いくら東南アジアが発達しているとは言っても、今回の旅行は宿には恵まれていない・・・
それにしても、ここはやたら中国ナイズされているということ。
【私がカンボジアを旅しながら感じたのは、「中華」の文化は、特に家族や集団を重視するアジアや発展途上国に浸透しやすい、ある種の「包容力」を持つのではないかということ】
「中国は好き、アメリカは嫌い…」アジアで中華文化が浸透する理由 https://t.co/zeHUQgao6b
— 現代ビジネス (@gendai_biz) 2018年2月20日
やっぱり今朝も宿には恵まれていないのを痛感した。後発開発途上国(LDC)を舐めちゃいけない。
朝7時にシアヌークビルの駅を発車する列車に乗るために、6時にこの宿を出る予定だった。
しかし、フロントには人間はだれもおらず、例によって大型犬がいるだけ。
それも「ウ~~~」とか唸ってるんだけど・・・
で、部屋に戻り電話で呼び出そうにも、電話が無い!!!
一計を案じ、スマホで電話をかけ呼び出すことにした。
これでどうにかチェックアウトと、トゥクトゥクを呼ぶ事ができた。
ちなみに、ここはフィットネス施設が付属していたり、フロントでは剣道の面が飾ってあったりと、やたらスポーツを推している。
カレッジスポーツの合宿所などに使われているのだろうか。
(決モ:トルソーさんの丸尾)
さて、トゥクトゥクは3ドルで駅まで連れて行ってくれるという。
元々、駅から比較的近いということでここにしたのである。
程なくして駅に到着した。
駅の後ろはすぐ港であり、コンテナやクレーンが少し積まれている。
(決モ:チームRナオミ)
ここはカンボジア最大の貿易港である。
とは言っても、神戸港や釜山港のようなイメージを持たれると拍子抜けする。
人口1100万でGDPも2兆円弱と、日本の都道府県別の県内総生産と比較しても、再開の鳥取県(1.8兆円)より少し多いという程度なのである。
(参考:カンボジアについてはJETROのHP、各都道府県については内閣府のHP)
それはともかくホームに入ると、列車はすでに出発の準備をしており、車も積み込まれている。
号車番号というのは特になく、車両ごとに「F」「G」「H」などとあり、車両ごとに定員が決まっている感じである。
先述の通り、元ガスエレクトリックの気動車だったものを客車にしているので、先頭車はエンジンルームの分定員が少ない。
中間車はというと、真ん中を個室席やトイレに改造しており、やはり定員は少ない。
列車は定刻の朝7時に出発。
車内はおおよそこんな感じであり、もう自由奔放である。
(決モ:チームR持田)
ところで、冷房の効いた車内で自由奔放にカップラーメンなどを食べるので、匂いがこもるのは仕方がないとして、機関車の排気ガスもひどい。
機関車は、カンボジア内戦やポル・ポト期を生き抜いた1969年フランス製のBB-1050の1055号機である。
製造初年から50年になんなんとするこの機関車の排気ガスで、この3.11という日本にとって大きな節目となってしまったこの日に、異国の地で自分までどうにかなってしまいそうである。
そしてカンポットに到着。
例によって、タケオより小規模な市が立っている。
乗客がやや増えたが、特に車内が窮屈になるということは無い。
そして上り列車はプノンペンを目指す。
途中、昨日同様Tuk measで列車交換となる。
昨日とは逆に、上り列車であるこちらが先にこの交換ポイントに到着したので、こちらの列車が先に引き込み線に入る。どうもそういうルールになっているようである。
また昨日同様1時間ぐらい待つのだろうか・・・ と思ったら、5分程度でシアヌークビル行きの下りが来た。
そしてまた、こちらも本線に戻りプノンペンを目指す。
こちらの時間で正午、つまり日本時間では14時となった。
あの14時46分まで1時間を切った。
カンボジア王国の国旗が翩翻とひるがえる駅構内でしばし小休憩。
昨日と違うのは、トゥクトゥクが待っていたことである。
さて、タケオを発車すると12:40過ぎとなった。
つまり日本時間では14:40過ぎとなり、日本を愛する普通の日本人が記銘すべきあの時刻まで10分を切った。
車内は観光客の笑い声で賑やかだが、日本を愛する普通の日本人である自分は勝手に厳粛な気持ちになる。
そして14時46分。
黙祷。
