開業鉄から葬式鉄まで(その2)

今日は、久宝寺から夕張までの切符の後半となる。

とはいえ、キロベースで考えると、既に行程の殆どを来ているのである。
そして今日は終点となる夕張と同じ北海道の函館からの始まりとなる。

朝目覚めたら、最近気なっていた腹の重さで背骨が折れそうになるほど重い感覚がない。
これは素晴らしい。
いつものプールでの鍛錬の賜物であろうか。

果たしてスーパー北斗3号で南千歳を目指すことに。
決死モデル:チームWB小津麗

ところで、靴下を1足しか持ってこなかったことに気づいたので、函館駅のセブイレで買えばよかったかもしれない。
それと、ゼロコーラも買えばよかった。
もう少し余裕を持って出発すればこんなこともなかったかもしれない。

ともかくも出発。
座席は山側で、北海道らしい荒涼とした風景を左手に走ることになる。
道南はもう雪は積もっていない。

キハ281系は直噴エンジンも轟ろに噴火湾を爆走する。

車内販売もなく、なおかつこの先の南千歳も新夕張も、それぞれ5分と4分という、非常に短い待ち合わせ時間であり、なおかつ店で何を売ってるかなど期待できそうもない地域でもあり、つくづく函館で買い物しなかったことが悔やまれる。
決死モデル:チームP桃園

大昭和製紙で知られる白老を通過し、苫小牧に近づく途中で社台という駅を通過する。
社台といえば、競走馬で有名な社台ファームと関係があるだろうか。

そして南千歳に到着。
この5分の間で明日の夕張からの切符を買う。
夕張線には切符を売っている駅が、新夕張しかないはずなのだ。

それで、決死もそこそこに急いで南千歳の切符売り場で買う。

そして1番ホームへ行くと、既に帯広行きの「スーパーとかち」は到着している。
それでも、スキー客でごった返しており出発が遅れ、割りと余裕で乗ることはできた。

南千歳を出て、追分への連絡線に入ると、雪が少し積もっていた。
流石にこのあたりは、太平洋が近いとはいえ、冬は大陸からの風が素通りするルートで、内陸のような気候となる。

それにしても、JR北海道の車両の窓の清掃の至らなさが気になる。
2004年の初め、日立電鉄で葬式鉄をした時も気になったのだが、死に至る途中の鉄道は窓が汚れているものだと思った。
そしてスーパーとかちも車内販売をやめている。
この先、少子化と過疎化は進むだろうし、JR北海道はどうなることか・・・

さて、新夕張が近づくと、結構多くの客が通路で降りる準備をしている。
つまり「同業者」ということ。
この先の行程は、そう甘いものでもなさそうである。
決死モデル:チームTアンヌ

そして新夕張に到着。
世が世なら「紅葉山」だった駅であるが、今やスーパーおおぞらやスーパーとかちがビュンビュン通過する特急街道となっている。

ところで、このスーパーとかち、右側通行しているようだが新夕張は一線スルーということだろうか。

さて、新夕張では同業者たちが3番線ホーム目指してゾロゾロ歩いて行く。
「お客様全ての乗車を確認してから出発します!ゆっくりご移動願います!」とひっきりなしにアナウンスしている。

ちなみに、新夕張の向こうのホーム、3番線と4番線は、夕張線の廃止をもって使用を止めるらしい。

そして夕張行きの車内の人となる。
数年前に清水沢の交換設備を撤去して全線1閉塞となった夕張線は、この3月16日のダイヤ改正以降、完全に葬式鉄向けのダイヤとなり、とにかく新夕張〜夕張間をひたすら往復するだけのダイヤとなった。
まるでプノンペンのエアポートシャトル【リンク】のような・・・

サボも「さようなら夕張支線」となっており、2両編成での運行となる。
さぞや立錐の余地もない混雑かと思いきや、意外に座ることができる。
明日のような祝日であればともかく、平日であればこんなものだろうか。

