして洲崎パラダイスに到着したら後はもうリンチである。

その5年後、売春防止法の施行により、洲崎パラダイスはすべて営業を続けることができなくなり、普通の住宅地になっていった。

今回はそんな洲崎をダークツーリズムすることにする。

松戸から勝どきに行く、というのは意外に難しい。
要はどこから都営大江戸線に乗るか、ということである。

武蔵野線の新八柱からまずは西船橋まで行き、地下鉄東西線に乗り換えて門前仲町まで行き、そこから大江戸線に乗り換える、というルートを取った。

ところで、「勝どき」の駅は漢字で書けば「勝鬨」であるように思えるが、駅名標には「胜哄」とある。「鬨」って国字なのか?

さて、昔は猥雑な飲み屋が立ち並び、港湾労働者がその日の疲れを飲んで吹き飛ばしていたであろう勝鬨も、現在ではこのようにタワーマンションが立ち並んでいる。
決死モデル:チームWBミサメグ超獣戦隊ライブマン出身)

今であれば都営大江戸線と地下鉄東西線を乗り継げばすぐに東洋町に到着するが、そこは67年前の深夜である。
当時と同じようにタクシーで行ってみることにしたい。

タクシー自体は今でも結構走っているのである。
その1台を捕まえることにした。

「あの・・・洲崎遊郭のあった所とか言っても分からないですよね・・・」
「ちょっと・・・ ここら辺が専門の人なら分かるんでしょうけど」
「東陽中学校の近くと言ったら分かりますかね」
「それなら分かります」

もう既に売春防止法から62年が経過しているのだ。

結局、現在の物価ではタクシー代は1,860円であった。

62年たってしまうと、そこが「洲崎遊郭であった」などということを示すものは何一つない単なる住宅地化と思ったら、近くの公園に、女性の霊を慰める碑が建立されている。
決死モデル:チームYジャスミン特捜戦隊デカレンジャー出身)

昭和6年に建立したというので、「赤線の特飲街」ではなく「遊郭」であった時分のこと。
遊郭に働く遊女は、その外に出るなど叶わなかったのだ。

追善碑には「白菊の はなにひまなく おく露は なき人しのぶ なみだなりけり」と書いてある・・・のだそうだ。

ちなみに、事件はこの写真の左奥で発生している。

 

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