東日本大震災といえば、自分自身は帰宅難民となったし、TRS48にしたって無傷ではなかった。
と、それはともかく東日本大震災では個人的にも色々な事があった。
仕事では被災した地域の支社や支店に電話をかけ、立て直しを図らないといけなかった。
ただ、当時の課の中では自分は古参で自分しかできない業務もあり、仕事においては株を上げたという記憶がある。
とはいえ、悲惨な災害であったということには変わりない。
さてさて、あとは終点プノンペンに向かって平野を走るのみである。
そして家並みが多くなり、踏切にはトラックやバイクが群れをなしてきた。
ついにプノンペンである。
14時過ぎ、プノンペンに到着するとすぐに機回しを始める。これでカンボジア内戦の生き残りBB-1055ともお別れである。
(決モ:チームRスマレ)
1面2線のホームに乗客が吐き出される。
改札口ではトゥクトゥクの運ちゃんが客を呼び込んでいる。
駅のロビーは、正面から入って左側は南線のタケオ・カンポット方面の切符売り場で、その上には国王夫妻の肖像画が飾ってある。
逆に、正面向かって右側はバッタンバン・ポイペト方面で、全く人はいない。
1週間に1回、荒廃した客車が走っているということであったが、もう走っていないのだろうか。
そして入口の近くには、かつて日本の国鉄にもあったような大きなはかりがあり、文字盤の表記を見てみるとどうもフランス製のようである。
しかしまたこの骨董品のようなフランス製の秤は、このプノンペン駅に本部があったというクメール・ルージュの、ポル・ポトやイェン・サリ、そして首都から農村に追われるインテリや市民たちの姿も見ていたのだろうか。
駅から外に出ると、一斉にまたトゥクトゥクの運ちゃんの攻勢にさらされる。
「どこ行くんだ?」
「そこの機関車だよ」
やれやれといった感じで諦められる。
駅構内の南側の道路沿いに、機関車が静態保存されている。
形式名は136-106というのだそうで、除煙板の折れ方を見ると、ベトナムやインドネシアのように日本型が入ったのではなく、ヨーロピアンなスタイルである。
やはりこれもフランス製であり、ポル・ポトの時代のさらに前、豊かだった時代に米をプノンペンまで運んだだろうか。
現在は、高層ビルが立ち並ぶプノンペンを静かに見守っている。
さて、それはともかく次にどこへ行きましょうという話である。
プノンペンの駅前には米屋が並んでいる。
これが日本の町なら「米屋町」とでも付くだろうか。
(決モ:チームY城ヶ崎)
かつてはカンボジアも米の輸出国であったという。
内戦期の壊滅的な減産を経て、現在は昔の生産量以上に史上ない増産記録を塗り替えており、再び輸出国になっているのだという(JVCカンボジアボランティアチームのブログより)。
さて、昨日シアヌークビルで下ろした金では足りなかったようで、財布の中が素寒貧である。
ということで、駅前の銀行のATMで金を下ろすことにしよう。
で、中国銀行(香港)と加華銀行の入る高層ビルのATMで100ドル下ろすことに。
・・・と、100ドル札が1枚だけ出てきたんですけど!?
この物価水準の限りなく低い国で、100ドル札1枚をどの店で使えというのだろうか?
屋台ではとても仕えたものではない。
何と気の利かないATMであろうか。加華銀行(Canadia bank)、カナダ国籍の華僑がカンボジアに開いた銀行であるというが、もう少し現地情勢に配慮してほしいものである。
さて、100ドルなんて高級紙幣を使えそうな店つまり高級料理店で昼食をすることにしたい。
高級そうな店構えをしてるのは・・・ 結局中国系のレストランということになる。
それも蘭州ラーメンというのがあったので、ここプノンペンでザムって見ることにしたい。
(決モ:チームP芳香ちゃん)
ザムるのは西川口のザムザムの泉以来2回目である。
とはいえ、ここで払ったのはたったの8ドル。
中国では米ドルは「美元」といい、中国元を呼ぶときは「元」ではなく「块」で呼んでいる。
それと同様に米ドルも「块」と呼んでいた。そんなもんなのね・・・
さて、カンボジアと言ってまず思い出すイメージといえば地雷そしてポル・ポト。
ということで「東洋のアウシュビッツ」とも言うべきトゥールスレンの収容所博物館を見に行くことにしたい。
もう門構えからしてアウシュビッツ然としている。
この悲惨な場所での決死は誰にやってもらう?
