東京都のコロナ感染者は相変わらず400人台の高水準。
この3連休は旅行なんてしていいのかどうか・・・
行くとしてもどこに?
JR東日本はキャンペーンで新幹線を3割引すると言うので、新幹線の沿線にはその時期に行くとして、ではそれ以外のどこへ行く?
仙台は・・・だからその3割引の時期に行くとして、では北海道?
北海道もじゃあどこへ行けばいいかと言う話になる。
九州は? 九州は「はかた号」のチケットでも取れればいいが、何より既に最近2回行っている。
北陸は? これも3割引の時に行けばいい。
そうすると・・・
やっぱり仙台?
仙台といえば特急「ひたち」に通しで乗ると言うミッションがある。
ではこれにしようか。
仙台といえばダークツーリズムも数件ある。
その中の1件が、今回の目的地で、発生は昭和31年8月14日。
つまりは64年前の5日後と言うことで、なんか「呼ばれている」ような気もする。
どのような事件だったのか・・・
「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び…」の終戦から11年が経った昭和31年8月15日の河北新報の社会面トップには巣鴨プリズンに収容されているB・C級戦犯についての記事。
終戦から11年が経ってもなお、塀の中の身となっている人々が192名も残っていた。
戦争を指導したA級戦犯は既に全員出所しているにも拘らず、である。
そして左側にやや大きめに「ホテルで女殺さる」と報じられているのが、今回の事件の記事となる。
「松島や ああ松島や 松島や」で知られる名勝松島のホテルで、アベックできた客のうち、女の方が殺されたというのである。
8月14日の昼過ぎ、男の方が料金を払いに来た。
「女の方は疲れて休んでいるので6時ごろ起こしてくれ」
そして男はどこかへ出て行った。
そしてその6時ごろに部屋に行ってみると、女は死んでいるではないか!
当然、容疑は男にかけられることとなる。
そもそも、この松島パークホテルは東北地方でも由緒正しいホテルとなる。
大正2年の開業で、設計したのは広島の産業奨励館(後の原爆ドーム)も設計したヤン・レッツェル。
翼を広げたような外観のホテルは、戦時中は軍に接収されて会議室として使われ、戦後は米軍の司令官の宿舎として使われた程の高級物件である。
ともあれ、8月15日の夕刊が報じるところでは、そもそもこのホテルには殺された方の女が1人で来たのだという。
しかし女の1人客をホテルは拒否した。
今考えるとこの対応はあり得ない。まるでサウジアラビアではないか。
ともかくも、その後男と一緒に来てその女は泊まることになった。
そして翌日、男は宿代を払い、鍵を持ったまま何処かへ行ってしまったのである。
遺留品として、塩釜市内の旅館のマッチがあったといい、その塩釜市内の旅館の女将を呼んで死体と面通しさせたという。
女将も面倒だと思ったであろうが、「このような客が昨日泊まったかもしれない」と証言した。
そして、女が書いたと思われるメモ書きも発見された。
どうやら、女にとってはそれほど気の進む旅ではなかったらしい。
翌8月16日もまたこの事件について報じられているが、男の行方は杳として知れない。
そして女の身元も全く分からない状態だった。
だからといって死体の顔をそのまま新聞に載せるという神経が理解できないが、これが昭和30年代前半の高度成長期前の発展途上国だった日本だった、ということだろう。
この時点で分かったことは、
・8月12日に塩釜市内の旅館で泊まった男とは同一人物だろう。
・8月14日の朝、男は1人で貸しボートに乗っていた。
・男は結構お洒落
・女は38,000円持っていたはずのところ、数百円しか持っていない。
しかし・・・ 14日の午前中、女を殺した後でよくも呑気に貸しボートで遊んでいられるものだと思う。
その辺りの神経がよく分からない。
宮城県警の捜査陣は「雲を掴むようだ」とまるで五里霧中であるコメントをしていた。
そして3日が経った8月19日の河北新報では、塩釜市内の旅館の女将などの証言から、男のモンタージュ写真を掲載している。
なかなかの整った顔立ちで、今風に言えばイケメン。
そりゃまあカップルで泊まったりするでしょうね。
ただし既にこの事件の扱いは小さくなりつつあった。
