バスに乗って埼玉

今日は年に数回埼玉へ行く日となる。

普通に行くだけでは芸がないので、ちょっとひねろうか。
ひねりなさいひねりなさい(by嘉門達夫)

今回は「ダークツーリズム」というほどのことではないが、ちょっとした新聞沙汰になった事件を紹介したい。

狭山事件に関する記事を蒐集していた時に埼玉新聞で見つけた、昭和38年6月15日の記事。
狭山事件に関しては、犯人を逮捕したものの公判を維持できるほどの証拠もなくすぐに保釈し

そ昭和38年6月13日木曜日の朝。
上尾〜六道〜大宮には東武バスが走っており、上尾車庫の受け持ちであった。

運転手(27歳男):「おい!もうすぐ出発だってのに車内の清掃してないのかよ!」
車掌(22歳女):「・・・」

ところで、このバスはブレーキの調子がおかしいようだ。
しかし代わりのバスもない。
仕方ないから出発するしかない。

バスは埼玉の住宅地からラッシュ時の通勤客を運んで大宮を目指す。
懸念されたブレーキの故障も今のところはない。

バスが上尾市から大宮市に入ろうかという時にはもう定員55名から2名多い57名となっていた。
そして見沼代用水を渡った次の砂町2丁目では2人が下りたが、大宮へ通勤する約20人の乗客が待っている。

「この車はもう満員だから次のに乗ってもらってくれ」
「・・・。」

そして次の砂信号場。
現在なら「東大宮駅前」になるだろう。

その砂信号場では2名の客が待っている。
運転手はさっきと同じ理由で通過しようとした。
しかし車掌は「さっき2人おろしたんだから、2人ぐらい乗せたっていいじゃないですか」
「そんなこと言ったってブレーキの調子が悪いんだよ。あんまりたくさん乗せて事故起こしたらどうすんだ」
「そんなに危険でしたら私だって乗れませんわ。私降りますので!」
「おい!」

結局女車掌は降りてしまった。
しか行く先には東北本線の無人の踏切がある。

まだバスはツーマンが当たり前だったし、踏切にも踏切警手がいるのが当たり前だった時代。
少し物を知ったような乗客が指摘する。
「おい、無人の踏切を渡るなら車掌が誘導するのが規定だったんじゃないのか?」
「そ、そうでしたね」

結局、その女車掌が降りたところまでバックすることになった。

「規定だから乗ってくれよ」
「嫌です。危ないバスなんでしょ?」
「いいから!」
「嫌だ!」

そこへちょうど上尾行きのバスが来た。
運転手は理由を話し、その上尾行きのバスの車掌に、大宮まで乗務してもらうことになった。

結局大宮に着いた頃には20分も遅れてしまった。
この後、2人ともしばらくバスに乗務できないことになった。

現在、上尾~大宮を通しで走るバスは存在しない。
その上、この区間は東武バスではなく、東武系列の朝日バスが運行する区間となっている。

朝日自動車は元々、タクシーが主の事業者であった。
これがバス事業のウェイトを高めていくのは1993年に東武バスの不採算路線を受託するようになってからである。

そして現在は、埼玉県北部を中心に路線網を広げる一大バス事業者にまで成長している。

東大宮駅についても触れておくと、この事件当時はまだ「砂信号場」であり、歌は存在していない。

しかし宅地化の進み始めた昭和34年頃から新駅設置の話はあった。
そして、県営砂住宅の入居が始まった昭和39年の3月、「東大宮駅」として開業している。
この駅がなかった頃は、名実ともにこのバス路線がこの砂地域の「足」であったであろう。

あの日、20分遅れて怒った乗客のうちかなりの数が東大宮から国鉄に乗って浦和や都内を目指すようになったのではないだろうか。

本当なら上尾からバスに乗り当時を偲んでみたかったが、寝坊したので本来の用事に遅れそうである。
仕方がないので、当時とは全く逆のルートから行ってみることにしたい。

まるで韓国映画「ペパーミントキャンディ」のように。

大宮で朝飯を食ったくらいにして、宇都宮線で東大宮を目指すことにしましょう・・・

さて、その東大宮に降り立ち、件の踏切の方を見渡してみると、既に立体交差になっている。
決死モデル:チームTフジアキ

昭和38年当時27歳だった運転手は現在83歳、22歳だった女車掌は現在78歳。TRS48の中の中の人最年長のフジアキよりまだ年長となる。
共に孫に囲まれて悠々自適の日を適ごしているだろうか。
まさか現在でもハンドルを握っているということも考えられなくもないが・・・