さて、今回の夕張線内はしつこくネチネチと行くことにする。

と言うことで、まずはこの旅のゴールである夕張の1つ手前の鹿ノ谷で降りることにする。
決死モデル:チームR園田

この「鹿ノ谷」という「風の谷のナウシカ」を圧縮したような駅名だけに、宮崎駿パヤオやジブリに関係あるメンを決死に充当したかったが、例えば中の中の人がジブリ作品に声だけ出ているとか、ジブリ作品のコレクターであるというメンはとりあえず思いつかない。
また、さっきの車内撮りは、この鹿ノ谷での決死の前哨戦という扱いではあったものの黒髪ロングヘアーのフジアキは 〽️髪を軽くなびかせ〜 というガラでもない。

髪を軽くなびかせているのはむしろエアリーボブの園田ではないだろうか。
ということで、フジアキには改めて別の場所で決死をお願いするとして、今回は園田に出てもらうことにした・・・ という、よくわからない内部事情である。

ところで、鹿ノ谷は駅名標も取り外されてもの悲しい限りである。

今や棒線駅となり、駅舎には目張りがしてある無人駅であるとはいえ、かつては夕張鉄道が栗山方面に分岐しており、何本もの側線に炭車がひしめいていた大規模な駅だったのである。

そんな時代であれば、駅もかなりの活気だったであろう。
かつての写真を見る限りでは、駅前には人影の絶える間もなかったようである。

しかし、今や視界内には誰一人・・・いや、葬式鉄のマニア以外誰もいない。
いつかはこの鹿ノ谷も、自然に帰っていくのであろうか。

さて、ちょっと戻ってみようか。
夕張に行ってすぐ戻って来た新夕張行きで、今度は沼ノ沢を目指してみたい。

そして、新夕張の1つ手前の沼ノ沢に到着。
沼ノ沢は、かつては北炭真谷地鉱への専用線として知られた駅である。
そして割と最近まで夕鉄バスは真谷地行きを走らせていた。
しかし今では、真谷地どころか楓行きだの南部行きも全て無くなっている。

沼ノ沢も、そんな真谷地への入り口の情緒をいくばくなりとも感じることができるのかと思っていたが、そういうこともなく、新夕張からの折り返し列車も来たので、次行ってみることにしよう。

次は南清水沢・・・ と思ったが、夕鉄バスの時刻表を見てみると、どうやら清水沢から清陵町を経由して南清水沢に行けるようである。
ちょっとこれに乗れるのであれば、清水沢で降りようか。

そして清水沢に到着。
前述したが、清水沢は少し前まで交換設備があり、タブレット交換もしていたので駅員がいた。それも委託駅ではなく社員配置駅であった。
決死モデル:チームWBノノナナ

しかし今や棒線駅となり、南大夕張への側線が多数あった場所は雪に埋もれ、細い通路で繋がっているだけとなっている。
しかし、これも3月までのことで、もうここには駅すらなくなってしまうのだ・・・

さて、将来的にはコンパクトシティを目指している夕張市は、中心市街地をこの清水沢地区に置くのだという。
確かに、この夕張の中ではどうにか市街地らしさを保っているという気もしなくはない。

しかし、清水沢に飲食店が存在するなどと期待してはいなかったが、何と駅前食堂があったのである。

メニューとしては至極オーソドックスな「食堂」のそれである。
中では客が1〜2人いる程度。
これで営業が成り立つだろうか。いや、昼食時間を過ぎていればこんなものなのか。
ともかくもカウンターに座り、かしわそばを頼むことに。
バスの時間まで1時間ぐらいあるので、発車時間まで粘らせてもらうこととしたい。
決死モデル:チームY城ヶ崎

清水沢のあたりはWiMAXが入るようである。
ここでこれまで決死した写真をgoogleフォトにダウンロードすることとしたい。

・・・と、後ろから、
「お?何だこれ? 女の人が写ってるぞ」
食堂の経営者らしきオッサン(ただし厨房着姿ではない)がiPadを覗き込むではないか。

ちょうどさっきの清水沢でのノノナナの写真である。

「今は凄ぇなあ。女の人がいないのに女の人が写ってるように撮れるんだから」
いや、そういうツッコミは俺以外の他の人にしてくれ。とにかく俺は駄目なんだ。
不幸中の幸いは、両腕が云々というところには触れられなかったということである。

