長周のバス駅巡り

今や「市民のくらしを守る」「カクサン部」などとソフト化に余念のない日本共産党であるが、いまだもって毛沢東主義を掲げている日本共産党左派という団体がある。
それも安倍首相の地元で細々と気を吐き、それも「凶暴な攻撃的個人主義」に反する立場から体罰を肯定的に捉えているのだという。

さてそんな長門・周防に行ってみることにしたい。

東京駅八重洲口からは防長交通の「萩エクスプレス」が出ている。
決死モデル:チームPユウリ

広島の大竹ICからは、岩国・徳山・防府・山口と止まっていくので、高速バスとしての運行時間は博多行きの「はかた号」より長く日本一なのだという。
東京駅の発車も19:30とまるで九州ブルトレ並みの早さであり、移動時間の長さを思わせる。

流石にそんな長距離バスで、まさか座席を倒せないという事があってはならない。
観音寺〜東京のドリーム高松は座席を倒したら泣かれたり、東京~今治のバスでは座席を倒していいか聞いたら無視されるし・・・
そのような訳で「後ろの席」が無いトイレ前の席にしたのである。

そして定刻に、バスは一路山口を目指す。
途中休憩は足柄サービスエリアではなく、駿河湾沼津サービスエリア。

そして翌朝。
目覚めたのは宮島サービスエリアに差し掛かる前だった。
さすがは日本一の長時間路線だけに、夜も朝もサービスエリアで降りることができた。

そして最初の降車側のバス停は大竹IC入口。
この時点では10分程度早い到着だった。
この調子で大田中央に行けば(9:29)、もしかしたらJRバスの秋吉行きに間に合うかもしれない。

・・・と思ったのは甘かった。
岩国駅、徳山駅・・・ と、下道でどんどん遅れていく。

結局、大田中央に到着したのは10分以上遅れた9:40頃であった。
決死モデル:チームPみく

向こうには美祢市のコミュニティバスが待っている。
このコミュニティバスを運営しているのは船木鉄道である。
船木鉄道は昭和36年まで西宇部(現:宇部)~万倉まで鉄道路線を運行していた。
しかし会社自体は、バス会社として現在でも宇部市や小野田市を中心に路線を展開している。

そしてこの大田中央駅は「おおだちゅうおう」と読む。
長らく美祢郡美東町の中心地として、国鉄バス秋吉本線のバス駅として開設され、現在は「大田バスセンター」と呼ばれているようである。

萩や山口駅はJRバスで結ばれており、美祢へは先述コミュニティバスで結ばれており、東京とは今乗ってきた「萩エクスプレス」で結ばれており、京阪神とはやはり防長交通の「カルスト号」で結ばれている。

そしてその大田中央駅であるが、何と窓口が営業している。
これでどこまでの切符が買えるかどうかは不明であるが、それでも現役だというのは凄い。

また、売店も現役で、醤油などの調味料や、石鹸などの生活雑貨まで売っている。
全てが昭和で止まっている。
大迫バスターミナルなき今、令和の時代に入ってここまでのバス駅はここ以外にはもう無いのではないだろうか。

それに何より、市外局番が5桁なのである。

さて・・・
船木鉄道が運営するところのコミュニティバスで秋吉を目指すことにしたい。
秋吉もまた国鉄バスの駅であり、かつては美祢郡秋芳町の中心であったが、現在は美東町と共に美祢市に合併になっている。
だからこうして美祢市のコミュニティバスが走っている。

そして雨の中を秋吉駅に到着。
秋吉は「大田バスセンター」大田中央と違って、「秋吉駅」と昔ながらの「駅」表記である。
それもJRバスによる旅行の広告も出ている。
決死モデル:チームY楼山

ただし、駅の待合室はと言えば、窓口は潰されて全くの無人となっている。
そして軒下ではツバメが巣を作って親鳥が雛にエサを与えている。
そうかと思えばドアにはツマキシャチホコという木の枝に擬態する蛾まで止まっている。

そればかりか、後ろからGまで来やがった!
無人化して「生態系の楽園」になってしまっている。
お昼時ではあるが、こんな所で昼食なんて到底無理というもの。

・・・というか、昼食も何も、この秋吉駅の周辺には、食べれそうな所が何一つないのである。
あるとすれば、しばらく歩いた交差点の所にあるコンビニのポプラぐらい。
ポプラは中国地方中心のコンビニである。
北海道で言えばセイコーマートみたいなものだろう。

