釜山の日帝残滓めぐり

またぞろ日韓関係が慰安婦を巡っておかしなことになってるようですが・・・

せっかく釜山に来てるので、例の慰安婦像を見てこようか。

慰安婦像は、日本総領事館の門前にあるという。
ということで地下鉄の草梁チョリャン駅へ。
決死モデル:チームPメイ

やっぱり政治マターでそれも右寄りの話と来ればメイを措いて他にはいない。
何しろ中の中の人が青林堂から本を出すまでになったというのだから。
かりそめにもメジャーなアイドルで、戦隊モノにも出ていたはずが、よりにもよって青林堂から本を出すなんて、今後の仕事を著しく失うようなもんじゃないだろうか。別にこっちが心配することではないだろうけど。

例の慰安婦像は、車がたくさん走ってるような大通りに堂々と鎮座している。
そして帽子や毛布などを掛けているあたりが、韓国らしいパフォーマンスというべきか。

さて、ではにしこくん仕事しましょう・・・
そしてインスタグラムにアップ・・・と思ったら、昨日アップしていたテジクッパの写真に、韓国語で好意的なコメントが結構寄せられている。
曰く「いいもの見せていただきました」「いい写真ですね」「次に沙上(区)に来る時は別の店も試してみてね」etc…

これでは慰安婦像などアップできたものではない。
ということで、にしこくん写真はお蔵入り。

気を取り直して、今度は釜山市電の保存車輌を見に行きましょう。
釜山市電は、日韓併合1年前の1909年に、釜山駅から東莱トンネ温泉に行くための足として開業したのが始まりだという。

東亜大学校に保存してあるというので、キャンパスに一番近い下端ハタン駅へ。
決死モデル:チームTヤギー

この地下鉄駅からキャンパスまでは結構歩く。
結構広いキャンパスを持つ大学の最寄駅だけに、学生街となっているようで、学生向けのカジュアルなファーストフード系の店が多い街並みである。

バスも結構走っている。
・・・と、どこかで見たようなバスが走ってくる。
これは・・・?

去年の12月にミャンマーに行ってきた時に見た韓国の中古バスである。
16系統というのも全く同じ。
あれは釜山で走ってたものだったのか・・・

・・・で、肝心のキャンパスに行くと、市電の車両らしきものは見当たらない。
門前で交通整理している警備員に聞いてみる。

「ここで釜山の電車ある?」
「電車・・・?」

Wikipediaにある電車の写真を見せてみてもピンとこない様子。
「富民キャンパスって所にあるらしいんだけど」
「富民キャンパス!? だったら西大新洞ソデシンドンだ。地下鉄で行きな」

そういえば草梁チョリャンからこちらに来る際に、「西大新ソデシン」という駅があったような・・・
但し、富民キャンパス自体は、その西大新ソデシン駅よりも土城トソン駅の方が近いようであった。

ということで気を取り直して土城トソン駅へ。

そして釜山電車とご対面である。
しかしこのポールの立て方は、どう見ても鉄道が好きな人の仕事ではない。

電車の車両自体は、やたら幅広であるが、日帝の支配から光復した時期に、アメリカからの援助としてロサンゼルスから持ってきた車両なのだという。
ロサンゼルスの路面電車ということは・・・ つまり日系人の間で「赤電車」と呼ばれていたパシフィック電鉄(PE)のこと?
内部ものぞいてみたが、いかにもアメリカンな木製の転換クロスシートであった。

さて、この近くには「釜山臨時首都記念館」というのもあるのだそうな。
釜山の臨時首都とは、朝鮮戦争で「首都ソウルは死守する」と宣言しながら漢江の人道橋を爆破してソウル市民を取り残し、政府だけは釜山に移すといった挙に出た時の話である。
その大統領官邸の跡が、現在の「臨時首都記念館」なのだという。
釜山が臨時首都となった時も、保存されていた釜山電車は走っていたことだろう。

