南国土佐を後にして

今日は南国土佐を後にする日である。

元々、高知から中国大陸に派兵された兵隊さんの中から自然発生的に生まれた曲なのだという。
これが終戦後の昭和28年にラジオ高知(現:高知放送)開局時に丘京子がラジオで歌ったのが反響を呼び、昭和30年に鈴木三重子がシングルを出したが大して売れず、という由来が、昭和33年にペギー葉山版で大ヒットする前にあったのだという。

その鈴木三重子版がシングルで発売された翌年の昭和31年、その南国高知で全国を震撼させる事件が発生する。

昭和31年4月4日の高知新聞での扱いは、ごくごく小さなものであった。
「消えた証券会社社長さん 別人が銀行から六六五万円引き出す」

高知の高級旅館・城西館に泊まった大阪の証券会社社長が4月2日以降行方不明となり、持っていた小切手665万円が別人により四国銀行から引き出されていたというものである。
この時は、社長自身が現金を持って逃げているのではないかという見方も、捜査当局からはされていたようである。

これ以上に大きい記事は、原水爆実験についてである。
ビキニ環礁での核実験自体は、1946年から1958年まで行われたが、日本で有名になったのは1954年3月1日の第五福竜丸の事件があってからのことである。

また、扱いは小さいが土讃線にディーゼル機関車が導入される話も書いている。
これは、その後土讃線の主となるDF50のことで、記事内では「電気機関車」という表現がなされている。
たしかにDF50はディーゼル発電機で電気を起こしてモーターを回すという、電気機関車と似たような構造ではあっただろう。

事件の方は、社長自身の現金拐帯逃走説は打ち消され、数々の傍証から殺害説が有力になっていく。

4月11日には、容疑者の妻が「実は社長は殺されている」と自供したことが高知新聞に大々的に報じられている。
やはり殺人であったことは容疑者の妻も知っていたのだ。その上で奪った金をもらっていたのだ。
捜査の方向と人々の関心は肝心の死体探しに移っていく。

この事件に関しては大々的に報じていても事実としてはシンプルであるが、他のニュースが色々と時代がかっていて奮っている。

左側には「窪江線が有望」という記事があるが、これは現在の予土線の窪川~江川崎間のことで、現在の予土線は宇和島側から江川崎までしか開業していなかった。
今や「国内最高気温」で知られる四万十川沿いの江川崎は、鉄道では愛媛県側にしか出ることができなかったのだ。
結局、この区間が開業するのは実に18年後の昭和49年となる。

また、「獅子舞」に関するニュースもある。
これは、軒先で獅子舞を踊って金銭を要求する押し売りのようなことが頻発していたということ。

女子中学生をさらって獅子舞使いに仕立て上げるとは昭和30年代とはげに恐ろしい時代だったようである。

そして翌4月12日には、事件の真相が詳細に報じられている。
果ては、泣き崩れる被害者夫人の姿までが写真入りで報じられている。今ならツイッターで「マスゴミ!」と集中砲火を浴びるような所であろう。

前日の新聞で「某」となっていた共犯の男は、この日には実名が出ている。
また、犯行場所や死体遺棄場所も地図入りで報じられている。

この地図をよく見てみると、高知の浦戸湾というのは「天然の要塞」であることがよく分かる。まるで舞鶴や佐世保のような湾形である。
ここに軍港を設置する予定はなかったのだろうか。
実際に海軍の航空隊が設置されたのは大戦末期のことであったという。地形的には良くても、戦略上の必要性を感じなかったという事であろうか。

この日の社会面の大半がこの事件の関係の記事であり、他のニュースというのはなかなか見当たらないが、左下に「竹ムチで裂傷負わす」という体罰事件が報じられている。
神奈川は横須賀市立追浜小学校で、5年生のクラス担任がテストをしようと思ったところ、問題用紙が床に散らばっていたのだという。
そこで「しからないから名乗り出なさい」と言ってみても誰も名乗り出ない。
それに激高して40人全員を並べて、竹ムチで殴ったのだという。
叱らないから・・・」がいかに信用できない言葉か、60年前からすでに分かろうというものである。