入ってみると「せんじ肉」のおつまみがある。
せんじ肉はホルモンを揚げたもので、つまり大阪のかすうどんの「油かす」と同じである。

中国地方では乾き物になるくらいポピュラーなようである。

ということで、Gが跋扈している秋吉駅は早々に退散することにする。
11時54分の防長交通の新山口行きに乗る。
このバスは大田中央も山口駅も通らず、一直線に新山口を目指す。

そして新山口駅に到着。
決死モデル:チームR真夜

「新山口」とは言うものの、別に山口駅より開業が新しいわけではない。
むしろ山口線の山口駅は大正9年の開業で、新山口つまり小郡駅は山陽鉄道時代の明治期の開業で、むしろこちらの方が駅としては古いのである。

・・・などと御託を並べている暇はなくて、13:28に到着して岩国行きは13:36に出る。
蕎麦の一杯すら食べる暇もない。

今や、新山口駅は単なる橋上駅になってしまっていた。

果たして末期色の115系は岩国に向けて発車する。
車窓の右手には穏やかな瀬戸内海が広がる。

そして大畠に到着。
大畠は瀬戸内海を目と鼻の先に見る風光明媚な駅である。
また、周防大島へのバスの乗換駅であり、国鉄バス時代の「周防久賀・安下庄・伊保田方面」という表示が残っている。
決死モデル:チームTアンヌ

大畠の木造駅舎からバス乗り場までは屋根が通してあり、濡れずにバスに乗ることもできる。
さすがは国鉄一家と言うべきか。

しかし現在は国鉄バスは撤退しており、現在は防長交通が島へのバスを運行している。
かつての大島本線には、小松港・周防久賀・安下庄・周防下田・伊保田のバス駅があり、現在での当時の駅舎があるのは周防久賀・周防下田のみとなる。

さて、周防由宇行きに乗って行きましょう・・・!

バスは大島大橋を渡り、周防大島へ入る。

ところで、防長交通には何かルールでもあるのだろうか。
バス停に少し長く停車して、後ろから来る車に道を譲っている。

確かに、片側1車線であればそちらの方が車にとってもありがたいだろう。
そういえば秋吉~新山口のバスも、バス停のたびに後ろから来る車に道を譲っていた。
これは、山口県バス協会のガイドラインなのか、はたまた防長交通独特の施策なのか・・・

周防大島というのは意外に大きく、周防久賀の時点で1000円近くになっている。
周防久賀は、観光協会も入った「ビル中型」のバス駅であった。
決死モデル:チームTヤギー

ここは周防大島町発足前は「久賀町」であった。
地元の久賀高校の野球部は1999年に甲子園に出場している。
ちなみに、久賀高校の野球部と言えば、黒い霧事件で追放された益田昭雄はこの久賀高校出身だという。
昭和13年1月に生まれた益田は昭和31年に同校を卒業し、姫路の山陽特殊鋼に入社している。
瀬戸内の島で育った益田少年は、国鉄バスで小松港まで行き、大島連絡船で大畠まで行き、姫路を目指しただろうか。

そして周防下田に到着。
周防下田は「すおうしたた」と読む。
「平成の大合併」による周防大島町の発足前は、ここは大島郡東和町であった。

この旅行の計画当初は、この周防下田に到着し単純往復で大畠に戻る予定だった。
しかし、この先の伊保田から、柳井~伊保田~松山のフェリーが走っていることを知り、そちらに乗ってみたくなった。
しかし、その伊保田~柳井のフェリーに乗るためには、この周防下田で済地のバスを待つ・・・ という悠長なことはしていられない。

結局、一計を案じ、周防下田にバスが到着する14:56にタクシーに来てもらうことにした。
そして、そのまま伊保田まで行くと何千円かかるか分かったものではないので、次の次の集落である和田 ――バス停で言えば周防和田―― でおろしてもらうことにした。
周防下田での撮影を手早く済ませることができれば、おそらくこの和田あたりで追いつくことができるんじゃないかな。そんな計算だった。
既にその予約電話は徳山でしてある。