迷宮入りのフラグが立ち始めたのである。
この日の社会面で最も大きく報じられているのはソ連からの引き揚げ船興安丸が舞鶴に到着したこと。
この年の経済白書では「もはや戦後ではない」という文言が話題になったが、シベリアで重労働に就いていた彼らにとってはまだ「戦争は続いている」状態だったのだ。
そんな彼らにとって「帰国(ダモイ)」は夢だった。
だからどんなことでもした。
密告する者、ソ連のスパイになる者・・・
そんな密告事件も、この帰国で明らかになった。
また、秋田県大館市では大火が発生している。
大館の大火はこれが初めてではなく、昭和28年、昭和30年にも発生している。
そしてその1週間後、事件からかれこれ12日後の8月26日には、「有力情報の提供者に300万円」というニュースが出ている。
男はここにおいて「賞金首」となったのだ。
そして再び女の死体写真が出たほかは、これといって目新しいニュースのない、扱いの小さな記事となっている。
この日に最も大きく報じられていたのは「加配米の全廃」という記事である。
当時、米はまだ配給制度であり、その労務加配米の全廃について、時の農林大臣であった河野一郎が言及したのである。
これに対し、各官公庁や国鉄の労組は断固として反対の構えであった。
とはいえ、この時代あたりから米は供給過多となり、制度は有名無実化していくことになる。
また、特異なニュースとしては、性行為の研究で有名となった「キンゼイ報告」のアルフレッド・キンゼイ博士の訃報も左下に小さく報じられている。
そして月が変わって9月2日、急転直下犯人の男は東京で捕まったことが、河北新報の一面で報じられている。
なるほどモンタージュ写真というのは有能である。
結構似た感じのイケメンであった。
で、そのイケメンがどのような経緯で捕まったのか。
まず、9月1日に、女の方が豊島区椎名町に住む豆腐行商の29歳の長女であり、その線から男の方は秋田県の尾去沢鉱山の出身で新宿区百人町に住む24歳無職の男であったというのである。
何しろイケメンなので「身持ちが悪く」、女の貯金を狙っての犯行であったと報じられている。
女にしても当時で言えば29歳というと行き遅れも行き遅れで、内心は相当な焦りがあったのではないだろうか。
ところで、女は椎名町に住んでいたということは、この8年前の帝銀事件では21歳。
やはり事件の起こった帝銀支店の人だかりの中にいたのだろうか。
結局のところ「結婚詐欺」。
女の貯金が目当ての犯行であったと自供している。
それは、死体に遺留されていた楊枝箱から、木更津市内の旅館を割り出すのである。
そしてその配布先を1人1人あたり、やっと行方が分からなくなっている豊島区の女性を探り当てた、という捜査陣の粘り勝ちだった。
そもそも、この2人のなれ初めは、男が飯田橋の職安で特許事務所の紹介で受けたことから始まる。
その特許事務所の先輩事務員として務めていたのが、今搬の事件の被害者となる女性である。
結婚を言い出したのは女性の方であるという。
「結婚すれば共稼ぎになって遊べなくなるから今のうちに遊んどこう」
それで松島旅行を決めたのだ。
道中、色々と話しているうちに、女性は「東京では所帯を持ちたくない」と言う。
「どうして?」
「男関係が・・・」
「俺の他にも男がいたの!?」
こんな女とは結婚したくない。
でも女はついて来ようとする。
いっそ殺すしか・・・
あくまで男の供述に沿えば以上の通りとなる。
その後であるが一審の仙台地裁で死刑の判決を受け、最高裁まで争うも死刑は覆らず、結局昭和37年9月12日に死刑を執行されている。
そしてパークホテル自体も昭和44年、火災により閉業している。
ではこのコロナ戦時下のダークツーリズムへと赴きますか・・
どうせ行くなら、割引のない新幹線よりも「ひたち」で行くことにしたい。
そうなると、勝田止まりの「ときわ」と違って「ひたち」は柏には止まらないはずなので、一旦上野に出るしかない。
それで朝は6時起き。
果たして、上野に行ってみると高級スーパーが開いてて牛乳が買えたりなど。
8:00発入「ひたち3号」は17番線の、昔ながらの頭端式ホームから出発する。
(決死モデル:チームTヤギー)
車内には数える程しか乗っていない。
