70年前の今日 ~桜桃忌~

ちょうど70年前の今日、太宰治と愛人の心中死体が発見され、以後この日が「桜桃忌」と呼ばれることになる。

その「70年前」の状況がどうであったか・・・

死体が発見されたのは6月19日であるとはいうものの、6月16日の時点で「太宰治氏情死行」として報じられるところとなっていた。

三鷹の仕事部屋に自らと愛人の写真を飾り、死の準備をした上で13日から行方が分からなくなっていた。
そして16日に報道されていた時点で2人の下駄が漂着しており、近所の玉川上水に身を投げたことはほぼ確定的であった。

太宰治には妻と子がおり、妻は「女の方が積極的に死のうとしてたんでしょう。遺書だって酔っぱらって書いたものでしょう」と、夫が積極的に自殺しようとしたとは考えていないようだった。
ちなみに愛人は戦時中に三井物産マニラ支店に勤めていた夫を亡くした戦争未亡人であったという。

また、実兄はこの時点で民選知事として初の青森県知事の座にあった。
元々、太宰治の実家の津島家は、地元では知らぬ者の無い名家であり、地元の金木尋常小学校では、津島家の子息は成績にかかわらず「甲」を付けられていたという(Wikipediaによる)。
その中でも六男であった太宰治は「開校以来の秀才」であったという。

ほかの記事に目を移すと、国鉄労組の中央闘争委員会が発足という記事がある。
この当時「日本国有鉄道」は発足しておらず、運輸省鉄道総局という純然たる「お役所」であった。
それでも、戦前から「省線」という呼び方と共に「国鉄」という呼ばれ方はしていたようで、労働組合の名称もその「国鉄」が日本国有鉄道の発足に先立って付けられていた。

翌6月17日の読売新聞では、知人や地元住民が引き続き2人の死体捜索を行っている様子が報じられている。
6月と言えば梅雨時で、玉川上水も増水していた。

玉川上水と言えば、平成も終わりを迎えようとしている現在でも東京都民の水道水として使われている。
また、現在東京都庁となっている西新宿のあたりは淀橋浄水場があり、玉川上水から取水された水は、都民の水源でもあった。
「青酸カリを服毒して入水自殺」となれば、青酸カリが水道水に与える影響も考えられるわけである。
そこで東京都水道局は浄水場の水門まで止めて捜索を行い、また、水質に関して「都民に影響はない」旨のコメントも発表している。

他のニュースに目を移すと、戦後からまだ3年という時期でもあり、配給に関するニュースが散見される。
曰く「魚、野菜の統制強化」。
曰く「衣料切符1人25点」。

翌6月18日の報道では、死体は発見されていないものの、評論家がすでに太宰の自殺を、これまでに自殺した作家(有島武郎、芥川龍之介)と共に論じており、「時代の悩みを死で解決」と結論付けている。

1923年に心中した有島武郎については「財産があったがアメリカから帰って北海道の農場を突如農民に開放し当時の世間を驚かしたがその驚きの中に彼の悩みがあったに違いない」と、分かったような分からないような結論となっている。
1927年に自殺した芥川龍之介に関しては、「当時台頭した進歩的なものをよく理解できたが身軽に自分がその中に飛び込んでいけぬ悩みがあったのだろう」と、これまた分かったような分からないような結びとなっている。
そして太宰については「作家としての行き詰まりではないか」としている。

他のニュースだと、約半年前に発生した帝銀事件に関し、「本物の東京都防疫部員の腕章はこれです」という写真を掲載している。

また「一流デパートが裏口営業」という記事もある。
これは、困窮者の毛布・衣類等は東京都が指定した引揚者団体の店を指定して購入すべきところ、それに指定されていない伊勢丹・白木屋・松坂屋などといった一流デパートが配給券持参者に裏で売ったというものである。
そこで、事業を圧迫された引揚者の店が怒ったというもの。

そして、20日の新聞でついに「死体発見」が報じられる。
ただし扱いとしては死体捜索中ほど大きいものではない。

それ以上に大きく報じられているのは、私鉄各社のストについてで、東急系は妥結の見通し、東武は難航しているとの記事である。
東武は後年に亘り組合が強く、ついには運転士専用の屋根までホームに備え付けられるという状態にまでなっている。

また、妥結の見通しの東急は、この6月に「大東急」から京王帝都電鉄、京浜急行電鉄、小田急電鉄を分離しほぼ現在の状態となって間もない状態であった。
その京王なども含め、記事中では「東急系」と一緒くたになって報道されていた。

また、下の小さな囲み記事では「全国高等学校野球選手権の大会歌」の募集広告がある。
この年の4月に学制改革があり、旧制中学が「高等学校」となり、中学野球も「高校野球」となることになった。
そこで「なるべく平易な言葉を使い清新はつらつたるもの」を大会歌として募集する運びとなったという事のようである。

そして採用されたのが「栄冠は君に輝く」であり、大会は今年でついに第100回を迎える。

さて、今回の「事件現場を歩く」は、70回目の桜桃忌である今日その太宰治の情死行を訪ねてみたい。

今回の事件で特徴的なのは、入水地点と発見地点が共に、Google mapに登録されていることである。
いつもの「事件現場を歩く」では、常に後ろめたさを感じながらのダークツーリズムとなり、たまには天からのお告げで途中退散などという事もあったが、今回はだれもが訪れる道という事になりそうである。

場所としては、三鷹駅からそれほど歩かない距離でもあり、死体発見現場まで充分徒歩で行くことができるであろう。

ということで、プールからあがった後は都営新宿線を明大前まで乗り越し、そこから井の頭線に乗り換えて中央線で三鷹までくることに。

吉祥寺から三鷹までは1駅で、三鷹では特別快速の待ち合わせを行う。
決モチームPみく

失敗したのは、この1駅の間だけなので総武緩行線を使えばよかったという事である。
向こうの方がどう見ても頻度は高いのである。
兎も角も着いたのだからどうでもいいんだけど。

さて、三鷹の駅はちょうど玉川上水の上にあり、駅前には昭和32年建築の「三鷹橋」が、まるではりまや橋のように欄干だけ残している。
またその横には手押しポンプがモニュメント的に残っている。
自分が小さい頃も、地下水はこのポンプでくみ上げていたものであり懐かしく思えた。

現在、太宰の入水地点には、郷里の青森県金木町産の石を使った「玉鹿石」が石碑としておかれている。
これが置かれたのは太宰の没後31年目となる昭和59年の事であり、太宰が死後津島家の墓に入れられなかったこととも考え合わせると、津島家としては太宰に対し良い感情は持っていなかったことは明白のようであり、先述の実兄・初代青森県民選知事であった津島文治のWikipediaの記事でも、

私生活では弟・修治(太宰治)の型破りな性格のために衝突をしばしば繰り返した。そのため、弟の自殺後にその名声が高まって文豪に加えられていく世間の状況には困惑していたという。

という記述がなされている。

現在の玉鹿石には、太宰ファンと思しき中年女性も見に来ていた。

さて、あとは玉川上水を下って、太宰と愛人の死体の後を追っていくことにしたい。
現在でも玉川上水には鬱蒼と草が生い茂っている。
そして流れは澱んでおり、昭和40年の淀橋浄水場閉場から50年以上たっていることを物語っている。

そして死体発見現場は旧カーブしており、明星学園の北門のあたりにある。

この時は、なぜか警官がウロウロしていたのだが、何か事件でもあったのだろうか。

そんな70年目の桜桃忌でしたとさ。

 

関連するエントリ(とシステム側で自動的に判断したもの)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です