何でか知らんが最近「狭山事件」で検索するととなりのトトロが出てくる。。。
「となりのトトロ」と昭和38年に起こった 「狭山事件」との関係 狭山事件とは 1963年5月1日に埼玉県狭山市で起こった 少女誘拐殺人事件 この画像が関連性があることを示す 後ろの茶箱の字にご注目。 pic.twitter.com/0cZ8XRiKeg
— ジブリを最高に楽しむ (@jiburi_the_best) 2018年12月8日
余りに意味不明すぎる都市伝説であるが、その狭山事件に関して現地調査があるというので行ってみることにしたい。
そもそも、狭山事件とはどんな事件であったか。
今もってなお、冤罪事件として第20次再審請求がなされているが、当時の報道の様子を地元の埼玉新聞の記事から追ってみることにしたい。
東京・台東区で「吉展ちゃん事件」という有名な誘拐事件が発生し、容疑者も逮捕されておらず1か月が経過した昭和38年5月4日の埼玉新聞第2面で、今度は埼玉県狭山市で女子高生が誘拐されたという旨の記事が報道された。
実際に誘拐がが発生し、脅迫状が投げ込まれたのは5月1日になるが、その時から報道協定がなされており、前日3日の夕方にそれが解除されたものである。
ちょうど、吉展ちゃん事件の時に初の報道協定が運用されたというタイミングである。
報道協定は、この3年前の銀座天地堂カバン店の雅樹ちゃん誘拐事件において、捜査の様子を逐一報道したことにより犯人がプレッシャーを感じ、ついには身代金をあきらめ殺害してしまったということから結ばれたものである。
報道協定は、被害者が無事に確保された時、あるいは逆に被害者の死亡が確認された時に解除となるのが普通である。
同じ5月4日の第7面では、警察官40人を配備し身代金の受け渡しで犯人の声まで聞いておきながら、犯人を取り逃がしたことを報じている。
これは警察の痛恨のミスであった。
犯人は女子高生が行方不明になった日にその家まで行き、脅迫状を戸に差している。
そして通学路上の雑貨店(佐野屋)を身代金の受け渡し場所に指定している。
そしてその場所には女子高生の姉が行った。
そして犯人と10分間も言葉まで交わしているのである。
しかし「三丁目の夕日」にもあったが街灯が無かった時代、田舎の夜はまさに闇夜であり、いったん犯人を取り逃がしてしまうとそれっきりになってしまったのである。
これに対し、埼玉県警の本部長も「責任を痛感する」と謝罪しきりであった。
吉展ちゃん事件で世間が騒がしかっただけになおさらのことであった。
この記事では、被害に遭った女子高生の人となりについても解説しており、「成績上位で明るい性格。中学時代はソフトボール部のキャプテン」とされていた。
翌5月5日、埼玉新聞では一面トップで女子高生が殺されていたことを報じている。
解剖の結果、佐野屋で身代金の受け渡しをしていた頃には殺されていたとの所見が出た。
胃の内容物は、その日に料理の時間で作った「ライスカレー」以外の内容物が無かったとのことであったが、本によってはトマトが見つかったという結果もあるようである。
また、死因としては扼殺による窒息死であるとの所見が出た。
死体の服は脱がされておらず、縄で縛られており突発的な犯行とは見られないものだったようである。
また、この相次ぐ失態を受けて柏村信雄警察庁長官は辞任を決意する。
本当であれば、柏村長官はこの事件の3年前の昭和35年12月の第2次池田内閣成立時に勇退しているはずだった。しかし記者会見の席上で直属の大臣である自治大臣が「勇退後のポストは公団総裁」と発表したことから「20万人の警察官を苦労させた自分が、そんないい就職先をあっせんされて退官などできない」ともう1期警察庁長官を務めていたという、高潔をもって鳴る人物であった。
会津中学から静岡高校を経て東大法科を卒業し、高等文官試験に合格し内務省に入省、警察畑はそれほど長くなく、むしろ地方課など「自治官僚」としての人生が長かったのだという。
ではその犯人像はどうなっているか。
同じ5月5日の7面では、犯人像について大々的に推理している。
犯人像については、なぜ「20~35歳」としたのかについては、ここから読み取ることはできない。
また、被害者の家に届けられた脅迫状も掲載されている。
Wikipediaにもそのまま掲載されている有名なものであり、稚拙な文字で当て字が多いものである。「刑札」「死出死まう」など・・・
また、各界のコメントも掲載されており、教育界からは浦和高校の校長。
浦和高校と言えば一時期は東大に60人ぐらい輩出していた名門校であるが、そのような学校で「生活指導」云々というコメントが見られるのも時代相だろうか。もっと時代が下れば、この手の公立名門校は、やたら「自由」を強調するようになる。「五体不満足」乙武洋匡氏の母校である東京都立戸山高校だって、今でこそ私服で校則のない学校として知られるが、東京府立第四中学校の頃は「死中」と呼ばれるほど規律の厳しい学校であったという。
警察庁長官が辞意を漏らす程の大失態に埼玉県警は窮地挽回と捜査を続けていたところ、有力な容疑者が自殺を遂げてしまった。
それは駅前の通運会社に勤める31歳の会社員であった。
