Military townの銃声

パリーグは混戦しているが、楽天はソフバンと同率首位で好調である。

その本拠地は楽天生命パーク宮城。
昔で言えば「宮城球場」であった。

その宮城球場の前で、米兵によると思われるタクシー強盗事件が発生しているのである。

昭和27年4月3日の河北新報では、仙台でタクシー強盗が発生したことを報じている。

宮城球場の外野入口付近で、タクシーが両側ドアを開け放ったまま止まっており、中からピストルで撃たれた運転手の死体が出てきた。
現場にはコルト45から発せられた弾丸、大きな足跡、チューインガムと、どう考えても米兵によるものではないかと思われる痕跡が残っていた。
それに指紋も遺留されている。

ただ、そこには大きな壁があった。
日本はまだサンフランシスコ講和条約発効前の「occupied Japan」の時代である。
米兵の犯罪をまともに捜査してもらえる可能性など無いに等しいものだった。

拙ブログのジラード事件の時にも言及したが、アメリカからすれば日本なんて「極東の後進国」である。

今で言えば、中国で日本人が何かで裁判にかけられることを想像すれば分かりやすいかもしれない。
どうせあんな「人権」という概念も無いような後進国で裁判されたら、首でも切られるかもしれない。
それがあんな野蛮な後進国であるばかりに・・・

ところで、タクシーの足取りとしては以下の通りだった。

・19:40頃 定禅寺通りの料亭から客を乗せる。
・20:15頃 仙台駅で客を下ろす。また客を拾い小田原へ。
・20:40頃 小田原から帰庫(東四番丁)の旨の記述

そしてそれ以降がわからないのだった。

翌4月4日の河北新報には続報が掲載されている。

該当のタクシーは事件当夜、どのようなルートを辿っていたか。
その目撃証言が上がってきたのである。
それは榴岡にある米軍御用達の高級クラブの守衛で、「ショーの始まる22時前に該当のタクシーが米兵と女を乗せて出て行った」というのである。
ただ、20:40〜22:00の間のどこか、とかなり漠然としたものであった。

ただし、現場付近でピストル音を聞いたという証言がなされており、それが犯行時刻であると思われた。

鍵は20:40頃から21時過ぎの間、どのような経路を辿ったか、に焦点が当てられることとなった。

翌4月5日の河北新報では、さらなる有力情報がもたらされる。

仙台市内のタクシー運転手が、
「仙台駅から苦竹へ送った帰り、21:15頃苦竹駅前から米兵2人を連坊小路と東九番丁の交差点まで送ったが、終始殺気立ってて不気味だった」
という。

連坊小路と東九番丁の交差点というのは、現在の仙台二華高校、井上ひさし「青葉繁れる」の頃で言えば宮城二女高から東北本線を隔ててすぐの所にある。

また、榴岡の高級クラブの女連れの米兵は黒なのか白なのか判別出来かねる状況であった。
また、現場近くの宮城野原駅から下り(石巻方面)電車に乗った米兵がいたようであるが、こちらも七分通り白では無いかということだった。

その「下り電車」については、同日の夕刊に詳しい。
どうやらこの当時の河北新報も翌日付けで夕刊を出す「夕刊の法則」?

事件当夜の21:10頃、息せき切った米兵2名が、宮城野原駅から石巻方面の電車に乗っていくのを目撃した人がいるのだという。

また、ずいぶんイケメンな運転手だとは思っていたがやはり3〜4名からに女性からの手紙があったようで、そちら方面からの捜査も当たることになったようである。

いずれにしても基本は「170円」のメーターで、小田原から事件現場まで、どのような経路で170円になったのか、それが捜査の焦点であった。

ところで、拙ブログでも触れている同年2月の千住のフランス兵による銀行ギャングは、日本人共犯の裁判が始まろうとしており、フランス兵はサイゴンに送られて軍事裁判にかけられようとしていた。