普通のアニメのフィギュアなら明るく応対もできようが、何しろこちとら五体不満足なのだ。こんな夕張の山奥でこっち方面の趣味を理解してもらうのは、ほぼ無理だろう。
「おぅふ・・・」コミュ障で挙動不審になるしかなかった。
こんな趣味は、到底一般人とのコミュニケーションツールになり得るものではない。

結局、店にもいられなくなり、かしわそばを食べたらさっさと店を出ることにした。
かしわそばであるが、何というか・・・ 賞味期限大丈夫だったろうか・・・

さて、こちらは南清水沢へのバスを待つことにしたい。
バス停も、4月1日からの「清水沢駅前」でなくなる停留所名の上に、現行の「清水沢駅前」を貼り付けている。

確か、バスは14時39分の市内線であったと思ったが、それより早く到着した。
それも、市内線というか新札幌からの急行バス!?
見落としていたが、どうやら14時32分というのがあるらしい。

流石に清陵町を見るのは諦めていたが、これなら見れるかもしれない。
これはまた天啓である。

さて、夕張市はついに小学校が1校だけになってしまった。
その唯一のゆうばり小学校がこの清陵町にある。
だだっ広い夕張市にたった1校であるだけに、バスが充実している。
それで、玄関前に行き先別に4本もの標柱がある、まるでバスターミナルのような状態になっている。
ほほう・・・これがコンパクトシティってやつですかってね。

清陵町のバス停の前にはコープさっぽろのスーパーがある。
これは夕張市内で最大の小売店ではないだろうか。それとも南清水沢の生協?
決死モデル:チームY間宮

いずれにしろ、夕張市内で最大の人口集積地であると見ていいだろう。それでここの小学校が残ったのだ。
スーパーに入ってみたいが時間的にきつそうである。

・・・と、
「この財布落としたのあんた?」
財布を落としていたのだ。それを近所のお爺さんが拾ってくれたのだ。
丁重にお礼を述べるとともに、夕張の人情に感激。

程なくして、市内線のバスが来たので乗る。
危ないところで財布を無くすところであった。

さて、その市内線にはさっきの小学校から小学生がたくさん乗っている。
やたらかわいい眼鏡っ娘がいる。パシフィックセブン先生にご注進したいほどである。3年生か4年生ぐらいだと思われるが、多分クラスでもこの子を好きな男子は相当数いるのではないだろうか。

そして南清水沢に到着。
決死モデル:チームWBラジエッタ

ツイッターで見て知ったのだが、夕張線には。新夕張の他に切符を売っている駅がもう1つあった。
それが南清水沢であり、70歳のおばさんが1人で切り盛りする簡易委託駅である。
かなりしれた存在であるようで、取材も何回かされているようであった。

ただ、切符とは言ってもマルスが引かれているわけではなく、恐らくは新夕張駅でまとめて出すであろう金額式の券だけである。
それでも「南清水沢駅で切符を買うことで、これからも切符販売を続けることができます」と書いてある。
また、来駅記念カードを200円で購入すると、マシュマロもオマケにくれた。

待合室には数人のファンがおり、線内で一番活気を呈していたのではないだろうか。

そして、ホームでは雪に色をつけて、ミッキーマウスやりらっくま等のぬいぐるみを飾っている。
一方で、保線か除雪の作業員が作業の件で鉄道電話で話している。
最後の日まで、線路の除雪と保守を担うのだろう。かなり高齢のようであるが、彼らの努力に感謝である。