バスは2分程度遅れて周防下田に到着したが、その直前にタクシー会社から電話が来た。

「どちらにいらっしゃいますか?」
「もう今周防下田に到着するところですので」
「ではそのバスの後ろで待ってます」

果たして、バス停の近くにそれらしきタクシーが停まっていた。

タクシーを待たせているので、周防下田での撮影は最低限で済ませる。
周防下田も、数年前に業務委託を受けていた人が病気で臥せたとかで、現在は窓口も潰されて全くの無人状態である。
それも、秋吉以上に荒廃が進んでいる。

さて、タクシーを待たせるのもあれなので、さっさとタクシーに乗り込む。
タクシーの運転手はおばさんだった。事実上の個人タクシーなのだろうか。

程なくして、バスに追いつくことはできたが、なかなか追い越す気配はない。
客扱いでもあれば追い越せるかもしれないが、客扱いするほど客がいないのである。

しかし、下田の次の神浦という集落でバスが国道から旧道側の集落に入り、追い越すことに成功。

周防和田はいかにも日本的な漁村であった。
暫くすると、さっき大畠から周防下田まで乗ってきたバスがやってきた。

乗り込むと、その時に落とした「7」の整理券がまだ落ちていた。
ところで、現在持っている整理券は「2六」とある。
恐らく「26」「29」を区別したいのであろう。
決死モデル:チームR持田

伊保田に入る前に、「戦艦陸奥記念館」がある。
別に艦これをやっているわけではないが、時間があれば行ってみたいところだった。
しかし今回は時間の都合から行かないことにする。
タクシーの運転手さんによれば「戦艦陸奥記念館は何か不気味でね・・・ 建て替わってからは行ってない」ということだった。
やはり戦艦という戦争に使う船だけに、何かいわくでもあるのだろうか。

そして伊保田港に到着。
伊保田港の待合所は非常に近代的になっている。
決死モデル:チームWB嵐山

かつては、伊保田にも国鉄バスの駅があったというが、それらしき建物はこの周囲には見当たらない。

フェリーの待合所に入り、柳井行きの切符を買おうと思ったら係員がいない。
出航まで1時間以上あるとこんなもんなのだろうか。

それでも、人気【ひとけ】があるだけに、秋吉駅とか周防下田駅のような惨状はない。
安心して食事もできる雰囲気である。

さて、腹も減ってきたし、どこかで何か買いますか・・・

1分も歩けば、ヤマザキデイリーストアがあるらしい。

その途中に黒猫がいた。
ニャーニャー鳴いていてこちらに近づいてくる。
俺が怖くないのか?
抱かれても嫌がる気配もない。むしろペロペロ嘗めてくる。
こんな野良猫は初めてだ。

そしてこの黒猫には、サバトラの子猫が3匹いるらしい。
何だこれは・・・ たまげたなぁ。

それはともかく、ヤマザキデイリーストアでパンや牛乳を買う。
そのついでに、あの猫たちのために鰯の乾物も買っておくか。

そして店を出ると、例の黒猫が「どこ行ってたのー!?」と言わんばかりに走ってくる。
自分のこれまでの人生で、ここまで猫になつかれたことはない。

乾物を与えてみると、一応食べるには食べるが、大して口も付けずこちらにすり寄ってくる。
子猫たちも同様で、少し口を付けた程度であとはテトラポットに引きこもる。
そんなもんなのか。。。
この黒猫は「エサなんかよりあなたの愛がほしいの!」みたいな感じなのだろうか。

ところで、このテトラポットの周りにはキャットフードのパッケージが散乱している。
別にエサをやってはいけないということはないらしい。
しかしこんなモラルハザードな事では困る。

しかしフェリーの出航時刻は近づいているので、御名残り惜しいが猫たちとは別れることに。

そして松山・三津浜港からのフェリーが到着する。
松山~柳井は、1時間に1本程度運航しているようだが、伊保田に寄るのは1日に4往復だけ。
メインはあくまで四国と本州の連絡運輸であり、乗客は1人だけだった。

