ランドリーゲートのすぐ先で

ちょっと拝島方面に行く用事ができた。
青梅線の立川~拝島と言えば、「雨のステイション」西立川駅や、「LAUNDRY-GATEの思い出」の米軍立川基地のランドリーゲートなど、ユーミンご当地スポットに事欠くことがない。

松任谷 由実 (Yumi Matsutôya) – LAUNDRY-GATE の想い出 от Sonate64 на Rutube.

で、今回の「事件現場を歩く」は、米軍が中共や北鮮といった共産圏諸国と対峙して、ランドリーゲートでは兵士の洗濯物がひっきりなしに出入りしていたであろう当時。そのランドリーゲートのすぐ先で起きた事件となる。

昭和29年に北多摩郡和町と拝町が合併して昭島市が発足して3年が経過した昭和32年10月27日のこと。

東京都同胞援護会の引揚者寮「昭和郷」のアパートで火災が発生した。
そもそもこのアパートは、昭和17年に陸軍技術研究所の工員宿舎として建てられたものを使用し、160世帯1200人が住んでいたが、立川消防署からも「危険建築物」に指定されていたほど、当時の水準でも劣悪な建築物であったという。
そして、この年の3月頃にも放火未遂が発生しており、この事件との関連も取りざたされていた。
結局、避難設備が整備されていなかったこと、水の便が悪かったこともあり、2棟が全焼し8名が死亡するという大惨事に発展した。

他の記事に目を移すと「立松記者釈放さる」という記事がある。
これは売春汚職事件で、読売新聞社会部の敏腕記者・立松和博が偽の情報をつかまされ、実名の国会議員を「近く収賄で召喚」と書いたことに対して名誉棄損で逮捕されたというものである。実はこれは検察が情報源を突き止めるためにわざと流した偽の情報であったという。
結局拘留期限までに容疑すべき点が上がってくることなく、立松記者は釈放される。しかし、結果的に「誤報」となった読売新聞では五段抜きの訂正記事を出し、立松記者本人は編集局付となり記者生命を絶たれ、結局この5年後の昭和37年に自殺することとなる。
このあたりのことは、漫画「栄光なき天才たち」で書いていたような気がするが、いずれこのことが「社会部王国」読売新聞の終りの始まりであったとされている。

また、日本シリーズは巨人対西鉄で、第2戦は西鉄が勝利したことが伝えられている。勝利投手は河村英文、敗戦投手は堀内庄だったようである。

さて、事件そのものの話に戻ると、火の気のない所から火が上がっただけに、発生当初から放火が疑われていたが、捜査は困難を極めたようである。

事件から半年が経過しようとしていた翌昭和33年3月8日、昭和郷アパートの元住人で、葛飾区の新小岩駅近くに住む元日本通運の運転手を逮捕するに至った。

それは、10月の火事に至る前の4月の放火事件で、隣の家の犬が吠えなかったので、犯人内部説に基づいて捜査しており、その線上に登ったからである。
その時の火事の保険金で、新小岩に家を買ったのだといい、容疑には保険金詐欺も付いた。

他の記事に目を移すと、これは「少年犯罪データベース管賀江留郎さんのマターになりそうだが、荒川区内の中学校で暴力沙汰が発生したということ。
それでなくとも「愚連隊」の時代である。それなりに人材供給する素地は中学校にはあったであろう。

そして3月11日の読売新聞では、捜査の進展について報じている。

死亡した8人のうち、1人には生活反応がなかった ――― つまり、殺されてから焼け死んだ疑いが強いというのである。
その1人は65歳女性で、娘と犯人が特別の関係にあり、妻子ある犯人をとがめたことから恨みによる殺人へと発展し、その痕跡を隠すために別の女性住人(やはりその放火で死亡)の名前へ民生委員への恨みを書き連ねて偽装したのではないか、という事も報じられている。

