港の風

朝8時現在の気温は札幌-2.9℃で小樽は+1.4℃。

朝から札幌から小樽に移動する。
気温がプラスに転じていた小樽とはいえそこは港町。海から吹く風が強く吹き付けて体感温度はむしろ札幌より寒いほどである。

小樽駅から三角市場へ行く道には、石川啄木の歌碑がある。
決死モデル:チームWB嵐山

曰く、

子を負ひて
風の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな

現在の函館本線が北海道鉄道の路線として函館から小樽まで全通たのが明治37年でその3年後の明治40年、代用教員を務めていた郷里岩手の小学校で同盟休校ストライキ騒ぎを起こして居られなくなった啄木は、その5月に単身で函館に流れ着くことになる。
その後、

・明治40年6月 函館の小学校の代用教員
・7月 家族を函館に呼び寄せる
・8月 函館大火
・9月 札幌に移り、北門新報の校正係
・10月 小樽に移り、小樽日報の記者となる
・12月 社内の内紛で小樽日報をクビ
・明治41年1月 単身で釧路へ
・3月 主筆への不満と創作への憧れから東京へ

飛行機もなかった時代に、官僚もびっくりの流転の人生である。
ちなみに、啄木が釧路に発った前年の明治40年に、根室本線が全通したばかりだったのだ。

小樽の味覚といえば寿司か、それとも最近勃興したあんかけ焼そばかと言った話になりそうだが、一応観光客らしく寿司を食べることにする。
最近の北海道経済は、中国からの観光客頼りのようで、どの店も中国語表記に抜かりがない。

それにしても高いの何の。。。
丼一つで2千いくらとか3千いくらとかそんな世界である。
ウニ丼に至っては6千円。
なかなかのお値段である。

その後、お定まりの北一ガラス工房を見るなどして時間を過ごし、帰途に就く。

帰りの便もANAを予約したつもりだったが、実はコードシェア便で、機材はADOエアドゥだった。落魄である。

機材はともかく心配だったのは、モバイルバッテリーを何回か落としており、内部でカタカタなっていたことである。
これが機内で爆発でもされた日には迷惑どころの話ではない。数百人の乗客を道連れにして「エアドゥ36便墜落事故。原因は乗客のモバイルバッテリーの爆発」などと一瞬にして多くの人から末代までの恨みを買う身に身を窶すことになっていただろう。

果たして、このような愚にも付かぬエントリーを書けているのは、こうして無事に到着しているからである。
決死モデル:チームTヤギー

さて、帰りましょうか。。。
京急は最初が急行の羽田行き、その次が快特である。

品川で乗り換えるのは甚だ面倒なので、次の快特で浅草線まで駆け抜けましょう。。。
と思ったら京急蒲田での停車時間がやたら長い気がする。

もしかしてと思ったら逆に動き出す。
コレは京急久里浜行きだったのだ。
自分も焼きが回ったものよ。。。

結局、武蔵小金井でスマホをget backするのは明日以降としたい。

ともかくも最終から1つ前で新鎌ヶ谷に到着。
反対側の高砂方面の最終は矢切行きらしい。
矢切というのは高砂への入出庫車であろうか(京阪の萱島車庫への入出庫は、京都側からの場合萱島では寝屋川市となるのと同様)。いや、もしそうであればもう1つ先の新柴又でも良さそうなところである。
新鎌ヶ谷や東松戸で乗り換える松戸市民の需要といったところであろうか。

それはともかく、新京成線もないのでタクシーで帰途につくことに・・・

 

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