市電が保存されていた東亜大学校のキャンパスから坂を登ると、各国の国旗をあしらった階段がある。
決死モデル:チームT美川

これは朝鮮戦争当時、連合軍として参加した国々の国旗で、日本の国旗は当然無い。
ただし、旧日本軍の航空兵がひそかに参戦していたという記録は残っているのだそうな。それはゴルゴ13でもネタになっている(138巻「黄昏のカシミール」)。

さて、この階段を登り切り、大統領官邸だった所へ行くと・・・

何と休館でやがる。
月曜日だから仕方がないのかな。
図書館とか文化施設が月曜休みなのは日本も同じである。

仕方がないので下に下りて、別の場所を目指すこととする。

次は「事件現場を歩く」シリーズにしましょうかね。
アウンサン廟事件に次ぐ海外モノで、今回は「釜山アメリカ文化院放火事件」の現場へ行くこととしたい。
そういえばアウンサン廟事件も韓国が絡んだ事件だった。

今でこそ韓国は自由な国であるように見えるが、それもこれも1988年のソウルオリンピック以降の事であり、それ以前は、アメリカの核の傘の下の「自由主義陣営」にいるとはいえ、開発独裁であったり軍事政権であったりと、そうそう国民の自由などないようなじょうきょうであった。

そんな全斗煥政権下の1982年3月18日のこと・・・

アメリカ大使館釜山事務所も入っている釜山アメリカ文化院が放火された。
なぜアメリカ文化院が放火されたかというと、この2年前の光州事件で韓国政府は国民に銃口を向けて鎮圧した件に遡る。
この民主化の流れに対し、自由主義陣営の旗頭であったはずのアメリカは何の助力もしなかった。
この事が、韓国内の反米感情をくすぶらせていたのである。

さて、そのアメリカ文化院は、現在は「釜山近代歴史館」という博物館になっている。

駅としては、地下鉄の中央駅が近い。
決死モデル:チームPウメコ

中央駅なのか中央洞駅なのか、表記がばらついているが兎も角もこの駅は釜山の日程時代からの中心部に近い。
駅はかなり長い地下商店街となっており、大庁路までは結構歩く。

そして、少し坂を登った先にあるのが、そのアメリカ文化院のあった場所である。

なかなかどうして近代建築であるが、元々は日帝時代の東洋拓殖釜山支社として建築された建物であり、光復後はアメリカ文化院となるという、韓国の海外占領に関する建物であるという意味では終始一貫してきたといっていいだろう。

まだ博多までの高速船までは時間があるので、博物館を見てみようと思った。
もしかしたら釜山市電に関する資料も何かあるかもしれない。
と思って入ろうと思ったら・・・

また休館でやがる。
臨時首都記念館と言い、今回はこんなのばっかり。
月曜日だから仕方ないのかな。

ということで、釜山駅へ戻る足取りも重い。
この記念館の前にはバスが何本も走っているが、釜山駅は通るだろうか。
バス停を見てみると、40番と86番というのは釜山駅前を通るらしい。
折よく、40番のバスが来たのでそれに乗ることに。

そして釜山駅前に戻る。

釜山駅の南側に、港や空港へ向かうバスのバス停が並んでいる。
日本語で「カニツアー」と書かれたバス停まである。
決死モデル:チームTレナ

この奥の、釜山駅の南西側はちょっとした中華街になっているようであるが、規模は知れたものである。
世界中に中華街があるというが、世界で最も中華街が少ないのがこの朝鮮半島だという。
コリアンというのがまた、意外に差別意識が強い結果がこれなのだともいう。

さて、帰国を前に昼食を何か食べていきたい。
ということで、適当な食堂シクタンに入るが、どう見ても1人で入るような所ではない。
まあそれでも外国人旅行客なのでお許しいただくとして、メニューからプルコギチョンゴルを頼むことにする。
しかしこのプルコギチョンゴル、やたらエゴマの匂いが強く、まるでボシンタンを思い出させる味であり、トラウマを思い出してしまった。あれは本当に牛肉だったのだろうか。