結局、現在では「唯一の殺人以外での死刑事件」として知られていることから、結局ここで疑われている殺人は立件できなかったのであろう。

他の記事に目を移すと、春闘の労使側の言い分を聞く記事となっている。
使用者側である日経連(日本経営者団体連盟=2002年に経団連と統合し日本経団連に)専務理事は「不況なのに賃上げ要求とは理不尽」と主張し、かたや労働者側である総評の副議長は「不況だなんて宣伝だ。ストもなるべく国民には迷惑を掛けないつもりだ」と言っている。国鉄の労使が悪化し順法闘争が常態化する前の時点で、ストは「一般市民への迷惑」と捉えられていたことが見て取れる。

一審は昭和34年7月6日、東京地裁八王子支部で「抑鬱症による心神耗弱」により死刑の休憩を退け無期懲役の判決が下るが、東京高裁での二審では昭和35年10月26日に逆転して死刑が言い渡されている。
実に事件発生からちょうど3年が経過しようとしていた。

死刑となったポイントは以下の点である。

  • 1回目の放火(昭和32年4月)ではアリバイ工作をした。
  • 2回目の放火(昭和32年10月。8名死亡)では、偽の手紙で罪を他人になすり付けようとした。

以上のことから心神耗弱が認められず「強盗殺人と同じ」として無期懲役が取り消されたのである。
ここでは、生活反応が出ず殺人が疑われた話については触れられていない。

最終的には、翌昭和36年7月31日に上告審でも死刑が覆らず確定した。

その昭和郷へ、プール帰りに行くのであれば、都営新宿線で新宿乗り換えとなる。

ところで新宿駅にも、例の都営地下鉄名物の中途半端なエスカレーターがある。足を痛めている身にはつらい。
これはどういう事だろう? 最初から「バリアフリー」の考えなどなく、健常者の便を「税収の範囲内でできる範囲で」追求した結果、こんな風になったしまったという事であろうか。
決死モデル:トルソーさんナイ

ここで適当に昼食を食べ、青梅快速で東中神を目指したい。

そして東中神に到着。
数年前まではローカル線情緒にあふれた駅だったようであるが、残念ながら橋上駅に建て替えられてしまった。地域の駅利用者の便利には関係なくただ残念の一言である。

さて、今日の決死モデルを誰にするか、という事であるが、そもそも事件現場なんてのはニコニコと写真に納まるような場所ではそもそもない。
それで、デカレンジャー出身のジャスミンY)やウメコP)、そして人間ではなくアンドロイドのエリーT)やファラキャトルソーさん)が多く起用されることとなった。

・・・が、今回連れてきている当番にその各名はいない。
現在いるのはアンヌT)、ナオミ天美R)といった布陣である。
この中で昭和史を語らせるのであれば、拙ブログでも触れた「隊員服を脱いだ私」の巻末で昭和史について触れているアンヌがギリギリその役を果たせるだろうかという判断である。
ちなみに同書の巻末では昭和32年の項目では美空ひばりの塩酸事件と、将棋で大山康晴が升田幸三を王将戦で下した事だけが掲載されている。

さて、先述の新聞記事では昭和郷アパートは「都同胞援護会」が経営するとあったが、その東京都同胞援護会も昭和郷も法人としては現存する。
昭和郷は現在では老人福祉施設の運営団体となっているようであるが、そのエントランスには法人の歴史を展示する資料館となっており、ホームページでもそのことが知らされている。
同施設は、老人福祉施設であるが特に外部の入所者を拒む雰囲気は無い。
ちょうど玄関わきの会議室のような所で、バザーで喫茶店をやっているようだったこともあったようだった。

資料館であるが、壁に貼っている年表形式の表には昭和32年の事件のことは触れていない。

では、実際の昭和郷アパートの61年後を訪れてみよう

現在の同地は人が住んでおらず、駐車場と公園になっている。
そして皮肉か必然か、そこは防火水槽も兼ねていた。

 

 

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