このような「米兵犯罪説」に対し、当の米軍ではどう反応したか。
4月6日の河北新報夕刊に、広報官はコメントを出している。

「この悲惨な事件の犯人がアメリカ人か三国人か、日本人かを断定するのはまだ早い。アメリカにも新聞の自由があるが、このような事件が発生した時はいち早く断定しようとするので迷惑を被る個人や団体が出てくる。事実に基づかない報道はしないでほしい。チューインガムぐらい日本人でも噛むだろう。女と喧嘩をして殺気立ったということもあるだろう」

仙台北警察署の所長もこの広報官に追随するような論調で、「正確な報道をしてほしい」と、忖度した調子であった。

ところで、下の広告には「電球1個でテレビが当たる」と書いているが、日本でのテレビの本放送は翌昭和28年2月1日だったはず。
宮城県の場合、NHK仙台放送局が昭和31年、民放ではTBC東北放送が昭和34年にテレビジョン本放送を開始している。
では一体何を目的にテレビを・・・? ということになる。

犯人は一体誰なのか、その目星が付いたのが4月9日の河北新報である。
それは拳銃の線からだった。

4月6日18:10頃、仙台市内の輪タク屋が米兵から「ピストルを買わないか」と持ちかけられたのだという。
そして隠し場所である仙台市大町の飲食店を訪れたところ、怪しいと思われ通報された結果逮捕されたというのである。

その朝、床下からコルト45のピストルが出てきていた。

このピストルは東京での鑑定に回され、本件犯行に使用されたものかどうかの鑑定待ちの状態となっていた。

ところで、これまた拙ブログでも触れた小牛田の誘拐殺人であるが、裁判が始まっていた。
数々の証拠品を前に、犯人である古川高校卒業の21歳の男は平然としていたようである。

さて、鑑定結果はどうだったのか。

第1次鑑定は国警科学捜査研究所によるもので、
「現場から発見されたものは犯行に使用されたものと一致」

第2次鑑定はCID(米陸軍犯罪捜査本部)によるもので、
「犯行に使用されたものとは断定できない」

お互い、それぞれの立場からのポジショントークの様相を呈してきた。

それを持っていた米兵の取り調べは米軍側で行われることとなったようではあるが、何しろ米軍なのでほぼ解決は期待できない状況となって行った。
いかんせん今で言う「中国公安に捕まった日本人をどう裁くか」のような話である。

ところで、世間の関心は宮城県内を含めタクシー強盗どころではなくなって行った。
日航の飛行機が消息を断ち、37名の乗客が行方不明であるというのである。

これこそが、後年の「もく星号」である。

ほぼ期待できない米軍の取り調べであるが、案の定といえば案の定の答えが返ってきた。
「米兵は事件に関係なし」

その後であるが「宮城県警察史」によれば、該当の米兵は「精神鑑定の要あり」と本国に送還されたのだという。

その後どのようになったのだろうか。
米軍兵士については、検索することができたはずだと思うが、ちょっとそのページを見つけることができない。

「もく星号」の方であるが、こちらもまた調査委員会が立ち上がり、調査の構えであったが操縦していたのはやはりアメリカ人であった。
Occupied Japanでは、飛行機の操縦さえ許されていたなかったのだ。

そんな67年前の「発展途上国」日本。

さて、ダークツーリズムへと赴きましょう。

ところで、この事件に関してはまだ新聞自体を蒐集していないので、まずそこから始めなければいけない。

ということで、仙台駅前から交通局大学病院前行きのバスに乗って仙台市民図書館へ。
仙台市民図書館は「メディアテーク」という複合施設の中に入っている近代的な施設である。

ここは2004年のGWに「宮城県警察史」をコピーして以来なので、かれこれ16年ぶりということになる。
あの時は最初に、泉にある宮城県図書館へ行ったのだった。
ところが、「宮城県警察史」をコピーしようとしたら「警察の許可がいる」というのである。
こんなことするのは宮城県だけであった。