これで、夕張線の全駅を訪れたということになる。
あとは終点の夕張へ行くのみである。

そして新夕張からのキハ40の2両編成が来たので乗る。
これでついに、久宝寺からの長い旅は終わりを迎えることになる。

そして15時59分、ついに終点の夕張に到着した。
ここで1751kmの旅の終点である。
決死モデル:チームTヤギー

ただし、かつての夕張線自体はもっと長かった。
石炭を産出していた頃は、夕張の市役所などがある本町を通り抜けて、現在の「石炭の歴史館」の場所に夕張駅があり、その頃の駅舎は2000年ごろまであった。

そして、炭鉱が閉山してしばらく経って昭和60年、夕張駅は本町の市役所の裏手の便利な場所に移転した。
立地としては便利であったが、駅舎は貨車駅であり、極めて貧相な作りであった。

そして観光開発に舵を切った夕張市は、末広にマウントレースイスキー場をオープンする。
そしてまた距離が短くなり、本町から谷を隔てた末広に駅が移転することとなったのである。

それで、バス停も夕張駅前ではなく「マウントレースイ前」となっている。夕張駅の存在などハナから無視である。

さて、夕張線が廃止される4月1日以降は、市内の交通は夕鉄バスだけが担うことになり、バスの時刻も大幅に変わることとなる。
それで、現在の夕鉄バスの北端である社光も無くなり、石炭の歴史館前がターミナルとなることになる。
つまり、社光へは今乗っておかないと永久に乗れないことになる。

それで、社光行きにも乗ることにした。

・・・と、客は自分だけではなくもう1人、どうやら知的に問題を抱えていると思しき初老という年齢にかかっていそうな男性が1名。
「スマホ便利か?」
スマホ!?

まあよく分からないが話を合わせることにした。さして害はなさそうである。
「スマホは便利だよ。あんたも買ったら?」
「スマホは高いから夕張では誰も持ってないよ」
「いいんじゃない?ガラケーでも」

その男は、シューパロ前で降りていった。
こちらは市街地を突き抜けて社光まで行くことにする。

そして社光に到着。
決死モデル:チームP芳香ちゃん

かつて、夕鉄バスが歴史村にも社光にも、南部にも真谷地にも走っていた頃、この社光に来たことがあるが、その頃はまだ社光にも何棟かの炭住が残っていた。
しかし今やその炭住も跡形もない。無住になれば雪で家屋が潰れるので、安全のために取り壊してしまうと聞いたことはあるが、ここまで綺麗になくなっているとは驚きである。
いずれ、どこの市街地もこのように自然に還っていくのであろうか。
志幌加別川の向こうには、夕張市立旭小学校を転用したという「ファミリースクールふれあい」の残骸が残っていた。

そして本町に向かって歩く。

夕張市立病院は現在は「夕張市立診療所」となっている。
病院と診療所の違いは病床数であったと記憶しているが、この診療所は2007年までは総合病院だったという。
現在は老人病院のようになっている。

そして本町に入るが、ここまで人っ子ひとり出会わなかった。
それが現在の夕張である。

そしてホテルシューパロにチェックインして、近くに食べれるところはないか聞いてみる。
「居酒屋がやってるならそこしかないかな・・・」と、頼りなさげな回答だった。

ホテルの部屋で旅装を解き、ツイッターでその店名を検索してみると、どうやら営業しているようである。
では行ってみようか。

その居酒屋は、本町の通りから一段と山に登った「松ケ枝通り」にあった。
松ケ枝通りは、炭鉱の全盛期には夕張最大の歓楽街であったという。
現在ではほとんど闇夜に近い。取り壊されて歯っ欠けになっている。

しかしその居酒屋は営業していたので入ることにした。
肴は色々なのがあり、意外にそこそこ繁盛していた。
シューパロやレースイと言った、そこそこの規模の宿泊施設は本町に集中しており、結局のところ観光の拠点は本町地区になり続けるようだった。

そこで色々飲み食いして後にする。
松ヶ枝通りから本町に戻る階段の一番下が水たまりになっていたのだが、暗かったのと酔っ払っていたので嵌ってしまった。
よくよくついていない・・・

あとは明日も早いので寝るだけ。

 

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