体重の推移は以下の如し。
まあ昨日-2.0祭したので減ってるということはないだろう。
ただ10回平均で見れば確実に減ってる。
この調子で-3.0の高み・・・いや低みを目指していきたい。
そのためには引き続きカロメ生活を続けていくのみである。
体重の推移は以下の如し。
まあ昨日-2.0祭したので減ってるということはないだろう。
ただ10回平均で見れば確実に減ってる。
この調子で-3.0の高み・・・いや低みを目指していきたい。
そのためには引き続きカロメ生活を続けていくのみである。
「義手と義足の昭和史」前回で紹介した盧溝橋事件の1か月後。
今度は上海で戦闘状態が勃発した。これが「第二次上海事変」である。
これは「LIFE」誌の1937年10月4日号に掲載された「上海南駅の赤ん坊」という有名な写真であるという。
日本軍の爆撃により一人上海南駅に投げ出され、大火傷を負った赤ん坊。
Wikipediaによれば、以下のような状況であったという。
午後4時、16機の日本軍の飛行機が来襲し、空襲によって上海南駅で杭州行きの列車を待っていた市民たちが多く死傷した。王小亭は急いで彼の車で廃墟となった上海南駅に駆け付けた。彼が駅についたときの惨状と混乱を、彼はこう語っている。
「それはひどいありさまでした。人々はまだ起き上がろうとしていました。死者や負傷者が線路やプラットホームを越えて散らばっていました。手足がそこらじゅうにありました。私の仕事だけが見たものを忘れさせてくれました。ふと、私の靴が血で浸されているのに気付き、私は映写機の再装填をやめました。線路まで歩いていき、頭上の燃えている橋を背景に長回しのシーンを撮りました。そこで線路から赤ん坊を拾い上げプラットホームに運んでいる男性を見つけました。彼は別の酷く傷ついた子供のところに戻って行きました。その母親は線路で死んで横たわっていました。私がこの悲劇を映画に撮っているときに、飛行機が戻ってくる音が聞こえました。即座に残った映画フィルムで赤ん坊を撮影しました。私は赤ん坊を安全なところへ運ぶために走って行きましたが、そのとき赤ん坊の父親が帰ってきました。爆撃機が頭上を横切りました。爆弾は落ちてきませんでした。」。
やけどを負い、けがをして泣く赤ん坊の名前も性別も、この後生き残ったのかも不明のままである。
いずれ、この写真は、アメリカの中国への同情と、反日感情をあおることになったのだという。
ちなみに、この当時の上海南駅は、現在杭州への高速鉄道が発着する上海南駅とは全く別の場所にあり、上海軌道交通4号線の「西蔵南路」と「南浦大橋」の間ぐらいにあったのだという。現在の上海南駅は、上海市街の南の外れ。
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昭和8年「我が代表堂々退場す」の時は、中華民国は満州非承認の急先鋒であり、なおかつ中国大陸では局地的な戦闘が勃発していたとは言うものの、全面的な戦争に至っているというわけではなかった。
その舞台となった盧溝橋の歴史は非常に古いく、金代の1192年に完成している。
そして13世紀に「東方見聞録」をものしたマルコ・ポーロは、この盧溝橋を「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と表現したというほどの橋である。
爾来七百幾星霜、科挙に赴く受験生が渡ったかもしれないし、宦官が渡ったかもしれない。
そして元代、明代、清代ときて中華民国の時代となり、中国も外圧という形ではあり、非常な痛みを伴いつつも近代国家の道を歩んでいくことになる。
中華民国になって26年目、すなわち民国26年7月7日の晩、謎の発砲が起きる。
日本軍はこれを中国兵の仕業であると難詰した。
このいざこざは思いのほか大規模な戦闘に発展することになった。
これが日中戦争の始まりである。
昭和8年2月24日、スイスはジュネーブで行われた国際聯盟総会にて。
リットン調査団の報告書に基づいた対日勧告書(満州国を国家承認せず、国際管理下に置くこと)が賛成42、反対1、棄権1の圧倒的多数で採択されると、大日本帝国の全権代表として出席していた松岡洋右は憤然として退場、翌25日の東京朝日新聞では「我が代表堂々退場す」という今日残る名文句の見出しで報じられることとなった。
