「義手と義足の昭和史」も戦前編を書き尽くし、ここからは戦後編と相成る。
「はだしのゲン」の軍国主義的な登場人物だって手のひらを返してこの通りの「平和主義者」ぶりである。
戦争が終わって、教科書に墨を塗って、対米観はどう変わったのか・・・
それが昭和24年2月3日の読売新聞である。
中段左側に、そこそこ大きな扱いで写真付きで「義手に結ぶ日米の友愛」という見出しで報じられている。
第二次世界大戦では敵であったアメリカでもやはり傷痍軍人は社会的な問題になっていた。
それで、大日本帝国同様「傷痍軍人の見事な再起」はメディアの主要なテーマとして取り上げられることが多かったようである。
その中の1つに、映画「我らの生涯の最良の年」(The Best Years of Our Lives)がある。
アメリカでの公開は昭和21年11月21日、日本での公開はその1年半後の昭和23年6月15日となる。
戦時中に両手を失ったハロルド・ラッセルは演技未経験ながらこの映画に出演し、アカデミー助演男優賞・アカデミー特別賞・ゴールデングローブ賞を受賞している。
このため、日本でも記事中の言葉を借りれば「不具者再起の範」として有名になったのである。
ちなみに、「我らの生涯の最良の年」「ハロルド・ラッセル」はともに日本語版Wikipediaの1項目として日本語でも詳細を読むことができる。
ともあれ、このアメリカ映画は日本の傷痍軍人をも勇気づけることになったようで(そのうちの1人は拙ブログ「【義手と義足の昭和史】(3)フック義手で煙草も吸えるんです」にて紹介)、同病相憐れむこのハロルド・ラッセル氏に富士山の絵を贈ろう、ということになったのだという。
富士山の絵を描いた画伯もまたノモンハン事件で右手を失い「義手に生きる」という本を書いたことで知られたのだという。
(ただし、現在国会図書館サーチでその本は見当たらない)
この記事は「我々三人の気持ちはきっとラッセルさんにも通じると思います」と結ばれている。
そんなOccupied Japanの頃の「義手と義足の昭和史」。
そのOccupyしていた進駐軍の総本部(General Head Quarter)はお濠端の第一生命ビルであった。
現在はそのハリボテやマッカーサーの執務室だけを残して、超高層ビル「DNタワー21」として建て替えられてしまっている。
(決死モデル:チームTエリー;ウルトラマンマックス出身)