そして4月21日の高知新聞で、死体が現春野町の海岸の松林に埋められていた旨を大々的に報じている。

発見された地点は、いみじくも2016年の清原和博の覚せい剤事件で一躍話題になった元巨人・オリックスの野村貴仁の汚宅から100m程度の場所であり、住宅地となっている。

その隣で、これまた大々的に報じられているのは、19日夜に室戸から神戸へ向かった室戸汽船の太平丸が、室戸を出発してすぐに暴風で沈没し、乗員・乗客24名のうち18名が行方不明になったニュースの続報で、8名は救助されたものの6遺体が発見され、残り10名も絶望視されているというものである。
社会面トップにこそなってはいないものの、扱いとしてはこちらの方が大きく、事故原因などが推測されていたり、中には危険を感じて室戸で乗るのをやめた人の記事も報じられている。

あとは犯人の逮捕ということのなるのだが、それは4月25日の高知新聞で報じられている。

何と、高知からは遠く離れた北海道の紋別での逮捕劇であった。
これは、犯人が幼少時、北海道の紋別に養子に貰われて育ったために、天理教関係者に知り合いがいたという所から立ち回り先として捜査リストには載っていたようである。

最初は「詐欺はやった覚えはあるが人殺しはしてない」と強弁していたようである。
しかし証拠を突き付けられあっさり陥落。
結局北見方面本部まで名寄本線と石北本線で送られ、北見からは石北本線で札幌中央署へ、札幌からは千歳飛行場からの日航機で羽田へ送られ、東京駅から急行「瀬戸」で宇野へ。宇野から宇高連絡船に乗り、高松からC58の牽引する準急「南風」で高知入りしたという。
その様子は各日の高知新聞で報じられていたため、到着した日の高知駅はやじ馬でごった返していたのだという。

共犯の方はというと、月が替わって5月に入り、11日に島根県浜田市で逮捕されたことを報じている。
犯行があってすぐ、奪った金を妻や関係者に山分けした主犯に対し、こちらの共犯は100万円以上の金を持っていたので、逃走費用は潤沢で捕まるまでかなりの日数がかかるであろうことは予想されていたようである。

犯行後すぐ四国を出て中国地方を転々とし、「職を探す」と言って浜田市内でアパートを借りたものの、職を探す気配もなく閉じこもってお経ばかり上げているという所から怪しまれ「もしかして騒ぎになっている高知の殺人事件の犯人では?」という話になり逮捕につながったようである。

高知への護送は山陰本線で米子まで、米子からは伯備線経由で岡山まで連れてこられたようである。

さて、今回の「事件現場を歩く」は、事件の発端となった高知の高級旅館・城西館から始めたい。

現在でも城西館は、高知の市電通りで高級ホテルとして健在であり、今や無線LANも使用できるという現代化ぶりである。

そして結婚式場として使われているようで、ウェディングドレスのトルソーも飾られている。
そうなるとトルソーとトルソーで撮りたくなるのがさがというものであろう。
決モチームPウメコ

それにしても、ウメコがここで決死することは分かっていたので、昨日使うんじゃなかった・・・

外観でも1枚。
決モチームYジャスミン

それにしたって1泊1万円とは高いホテルであった。

さて、土電ではりまや橋を目指しましょう。
現在でもはりまや橋の交差点の南西角には、かの事件で容疑者が小切手を現金にした四国銀行の本店が営業している。

経営が左前になり、暴力団がどうたらで「とさでん交通」となった土電は、こんな早朝でもそれなりの頻度で電車が来るのでありがたい。

「日本三大がっかり」の一つに数えられるはりまや橋は現在、脇に移設され、駅前の通りには石造りのレプリカがあるだけである。
移設されたはりまや橋は、確かにがっかりする代物である。

