新小岩の奇跡・【義手と義足の昭和史】片足切断を悲観し娘を絞殺(昭和31年)

米軍基地が隣にある生活。それは危険そのもの。
であるからこそ、先の沖縄県知事選においてもやはり争点は米軍基地の辺野古移転であり、佐喜眞票の多かった宜野湾市においても普天間基地を擁しており「佐喜眞に投票すれば普天間基地が出て行ってくれるから」という点では変わりないであろう。

その点は日本の本土でも変わることはない。
沖縄と同様に、各地で墜落事故を起こしては雀の涙程度の保障が出るか出ないかという程度。
そのようにして、海のすぐ先に「共産圏」と対峙する日本は辛うじて安全保障していた歴史がある。

昭和31年2月3日午前中のこと。

当時は茶色の40系や72系が走っていた総武線の新小岩駅の上空を、戦闘機がきりもみで墜落してくる。

その戦闘機は、駅の北側の商店街の近くに墜落する大惨事となってしまった。

結果、2軒が全焼、3軒が半焼となる。
また、人的被害は重傷者が数人出たものの、操縦していたパイロット以外に死者がいないという奇跡的なものであった。
これが、もう少しずれていたら商店街に直撃し、数百人単位の死者が出ていたのではないかと言われている。

同じ紙面では、コルチナ・ダンペッツォ冬季五輪での猪谷千春について報じている。
夏季の五輪と違い、冬季五輪はやたら無名な場所での開催がやたら多い。
冬季オリンピック開催地は、戦後のみについていえば以下の通りになっている。

  • 1948 サンモリッツ(スイス)
  • 1952 オスロ(カナダ)
  • 1956 コルチナ・ダンペッツォ(伊)
  • 1960 スコーバレー(米)
  • 1964 インスブルック(墺)
  • 1968 グルノーブル(仏)
  • 1972 札幌(日)
  • 1976 インスブルック(墺)
  • 1980 レークプラシッド(米)
  • 1984 サラエボ(ユーゴ)
  • 1988 カルガリー(カナダ)
  • 1992 アルベールビル(仏)
  • 1994 リレハンメル(ノルウェー)
  • 1998 長野(日)
  • 2002 ソルトレークシティー(米)
  • 2006 トリノ(伊)
  • 2010 バンクーバー(カナダ)
  • 2014 ソチ(露)
  • 2018 平昌(韓)
  • 2022 北京(中)

むしろ最近の方が有名な年での開催が増えているような気がする。
これはオリンピックの商業化によるものであろうか。現在東京で進められている2020にしても、やたら金がかかっている(その割には人には支払われない)という事が問題になっている。

ただ、話の脱線ついでに「オリンピックの商業化」が一概に悪いことかと言われればそれもまた違う。それは1980年のモスクワ五輪のことで、政府主導で純粋なアマチュアリズムにより結成された選手団は、ソ連のアフガン侵攻への抗議という政治的な事情で、アメリカに追従して日本選手団は出場することができなかった。(あ、今回のテーマのアメリカ追従に奇しくも合致した)
これに対し、ヨーロッパでは政府の支援を受けずに選手団が独自で、国旗を背負わず五輪旗で参加した。国に頼らないだけの財力を、その国のオリンピック委員会が持っていたという事である。
このことが、日本でも次回のロサンゼルスオリンピック以降の過剰な商業化に拍車を掛けたといっても過言ではない。

しかし、市街地への米軍機の墜落はこれが初めてではなかった。
この事故の前日の2月2日には、東京北部で米軍機の衝撃波で民家のガラスが割れるという事故が発生していたという。

このような事故は事前に防ぐことはできなかったのか?
そもそも、空軍規則では都市部での訓練は禁止されているのである。

これに対し、運輸省航空局の航務課長は「横田基地や厚木基地がある以上、東京都心部を遠回りして飛ぶというわけにはいかないだろう」と米軍を擁護している。
後の防衛施設庁となる調達庁の東京調達局長も「東京上空ではあまり飛ばないように善処を求めることもありうる」と、あまりにも及び腰な姿勢である。
昭和27年の講和条約による「Occupied Japan」からの主権回復から4年、国連加盟を申請していたがソ連はじめ東側諸国の反対で加盟がかなわず、この年の10月に日ソ共同宣言、12月の国連総会でようやく国連加盟することができた、という状態であった。

敗戦国であった発展途上国・日本が、戦勝国であり自由世界の盟主であるアメリカに意見を申すというのはどれだけのハードルがあることであっただろうか。

この件は国会でも問題となり、社会党議員が調達庁に対し「抗議する考えはあるか」と質問したのに対し、「再発したら米軍に注意喚起する必要がある」と、かなり米軍に対し気を使った物言いをしている。

このほかのニュースでは、都下の昭島市で炬燵で下半身を火傷し、右足切断の恐れもあると宣告された4歳女児を、将来を悲観した母親が絞殺するという事件が発生している。
当時「手足の切断」とは、「将来を悲観」するに十分な悲劇だったことが見て取れる。
ちなみに、本件で言及する米軍機の事故とは関係ないだろうが、この家の父親も米軍立川基地の日本人作業員であったもよう。

さて、ではその新小岩の現場に行ってみましょう。
松戸から新小岩は、常磐線の亀有で新小岩行きのバスに乗り換えることになる。
ちなみに、亀有も新小岩も同じ葛飾区となる。

そして新小岩駅前特に北口は、事故発生当時も現在も家屋が密集しておりバスを発着させるだけのスペースを確保できず、平和橋通りをはさんで「新小岩駅北東広場」というバスターミナルを確保せざるを得ない状態となっている。

そしてその近くが墜落現場となっている。
決死モデル:チームPペギー

今回決死モデルに起用したペギーはゴレンジャーで「スイスと日本のハーフ」という設定であったが、その中の中の人は、ゴレンジャーの数年後に「バトルフィーバーJ」でミス・アメリカの役をやっている(拙ブログ「アメリカさんのハイレグ文化」(2017.7.31)も参照)。
そのせいでかアメリカ案件や米軍案件になるとペギーを充当、という事になってしまった。(「ロングプリー事件」(2017.6.3)、「7月4日にドブ板通りを歩く」(2017.7.4))

ちなみに「自殺の名所」となってしまった新小岩駅であるが、総武線ホームと快速線ホームが分離するのは、事故から16年後の昭和47年の東京地下駅開業の時のこと。

それまでは、両国から房総方面へのキハ10系やキハ58がエグゾーストを響かせながらこのホームを通過していたのだ。

 


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