船室は座席とマス席があった。
船に乗った以上横になりたいので、マス席で寝ることにする。
決死モデル:チームWBノノナナ

ところで、「乗船券」ではなく「上陸券」らしい。
ということは、この上陸券が無いと、延々と船の上にいさせられることになるのかな・・・?
恐らくは、成田空港にもあるような「港湾施設利用料」なのだろうけど。

さて、船が伊保田港を出帆すると、右手に島影が迫る。
これこそが、映画「怒りの孤島」として、奴隷制度と呼ばれた「舵子かじこ」事件として有名になった情島である。

舵子かじこ」というのは、鯛の漁場である情島で、広島当たりの少年院から孤児をもらい受けてきて、奴隷的な漁業労働を強いるのである。
当然、少年院に入るような悪ガキが奴隷労働に甘んじているはずもなく、売り物の鯛を失敬して食べることだってある。
そうしたら虐待で殺してしまう。そんなことは日常茶飯事であった。
この辺りの事情は、2009年に山口県立大学の論文としてまとめられている。

また、昭和27年の第13回国会の行政監察特別委員会でも問題にされている。
ここでは、少年少女の人身売買について議論されている。

○志田委員(諸派議員) 一九五一年の十月十日号のアサヒグラフによりますと、梶子物語として悲惨な状態が、グラビアになつて紙面を費しております。これは山口県大島郡油田村の瀬戸内海に浮ぶ一つの島で、戸数九十五、住民五百四十人、昔ながらの漁師仲間でありまするが、これを一般の人が呼んで奴隷島と言つておる。人買いから子供を買つて来て、沖の一本づりにろとかじを扱うかじ子の役をさせて、島民の生活を維持して来たというのがこれなのでありまするが、昭和二十二年八月に酷使に耐えかねた三名のかじ子が島を脱走しまして、この問題から実情が明るみに出て問題化しまして、はしなくも兒童相談所の手を通じていろいろと合法的な里子制度に転換されておるという実情があるのであります。これを厚生事務次官としては御承知ないのでございましようか。
○宮崎証人(厚生事務次官) 私は存じておりません。
○志田委員 知らなくてもよろしいのでございますか。
○宮崎証人 よく私はわかりませんので、あとで調べてみたいと思います。

ひと眠りして目が覚めると、大島大橋が近づいていた。
大島大橋は、昭和51年に開通したが、平成8年までは日本道路公団に寄る有料道路だったようである。
決死モデル:チームY城ヶ崎

ともあれ、その大島大橋の開業をもって「島の国鉄バス」であった小松港からの国鉄バス大島本線は大畠駅から直通することができるようになり、その時点で国鉄バス駅としての小松港駅は無くなってしまった。

ところで、フェリーの上から撮影するとやはり風が強い。
特にフェリーの前側から撮影なんてできたものではない。
それで後ろ側に移動してどうにか撮影。

そして柳井港が近づいてくる。
トラックにとっても貴重なルートとなっているようで、トラックが2台降りて行く。

柳井港やないこうフェリーターミナルの近くには、柳井港やないみなとという駅があるようだが、17:43の列車に間に合うかどうか・・・
だめなら18:11で行くことにしたい。

一旦降りてみると、どうも間に合いそうである。
そういうことであれば、痛い足を引きずって走って行きたい。

柳井港やないみなと駅は、海側に駅舎があるが、ホームは駅舎に面してあるわけではなく、いったん跨線橋を渡らないといけないようである。
ともかくも17:43に間に合うことはできた。

そして新山口に到着。
宇部線は、1時間に1本ぐらいしか走っておらず、それも40分ぐらい待ち時間がある。
決死モデル:チームRナオミ

仕方が無いので、新山口・・・というか小郡で夕食にすることにした。
適当にラーメン屋に入ると、豚骨スープのラーメンである。
山口は九州に近いとは思っていたが、ラーメンまで近いとは思ってもみなかった。

そしていい時間になったので、宇部線の8番線に行ってみるが、どうも2両編成とか3両編成とかいう並び方ではない。
電車が入ってきてみて驚いた。
何とクモハ123の1両なのである。

それでもどうにか座ることができたというのだから驚きである。
宇部線の輸送量ってそんなもんか・・・

そして宇部新川に到着し、投宿する。

(文字数ランキング19位、1.6パーセンタイル)

 

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