体重の推移は以下の如し。
まあ昨日に比べれば減ってるか。一昨日は色々食ったから・・・
ただ、体重の減少が鈍化したのは確かである。これでは-2.0のシャブなど夢のまた夢。
カロメ齧って目指すのみである。
昭和8年「我が代表堂々退場す」の時は、中華民国は満州非承認の急先鋒であり、なおかつ中国大陸では局地的な戦闘が勃発していたとは言うものの、全面的な戦争に至っているというわけではなかった。
その舞台となった盧溝橋の歴史は非常に古いく、金代の1192年に完成している。
そして13世紀に「東方見聞録」をものしたマルコ・ポーロは、この盧溝橋を「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と表現したというほどの橋である。
爾来七百幾星霜、科挙に赴く受験生が渡ったかもしれないし、宦官が渡ったかもしれない。
そして元代、明代、清代ときて中華民国の時代となり、中国も外圧という形ではあり、非常な痛みを伴いつつも近代国家の道を歩んでいくことになる。
中華民国になって26年目、すなわち民国26年7月7日の晩、謎の発砲が起きる。
日本軍はこれを中国兵の仕業であると難詰した。
このいざこざは思いのほか大規模な戦闘に発展することになった。
これが日中戦争の始まりである。
都電が東京都心を網の目のように走っていた頃、須田町には10個の系統が集中し、地理教育東亰電車唱歌でも 〽乗り換え繁き須田町や~ と歌われていた。
昭和8年2月24日、スイスはジュネーブで行われた国際聯盟総会にて。
リットン調査団の報告書に基づいた対日勧告書(満州国を国家承認せず、国際管理下に置くこと)が賛成42、反対1、棄権1の圧倒的多数で採択されると、大日本帝国の全権代表として出席していた松岡洋右は憤然として退場、翌25日の東京朝日新聞では「我が代表堂々退場す」という今日残る名文句の見出しで報じられることとなった。
ところで、この見出しでは「聯盟よさらば!」とあるが、国際聯盟の脱退を政府として決定したのは3月8日、それを国際聯盟に通告したのは27日であるという。
当方としても現在話題となっている百田某同様、Wikipediaで見る以上の近代史に関する知識は持ち合わせていないのだが、この後の日本の国際的孤立を象徴する出来事となったこの「堂々退場す」にしても、その前段階の「十字架上の日本」という、日本の立場を述べた英語の演説は、松岡のその英語力が英仏など各国の代表に好評ではあったという。
・・・とはいっても別に「事件現場を歩く」でグリコ・森永事件の跡を回るというわけではない。
現在、Twitterで「南京事件」で検索して最もいいねやRTが多いのは、安田峰俊氏のこのツイートではないだろうか。
実習生問題 →慰安婦問題も官民ごちゃごちゃしながら人権侵害的なことしてたんやろなあ
入管収容問題 →南京事件も現場の人が「職務に忠実」やったんやろなあ
と、日本の歴史問題が割と事実らしいことが体感的に判明してしまうので、当局は歴史の隠蔽のためには至急目前の問題を解決する必要がある
— 安田峰俊『さいはての中国』『八九六四』好評発売中 (@YSD0118) 2018年11月22日
上野公園の真下にある博物館動物園駅が廃止されて早や21年。
今度、特別公開するのだそうな。
旧博物館動物園駅 公開と展示 https://t.co/w0pMmrBTFb
— 鉄道チャンネル (@TetsudoChannel) 2018年11月23日
平成も残すところあと少し・・・
洞口さんほんま草
コラボしてくれ〜
前進チャンネル特別編「質問コーナー(前編)」 https://t.co/Fga0LumV09 @YouTubeより pic.twitter.com/T8nqaRlGix
— えらてんチャンネル@12/16著書発売10万部売る (@eraitencho) 2018年9月13日