ところで、この見出しでは「聯盟よさらば!」とあるが、国際聯盟の脱退を政府として決定したのは3月8日、それを国際聯盟に通告したのは27日であるという。
当方としても現在話題となっている百田某同様、Wikipediaで見る以上の近代史に関する知識は持ち合わせていないのだが、この後の日本の国際的孤立を象徴する出来事となったこの「堂々退場す」にしても、その前段階の「十字架上の日本」という、日本の立場を述べた英語の演説は、松岡のその英語力が英仏など各国の代表に好評ではあったという。
現在、Twitterで「南京事件」で検索して最もいいねやRTが多いのは、安田峰俊氏のこのツイートではないだろうか。
実習生問題 →慰安婦問題も官民ごちゃごちゃしながら人権侵害的なことしてたんやろなあ
入管収容問題 →南京事件も現場の人が「職務に忠実」やったんやろなあ
と、日本の歴史問題が割と事実らしいことが体感的に判明してしまうので、当局は歴史の隠蔽のためには至急目前の問題を解決する必要がある
— 安田峰俊『さいはての中国』『八九六四』好評発売中 (@YSD0118) 2018年11月22日
平成も残すところあと少し・・・
洞口さんほんま草
コラボしてくれ〜
前進チャンネル特別編「質問コーナー(前編)」 https://t.co/Fga0LumV09 @YouTubeより pic.twitter.com/T8nqaRlGix
— えらてんチャンネル@12/16著書発売10万部売る (@eraitencho) 2018年9月13日
もはや伝説と言っていいイベントとなった2011年7月16日の「切断女の夜」。
拙ブログでも独立ページを設けてまでイベントレポートとして触れている。
『切断女の夜』は第一部がトーク、臼井氏の義足講義、第二部がパフォーマンス。(義足だけは)おさわりOK、手足1本欠損につき入場料1000円オフ、オリジナルカクテル「切り株」とバウムクーヘンの販売などなど…エッジーだったな〜!【写真レポ】https://t.co/vDOdzbd1Hh
— Mari Katayama (@katayamari) 2015年11月9日
長らくヴェルディの守護神だった川口能活が現役引退するという。
元日本代表守護神・川口能活が43歳での引退を発表。25年間の現役生活に幕
J3のSC相模原に所属する川口能活の現役引退が発表された。日本代表ではGK歴代最多の116試合に出場。98・06年W杯正GKhttps://t.co/xcj2a4buS2
— フットボールチャンネル⚽️ (@foot_ch) 2018年11月4日
今日慌ただしい最大の理由は欠損バー。
【満員御礼】『ハロウィンパーティ⭐️2018. 11.03』【ありがとうございます】
キャンセル待ちをご希望の方は公式までご連絡ください。https://t.co/0LBmGZS6Ay— 欠損BAR ブッシュドノエル公式 (@bucheden0el) 2018年10月28日
今年も新宿は花園神社の酉の市のシーズンがやってくる。
つまり「見世物小屋」のシーズンということ。
本日10/31(水)-11/1(木)東京・新宿の花園神社で酉の市(一の酉)開催。縁起物の熊手を商う露店が立ち並び、深夜2時頃まで賑わいます。見世物小屋興行も行われます→https://t.co/Iyy6Qd6LZ4 pic.twitter.com/1x9087O26v
— イベントチェッカー製作委員会 (@event_checker) 2018年10月30日
金沢明子のイエロー・サブマリン音頭。
米軍基地が隣にある生活。それは危険そのもの。
であるからこそ、先の沖縄県知事選においてもやはり争点は米軍基地の辺野古移転であり、佐喜眞票の多かった宜野湾市においても普天間基地を擁しており「佐喜眞に投票すれば普天間基地が出て行ってくれるから」という点では変わりないであろう。
沖縄の民意が示されても政府は「辺野古が唯一の解決策」を繰り返すだけ。情勢が激変する中、辺野古への固執が、日本沖縄にとって得策か
NYT「日本で最も貧しい市民に不公平で危険な負担押し付けることできない。首相と米軍司令官は解決策見いだすべき」日刊ゲンダイ https://t.co/LoMbgf4eFk
— 望月衣塑子 (@ISOKO_MOCHIZUKI) 2018年10月4日