さて、バスで港へ行き、ついに高速船ビートルに乗って韓国から去る時がやってきた。

比田勝から来た高速船と違い、客層は日本人もたまにいる。

そして博多へ向けた3時間の船旅が始まった。
高速船なのでシートベルトを付けるように言われる。
船は快調に玄界灘を走行していく。

・・・と、船内にニンニクの匂いが広がる。
JR九州の船でありながら、この船内は恰も「コリア」であることを実感させられる。

そして博多に到着。
入国印に「HAKATA」が押される。
決死モデル:チームY間宮

税関の職員に「昨日出国で今日入国ですか?」と聞かれる。
こういう時は密貿易でも疑われているのだろうか。

「いや、別に比田勝フェリーに乗りたくて釜山に行っただけなので」と答えると「あ、そうでしたか」という感じだった。

さて、まだ18時になっていない時間で、なおかつ新幹線の発車は20:08という中途半端な時間である。
旅打ちでプールにでも行くか・・・?
いや、やめておこう。夕食にしよう。

とりあえずは天神を目指すことにしたい。

この中央埠頭の国際ターミナルから天神の間は、BRTになっており、連接バスが走っている。

ところで、ジャカルタや新潟、そして大船渡線や気仙沼線にもあるBRTであるが、この「BRT」とはどのような定義になっているのであろうか。
Wikipediaによれば、以下のように定義されている。

  • バス専用車線
  • バス専用道路
  • 車外運賃徴収
  • 交差点での待遇
  • 乗降口の高さ

以前、ジャカルタに旅行に行った時に見たBRTは、専用の乗り場と専用の車線で、いかにも道路交通から特別扱いされたBRTという感じだったのだが、専用のカードを買わないといけないようで、面倒臭いので乗らなかったのだった。

以前大船渡線のBRTにも乗ったが、まあ盛や気仙沼の駅には、鉄道並みにBRTのホームがあったし、鉄道の軌道敷を転用した専用道があり、まあBRT何だろうなという感じはした。

しかしこの福岡のBRTと称するものは、別に専用道路もなければ専用の乗り場があるわけでもない。
ただ単にバスが連接車というだけの代物である。これでもBRTなんだろうか。
決死モデル:チームP桃園

果たして、天神コア
天神コア
天神コア
天神コアの前に到着する。

さてどこへ行きましょうかね・・・
ということで、一昨日博多から対馬への出発前に行けなかった北天神のベトナム料理で、フォーでも食べることにする。
ここもベトナム人がやっている店だったが、東京のベトナム料理ではあまり見ない「Pho gio vien」という、豚の肉団子のフォーがあったのでそれを食べることに。
豚はベトナム語でheoだったはずだが、「gio vien」とは何だろう? と思ったらそれは「肉団子」という意味だったようである。

さて、腹もいっぱいになったし、新幹線までは中途半端に時間があるしで、どこを見て歩こうか・・・ と思った時、目の前を西鉄バスの「田(後藤寺)川」行きが通って行った。

では天神のバスセンターへ行こう。
決死モデル:チームR真夜

それにしたって西鉄バスは4か国語表記が徹底している。
但し、バスの方向幕のように「小(砂津)倉」「飯(新飯塚駅)塚」「佐(第2合同庁舎前)賀」となっているわけではない。
ここは西鉄のバスセンターであるが、唐津行きは昭和バスだったり、熊本行きが九州産交だったりと、各社に開放はしているようである。

さて、職場へのお土産も買ったこととて、いよいよ博多を去ることにしたい。

帰りは鹿児島中央から来た「さくら」で帰る。
さくら」車両は、普通車でも指定席は2*2の4列で居住性が高い。
但しこれで8両編成となると、JR東海としても東海道新幹線に乗り入れてきては欲しくないだろう。

新幹線は、夜の山陽路を東へひた走る。
そして岡山へ到着。

岡山は、山陰や四国への結節点となるだけに色々な車両が出入りする。
決死モデル:チームTエリー

そして22:30が過ぎ、高松と出雲市からサンライズが入線してくる。

いつでも、併結風景は注目の的である。

22時34分、14両編成となった「サンライズ」は東京へ向けて出発。

当方は14号車「シングル」の中の人として眠りに就いた。

 

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