なにぶんにも自粛期間である。
タークツーリズムがらみは、とかく書く量が多いので、今のうちに書ける所は書いてしまいたいという目論見もある。
ところで、この「ひたち3号」は柏や土浦にも止まるようである。
それなら別に上野まで行く必要なんてなかった。
水戸や勝田を出るとさらに人はいなくなる。
そしていわきを過ぎると、震災から10年が経とうとしてなお復興道半ばの風景が広がる。
いっそこのまま自然に還って行くのではないかというほどの。
(決死モデル:チームWBノノナナ)
相馬を出ると、あとは仙台までノンストップとなる。
亘理を過ぎて岩沼に入り東北本線と合流すると、そこはすっかり仙台の都市圏である。
そして乗車から4時間半、ついに仙台に到着する。
「ひたち」で仙台まで来たのは初めてとなる。
(決死モデル:チームY間宮)
丁度昼食時なので、牛タンでも・・・いや、仙台の郷土食と言えば半田屋を措いて他にはない。
ということで東口の半田屋へ。
半田屋で中盛と納豆と豚汁を頼むのはデフォルトとして、あとは何を頼んだっけ・・・
麻婆豆腐を頼んだところで思い出した。
いつもならメンチカツだった。
仙石線のホームは地下となる。
仙石線が宮城電気鉄道として開業した時も、ホームは地下だったというので先祖返りということになる。
ホームまでの道のりは長い。
まるで京葉線の東京駅のようである。
ダイヤとしては、日中は東塩釜までが15分に1本、高城町までが30分に1本、そして石巻までが1時間に1本となり、快速系統は全部東北仙石ラインに移動してしまい、高城町までは各駅停車のみとなる。
松島海岸は、その高城町の1つ手前で、時間帯によっては高城町まで仙石東北ラインで行き、そこから戻った方が早かっただろうか。
松島海岸の駅は、両側がトンネルに挟まれ、有効長の短いいかにも国鉄離れした構内となる。
(決死モデル:チームP芳香ちゃん)
14時過ぎ、松島海岸は駅を降りた時点で絶景が広がる。
駅前はすっかり観光地の面持ちである。
駅前で遊覧船のチケットを売っている。
湾内一周が14:30に出るという。
パークホテル跡で決死してその船に乗って・・・ということもできるかもしれない。
何となれば戻ってからパークホテル跡でもいいかもしれない。
1,000円で買って乗り場へ行くことにする。
パークホテルの後は今は松島公園になってしまい、跡形は一切ない。
(決死モデル:チームYジャスミン)
実際に桟橋に行ってみると、「塩釜行き」なんてのもある。
15:00には塩釜行きの最終が出るというのだ。
どうせならそっちに乗ってみたかった。
しかしもう遅い・・・
さて、松尾芭蕉が「松島や ああ松島や 松島や」と詠ったといわれる日本三景の一つ・松島は噂にたがわぬ多島美を誇る。
(決死モデル:チームY宇崎)
実は、小学校の修学旅行で松島に来たことがあるのだ。
松島海岸の1つ手前の陸前浜田では、その時に停まった宿がまだ営業していた。
その時、遊覧船の2階はグリーン船室で、先生方はそのグリーン船室に乗っていた。
門番のようなおじさんが「こっちはグリーン券が無いとだめだよ」と言っていたのを思い出す。
コロナ期とは言えそこそこ人は入っている感じ。
みんな宮城県内からきているのだろうか。
さて、50分かけて一周したらあとは、松島海岸駅から戻ることにしましょう。
松島海岸からは、仙台行きの方が早く出たが、単純往復というのも芸が無いので、いったん高城町まで出て、そこから仙石東北ラインの仙台行きに乗ることにしたい。
高城町駅は、松島町の仙石線側の中心駅と言っていい存在であり、宮城県松島高校も近いので通学客の利用も多い。
ここまでが各駅停車は日中30分おきということになる。
(決死モデル:チームR園田)
駅舎は昔ながらの駅舎ではあるが、表はリニューアルされている。
待つことしばしで仙台行きが来た。
仙台行きはハイブリッドカーで、仙台までノンストップであった。
仙台に到着し、牛タンでも食べますかね・・・
さて、牛タンで腹いっぱいになった後は仙台駅近くのホテルで投宿。
(決死モデル:チームPさくら)
なにしろコロナが災いしてかどこのホテルも投げ売り状態である。
それにGoToが付くので3000円台で泊まることができた。
さあゆっくり休みますかねえ。