明治38年6月22日「堀江六人斬り」で17歳の芸妓「妻吉」が発狂した主人に斬られ両腕を失って18年後の記事を紹介したい。
ちなみに、拙ブログのヘッダ画像もまたこの「堀江六人斬り」を報じた新聞記事である。
ちなみに事件現場には既に行ったことがある。
芸妓であった「妻吉」はその後、明治の末年に24歳で日本書画家山口草平と結婚し「山口米子」として主婦としての生活を送っていた。
「大石順教」として得度するのはまだ後年のこと。
大正12年4月23日の読売新聞より。
この時点で米子は35歳、4人の子の母になっていたという。
それでも、芸妓をしていたというだけあって、今で言えば田中裕子似の美人の影は健在であった。
その山口米子は筆を口にとって、更紗模様を描き続けていたという。
そして東京は日本橋倶楽部、その作品50点の展覧会を開くという運びになったのだという。
いわく「ふとしたことからあらぬ噂を立てられ弱っていたが、家族と共に大阪を引き払い東京へ来ることとした」
実際にどのような噂かはここでは説明されていないが、情報通信も発達しておらず娯楽も無い時代のこと。
身体の不自由を乗り越え4人の子供を育てた褒め者であったとはいえ、美人で注目の的であったことはさまざまの妬みも生んだことは想像に難くない。
ちなみに、更紗模様というのはこのような模様。
(フリー素材集「GAHAG」より)
室町時代に、当時の明から伝わってきたのだという。
「更紗」の語源は、インドのスーラト(Surat)であるとも言われているが、リンス・ホーテン『東方案内記』のsarasoあるいはsarassesだったのではないかという説が有力である。