そしてその脇にはアンパンマンの石像。
やはり高知はアンパンマンで持つ。
決モチームR真夜

はりまや橋から高知駅までは、歩いても大した時間はかからないので歩いてみる。
「VOW」でも有名になった麻植胃腸科もこの通りにある。

程なくして高知駅に到着。
決モチームWBミサメグ

前回高知駅に来たのは2007年頃で、DE10がけん引する「ムーンライト高知」で、高知駅はまだ地上駅であった。
それより印象に残ったのは、ムーンライト高知の12系客車がやたらくたびれており、先は長くないなと感じだものだった。

高知からは「南風」は使わず普通列車で出発。

土佐山田で「南風」をやり過ごし、1000系は四国山地へ入る。

かつてはC58が煤煙を轟かせ、冒頭の殺人事件があった昭和31年からは無鉛化されDF50が通ったこの山岳路線は、現在はディーゼルカーが通るだけである。

大杉からは、「四国の水がめ」早明浦ダムや、村議会存続の危機にあり八丈小島以来の「町村総会」設置が取りざたされた人口380人の大川村へのバスが出ている。

徳島県に入り大歩危・小歩危の渓谷美を抜け、吉野川の流域に入ると阿波池田に到着する。

阿波池田からは徳島線が分岐しており、すだち色の1500系が止まっている。
決モチームRハナ

駅前では何かの祭りがやっており、昨日コピーしてきた事件関係の本を入れるのにちょうどよかったのでありがたい。

そしてここから先は徳島線に入るわけではなく、土讃線で旅行を続行。
坪尻のスイッチバックは、大した停車時間もなくさっさと発車したので、碌に撮影することもできず。

そして県境を越えて香川県に入る。

そして讃岐財田で「四国まんなか千年ものがたり」と交換。
決死モデル:チームR持田

この列車は、まだ営業段階ではなく4月から運用に入るのだという。
善通寺・金刀比羅宮・祖谷渓(平家落人伝説)といった、四国野線この歴史を感じさせる文物がこの沿線に多く、この観光列車の開設になったということである。
国鉄時代に製造されたキハ185も、今やまともな特急運用は徳島支社管内の「剣山」「むろと」ぐらいになってしまった。
余剰となったキハ185は、こうして観光列車として余生を過ごすこととなったようである。

さて、「財田」と言って思い出すのは「四大死刑冤罪事件」の一つ・財田川事件であり、1950年まさにこの町で起こった事件である。
この町の63歳のヤミ米ブローカーが、全身をメッタ刺しにされて殺された事件は、財田川下流側の隣村・神田こうだ村で発生した強盗事件の犯人がそのまま、本件犯行の犯人として追及されることになる。
それは「財田の鬼」としておそれられた極道者であった。
「四大冤罪事件」のうち、免田事件もやはり地域で嫌われていた不良であった。だから濡れ衣を着せてもいいというのは、ムラ社会のなせる業であろう。

ただし、財田川自体は、讃岐財田よりは北隣の黒川駅の方が近いのだが、なぜこのように呼ばれているかというと、1972年の再審棄却時の判事が「財田川よ、心あらば真実を教えてほしい」という名セリフを発したからである。

そして列車は四国の鉄道の要衝・多度津へ。
決モチームR小沢

多度津の駅舎は簡素な作りで、現在でも木造の駅舎である。
駅前にはスポークの動輪が飾られている。
これは8620の動輪だという。

86は9600と共に大正3年に製造された機関車であるが、いずれも国鉄蒸機の最後を見届けた名機であり、現在でもJR九州で「SL人吉」の運用に就いている。

そして多度津からは快速「サンポート」で高松を目指す。
温暖で雨の少ない瀬戸内だけに、沿線は農業用水の確保は深刻な問題であったようで、ため池が随所にみられる。

そして高松に到着。
高松からは各方面への列車が出発する。
今乗ってきた121系の隣には、松山へ行く8500系が止まっている。
あ、そういえば121系も今は「7200系」になってるんだっけか。現在のJR四国の付番体系は私鉄のそれと一緒になっている。
決死モデル:チームPメイ