それと同時に、昭和史のために「河北年鑑」もコピーすることにする。
河北年鑑の事件に関する記述は、年ごとに違うのと、日時自体が間違っている時もある。

そして河北新報のマイクロでの閲覧であるが、何とマイクロの機械自体が壊れていた。
決死モデル:チームR小沢

仕方が無いので、別の事件のダークツーリズムに行こうかと思った矢先、修理が完了したようで、首尾よく事件に関する新聞記事もコピーすることができた。

さて、ここから宮城球場に行くには、歩いてあおば通駅に行った方が良いような気がする。
ということで、国分町や一番町の通りを歩いていくことにする。

途中、どこかで昼食にしたい。

ちょうど、仙台牛タンの発祥である「太助」が途中にあるのでそこに行くことにしたい。

実は昨日も仙台駅で牛タンを食べているのであるが、そこでの説明では「戦後、洋食の牛タンを食べれるように工夫したのが仙台牛タンの始まり」とされているが、実はそうではなく、戦後であるのは確かなのだが、米軍が肉料理に使った余りの牛タンとテールをどうにかして活用できないかと始まったのが牛タンなのだという。
決死モデル:チームWBナギサヤ

そして麦飯や浅漬けも、当時の食糧事情を反映しているのだという。
そういう意味では、仙台というのは至る所で米軍の影響が濃いのだ。

さて、牛タンを食べ終わったら一番町を経由して青葉通り駅を目指す。
このあたりが仙台のメインストリートとなる。
結構人は多くてなかなか密である。
これでも少ない方なのだろうか。

本来であれば、今頃七夕祭りがおこなわれているはずだったが、今年は中止。
横断幕には「また来年」と書いている。
決死モデル:チームRナオミ

しかし仙台もかなり熱い。
これも地球温暖化のせいなのだろうか。

さて、青葉通りに出てあおば通駅に到着。
ここは完全地下駅であり、仙台市営地下鉄南北線との乗り換えはこちらをサジェストされる。

また、JRの駅であるだけに、地下鉄駅でありながらみどりの窓口があったりする。
そんな完全な「都市駅」であるにもかかわらず電車は15分おきというのんびりした状態である。

14:35の東塩釜行きに乗れなくもなかったが、14:50の多賀城行きに乗ることにする。
決死モデル:チームP桃園

あおば通からはそれほど客も入っていない。
そして仙台・榴ヶ岡と止まって、その次が宮城野原となる。

宮城野原は楽天イーグルスを前面に押し出した駅となっている。
発車メロディも「羽ばたけ楽天イーグルス」。
駅の出入口も楽天イーグルスの帽子の形になっている。

最近のプロ野球は、もう営業が非常にうまく、ゲートの時点で既に楽しんでもらうことを考えるような造りになっている。
まるでディズニーランドである。

さて、現場であるがこの正面ゲートからさらに進んだところの外野入口にあるようである。
2番目のゲートには「選手の出待ちはご遠慮ください。球場の御用の方はこの先のAゲートへお越しください」と書いてある。

この宮城球場や仙台育英学園の通りに面したAゲートの近くだったのか、はたまたそこからまた小道に折れた南側の出入口だったのか・・・
決死モデルチームPウメコ

新聞には「なぜ大通りからこちらに入る必要があったのか」という書きぶりがあったので、やはり南側ゲート近くだったのだろうか。
両方で決死すればよかった。

さて、時間に余裕は無いのでさっさと仙台駅に戻ることにする。
あおば通行きは座る所も無いほど人が多かった。

そして京葉線並みに長い通路を経て仙台駅の6番線へ。
「ひたち26号」は品川行きで、水戸の次は上野までノンストップであるという。
決死モデル:チームPペギー

この場合、水戸で乗り捨てて中電にでも乗った方が良いのだろうか。
「ひたち26号」の水戸到着は19時26分。
ここから上野行きの中電に乗ると19時40分発で、松戸には21時20分に到着する。
その後の「ときわ88号」に乗ると水戸は19時53分発で、柏到着は20時45分。

これらに対し、この「ひたち26号」の上野到着は20時36分。
何だかどれに乗っても変わりないような気がしてきた。
そういうことであれば、上野までこれに乗ることにしよう。
既に切符も買ってあることとて・・・

そして上野駅に到着し、旅程は終了した。
決死モデル:トルソーさんラ・バルバ・デ

こんな事やってフラフラしてて大丈夫ですかね。
光陰矢の如し・・・

 

 

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