何やら中途半端な時間になってしまったので、しばしベッカーズで待つことにする。
さすがに12月になると鹿バーガーはやっていないようである。

さて、いい時間になったのでバスに乗りに行くこととしたい。
決死モデル:チームTアンヌ

一応東武バスも東大宮には来ていて、原市団地循環などは東武のようである。
さっき使った国土地理院の航空写真はあくまで昭和24年の物であり、昭和44年ぐらいになるとすっかり宅地化されている。
昭和38年当時もそれなりに団地のようになっており通勤客も結構な数いたものと思われる。

この第2産業道路のような広い直線道路も昭和44年の航空写真では開通していた。
問題の堀場町のバス停の周囲は、郊外型の店舗が広がっている。

最近は団地入居の第一世代も高齢化しているという。
あの日、バスが20分遅れて怒っていた客たちも今や悠々自適・・・いや、御存命かどうかというほどのものであろう。

そして上新町で降りる。
これは朝日バスのバス停名で、東武バスは「原市駅前」と呼称するようである。

原市駅は埼玉新都市交通の他の駅と基本的に構造は同じ。
それもそのはずで、上越新幹線の騒音の代償ということで開業したという経緯があるのだという。
だからどの駅も新幹線のガード下か横にあるのは同じである。

そして原市駅は新幹線が見渡せる場所にあるので、写真の撮影も容易である。
なおかつ、1つ前の吉野原駅を見渡すことができるのである。
決死モデル:チームRハナ

その吉野原から車両が来て乗り込む。

そして終点の内宿に到着。
送迎バスで目的地を目指すことにする。

ところで、映画のポスターが貼ってるのだが、こうした公民館のような公共施設で上映するような映画であるにしてはやたらキャスティングが豪華じゃないか?
決死モデル:チームR持田

ところで、その目的地で隣に座った人も、旅行に出れば似たような趣味を持っているようで、「#キャラ撮り」でよくツイートしてるみたいだったのでコラボできればよかった。
まあこっちは五体満足じゃないので何があるか分からないけど・・・
で、「野党を殺せ」とか書いてるんだけど、必死に隠そうとしていたので一応不穏当な発言だという自覚はあるのだろう。

ところで、集まり自体は例によりコミュ障な自分でもそれなりに楽しめる所で貴重な集まりであった。
そして次回の再開を約して解散。

・・・と、外では雨が降っていた。

せっかく大宮に来たので、煮干しラーメンの「凪」で夕食としたい。
決死モデル:トルソーさんナイ

魚は嫌いなのだが、なぜか煮干しラーメンは大好きなのである。
最近「だし茶漬け」というセットメニューができたので頼んでみる。

実際にだし茶漬けが来てみると、ご飯の上に、まるで明太子のように煮干しを砕いた塊のようなのが乗っている。
魚嫌いのワイが絶対食えないやつや・・・

そう思って、その塊はラーメンの丼に捨ててしまい、ご飯だけ食べることにした。
こんな思いをするならチャーシュー丼にすればよかった。

そして大宮駅へ行き、改札内のベッカーズでしばらくブログつけ。

なんで大宮で長々と時間を潰しているかと言うと、1日に2本だけの武蔵野線直通列車「しもうさ号」を待っていたのである。
20時56分という、ブログを付けるにはちょうどいい時間まで待っていたのである。

土呂方からE231系が来た。
前までは209系だったのがリニューアルしたらしい。
決死モデル:トルソーさんラ・バルバ・デ

ということで家路に就く。
車内広告では箱根駅伝2020。
今度は創価大学が出るらしい。
沿道では唱題とかするんだろうか。

 

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