ちょうどここでお昼になったので、昼食は讃岐うどんとしけこみたい・・・ と思ったが、この先の旅程もあるので、仕方なくホームのうどん屋で済ませることにする。

そして高松築港から琴電に乗る。
とは言っても琴平線は瓦町までで、瓦町からは緑色の長尾線に乗ることになる。
どうせなら長尾線も高松築港まで乗り入れてくれればいいのだが・・・

ちなみに、志度線は瓦町のかなり離れた所からの発車になってしまい、今では線路すらつながっていないので、車庫は仏生山から今橋に代わっている。

さて、初乗車の長尾線であるが讃岐平野の田園風景を走り、程なくして終点の長尾に到着する。

長尾駅は古い駅舎が今でもある。
決モチームWB小津麗

かつては長尾町役場の最寄駅であったが、現在は合併でさぬき市になっている。
そのさぬき市の代表駅は高徳線の志度駅となっているようである。

そして、この長尾駅の近くには香川県の東讃地方を営業拠点とする大川バスの本社がある。
ここからは歩いてすぐの距離なので、歩いて行くこととしたい。

程なくして大川バス本社に到着。

本社機能のほか、旅行会社も経営しているようである。
決モチームWBナギサヤ

また、現在の大川バスの路線網は高松~引田の1路線のみで、その他はさぬき市コミュニティバスに移管されており、その委託を受託しているという形を取っているようである。

そのさぬき市コミュニティバスで、さぬき市の中心部である志度を目指すことにしたい。
1日4本のバスであるが、どうにか捕まえることができた。
というか、高知から始まる今日の旅程は、このバスを中心にして決めたといっても過言ではない。

そして琴電志度駅に到着。
決モチームY間宮

琴電の志度駅とJRの志度駅は、目と鼻の先ではあるが別の場所にある。
私鉄駅の立地としてなかなか好ましい感じである。

そしてこの琴電志度から志度線で八栗を目指すことにする。
琴電で使われているのは、名古屋市営地下鉄東山線のお下がりの15m車であるが、電車は日中でも30分ごとに来るので、地方都市としては利便性がいい。

そして八栗に到着。
並走するJRには「八栗口」はあっても、八栗そのものに駅は無い。(少し南に「古高松南」はあるが)
決モチームPみく

さて、この駅から八栗ケーブルへ行くためには、しばらく歩かないといけない。
しかし、駅ではアシスト付きレンタサイクルを貸し出しているので、これで八栗ケーブルの駅まで行くこととしたい。
それにしても、アシスト付きのレンタサイクルということはよほどの山道なのだろうか。先行きが不安である。

果たして、立ち漕ぎで限界かと思った先に八栗ケーブルの登山口駅はあった。

いかにも1960年代に製造したような流線型の車両が今でも使われている。
ケーブルカーなので、流線型にして速度にこだわる程でもあるまい。なにより、スペースを浪費することで定員が少なくなると思うのだが、そもそもそれが気にならない程度の定員しか乗ることが無いということなのだろう。

出発すると、音の割れたスピーカーから源平合戦にちなむ童謡が聞こえてまるでホラー映画である。

そして八栗山頂に到着したらあとは下るだけである。
下りでは例の不気味な童謡はかからなかった。

途中、何やら気になる感じの庭園風のうどん屋があったので入ることに。
決死モデル:チームRナオミ

うどんそのものの味は忘れたが、期せずして「うどんツアー」になってしまった。
あとはまた八栗駅に戻りレンタサイクルを返し、琴電で元来た志度に戻るだけである。
今回の宿は徳島なので、高松は目指さず琴電を単純往復である。

そしてあとは徳島を目指すだけ。

N2000系特急「うずしお」で徳島に到着。
この形式も意外に古く、JR四国発足すぐの1989年にデビューしている。
決死モデル:トルソーさん丸尾

その隣には、国鉄時代からあるキハ185系「むろと」。

あとは徳島駅前の宿に投宿するだけである。

 

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