犯罪といえば犯罪なのでデカレンジャー出身のウメコやジャスミンにやってもらう?
ここは人間ではなくアンドロイドであるチームTエリーにお出まし願うこととしたい。
6ドル払って入ってみると、最初に思うのは緑が豊かだということである。
緑豊かな南国のキャンパスという趣があるが、それもそのはずで、元々は「トゥール・スバイ・プレイ」という高校だったのだそうだ。
基本的に、ここを見学しているのは外国人観光客だらけである。
現在ではカンボジア人も平和ボケしているようで、ポル・ポトの時代も「教科書で数行習うだけのこと」になっているのだそうな。
慰霊碑の周りでは子供達が遊んでいる。
さて、収容所はその教室を転用したものであったのだが、今は虐殺された犠牲者の顔写真がパネルに並べられている。
中には拷問されて顔が変形しているのもある。
1975~77年が最も多いというが、基本的には白黒写真である。
その何枚も並べられている顔写真の中で、ひときわ美人な女性がいた。首から「3」という札をぶら下げられている。この人も殺されたらしい。
その時は大して気にも留めなかったが、別の棟に行くと、その女性の写真が大写しになっていた。
彼女の名前はHout Bophanaというらしい。
語学力を生かしてプノンペンでアメリカの人権団体で働いている時にCIAのメンバーになり、25歳で殺されたという彼女は、クメール・ルージュから旦那と別れるよう命令されたが、それを拒んで愛を貫いたのだという。
そのあたりのことを日本語で触れるには、このブログやカンボジア日本人会のHPが詳しいので参照ありたい。
現在は、このボパナの名前を取った「ボパナ視聴覚センター」というのまであるのだそうで、「カンボジアのアンネ・フランク」とまで言われているという。
たくさんある写真の中でもひときわ美人だと思ったが、やはりオーラが違ったのだろう。
そしてまた共産主義国家の常として、ポル・ポトの銅像が各所で建てられていたようである。
しかし現在は顔にバッテンされて打ち棄てられている。
しかし、あまりの罪業に打ち棄てられているだけでは飽き足りず蹴っ飛ばしたり破壊しようとしたりする人もいたのだろう。
現在はこのように鉄格子に入れられてガードされている。
そして、別の部屋では頭蓋骨で並べられたカンボジアと、血で描かれたメコン川の地図がある。
これは現在は写真だけが展示してあり、直接見ることはできないが、頭蓋骨が所狭しと並べられている。
カンボジアに行ったら必ず見るべき文物であるとはいえ、鬱々とした気分になったので、次はこの近くの北朝鮮レストラン「平壌冷麺館」に行って気分を上げることにしたい。
中国では、経済制裁で北レスの閉店が相次いでいるというが、カンボジアのこの店は元気である。
ついでに、犬鍋(狗肉湯)もあったが、釜山でもそうだったようにエゴマの匂いが嫌いなので注文はしないことにする。
(決モ:チームR園田)
色とりどりのチマチョゴリを着た接待員同志が接客している。
「歌は何時から始まるの?」
「7時半よ」
そうして待っていると、慌ただしくショーの準備を始めた。
北レスでショーを見るのは、2年前のハノイ以来である。
いよいよショーが始まった。
本来、こんな写真は良い子は撮ってはいけない。文字通りの決死撮影である。
ハノイの時と違うのは、ハノイが日本人客を目当てにした歌中心であるのに対し、プノンペンのそれは楽器中心であるということである。
アナウンスは朝鮮語→中国語→クメール語の順番でやるようであった。
ちなみに大同江ビールは置いてなく、地元のアンコールビールならあるという状況。
ショーは1時間程度で終了した。
支払いは、不倶戴天の仇敵であるはずの米ドル。
良い時間になったので、店を出てトゥクトゥクで空港を目指すことにしたい。
空港までは10ドルで相談成立。
ということで、生暖かい夜のプノンペンを西へ走る。
空港は結構人でひしめいている。
そんな人垣を縫うように空港に入る。
出発まであと2時間ぐらいあるので、機内に持っていく荷物と別送する荷物をより分け、アルコールティッシュで体をふいて機内の人となることにしたい。
免税エリアに入ると、やたら食べる所が充実している。
これはヤンゴン空港以上の充実ぶりで、カンボジアを舐めていた。
バーガーキングでも何でもござれである。
そしていい時間になったので、ソウル行きKE690便の中の人となる。
23時45分出発なので、もうソウルに着くまで寝るだけである。