筆跡鑑定こそされていなかったが、彼の字は脅迫状の字と一見似ており、また血液型もB型でこれも犯人と同じであった。(ただし、「狭山事件 自殺者の真相」によれば、筆跡鑑定で真犯人性は否定されている)
被害者の家の作男をやっていたこともあったようだが、被害者が生まれた頃の一時期だけだったようであり、被害者との面識はなかったようである。
ただ、被害者が襲われたと見られる5月1日の15時頃には会社で同僚と一緒にいたことが分かっている。
また、被害者を縛った手ぬぐいも彼の家には配布されていなかった。
この頃改選されたばかりの埼玉県議会では、5月8日に行われた改選後初の全員協議会に何と警察幹部も出席することとなった。これは社会党県議団の要請によるものである。それだけこの事件に対する埼玉県民の注目は高かった。
ところで見出しは「県警本部長あやまる」とあるが、記事を読むと県議会の席上で謝ったのは県公安委員長であり、県警本部長はと言えば、その狭山事件で狭山署に行っていた最中であり、県都浦和に戻ってきたのは散会後であったという。
そして新聞記者の質問に対し「責任を痛感している」と陳謝したようである。
ここで自殺した青年のことにも触れているが、筆跡鑑定やアリバイで白だったとはっきり述べている。
これは、「生かして犯人を捕まえたい」という意地もあったのではないだろうか。
5月は中旬の声を聞いても、なお捜査は続いていた。
この時捜査線上には、70人もの人が上がっていたようである。
10日間にわたる山狩りの結果、見つかったのは被害者の自転車に付けられていた荷掛け紐、埋めるのに使われたと思われるスコップぐらいであった。
カバンなどはこの時点でまだ発見されていない。
ところで、左隅の小さな記事に「橋幸夫切られる」とある。これは5月12日に金沢での公演で、暴漢に軍刀で襲われた様であるが、Wikipediaにもこの件については記述があった。
1963年5月12日、金沢市の金沢市観光会館で、ショーを行った際に暴漢に襲われるという事件が起こる。ラストステージのフィナーレのときにそれは起こった。客席から一人の男性が軍刀を持ち橋に切りかかる。それを止めに入ったマネージャーも右手中指をちぎれそうになるくらいの重傷を負う。橋は咄嗟の判断で軍刀の刃を握り締め、相手に抜かれないように両手で強く握り締めた。その後、関係者などに取り押さえられ橋は大事には至らなかったが、手のひらと腕と肩と顔に2週間の怪我を負った。尚、橋はこの後遺症で左手小指を伸ばすことができない。それでも、このような危機を凌ぐことが出来たのは、「ボクシングをやっていたからだった」と橋本人が語っている。
逮捕された男は、過去に傷害事件を起こしたこともある前科持ちの男であった。また同ステージに参加していた漫才師、晴乃ピーチク・パーチクのパーチク(手塚清三)も後頭部に怪我を負っている。
『いつみても波瀾万丈』にて橋本人が、「刀を強く握っていなかったら、指をすべてもっていかれた」と語っていた。
Wikipediaで独立した項目として語られているこの事件は、橋幸夫自身の人生の中でもトップクラスの驚嘆事であっただろうが、その頃の世の中は「吉展ちゃん事件」「狭山事件」で騒然としていた世相だったという事である。
さて、容疑者が70人もいながら、5月19日の埼玉新聞ではその全てが「白」と出ることになったと報じている。
「犯人は地元の者」という見込みで捜査したものの、その地元からの協力が得られず、捜査は難航していた。
「佐野屋で身代金を受け取りに来た犯人と声色が似ている」と、被害者と同じ地区に住む青年を有力容疑者として捜査したもののアリバイが判明しシロ。
また、地元の若者に自筆で「アリバイ証明書」を書かせ、脅迫状の筆跡と照合していたのだという。
ただ、脅迫状自体はすでに公開されている。アリバイ証明書がどう使われるのか、少し勘の良い者であれば、分かったのではないだろうか。
ともあれ、この状態では捜査は振り出しに戻るしかなかった。
そのような中、5月24日の埼玉新聞1面トップにおいて、死体発見場所近くに住む24歳の青年を逮捕することとなったことを報じている。
逮捕容疑は暴行、窃盗でその時間は5月23日午前4:46。自宅で寝ているところでの逮捕劇であった。
はたして、その暴行と窃盗については自供したが、殺人については否認のままであった。
しかし、ポリグラフでは殺人に関し真犯人性の高い反応が出たようである。
ただ、この時点では「緊張のため精査してみないと分からない」ということは県警も認めていたようである。
また、血液型もB型で犯人と同じ、地下タビの足跡も似ているということが逮捕の決め手となったようであった。
筆跡鑑定でも、脅迫状と同じような字の誤用が見られるということも、その確信を深めたようである。
しかし、警察にとってはそれからが茨の道であった。
被疑者から全くそれらしき供述が出てこないのである。
足跡も違い、アリバイもでたらめ。それでもポリグラフだけは黒と出る状況。
刑事訴訟法上、逮捕した被疑者を勾留できる期間は10日と決まっている。
その間に起訴に持ち込まなければいけないということになる。
しかし、その期限が切れる1日前になっても、物証が見つかる見通しも、自白の見通しも全くなかった。
では、誘拐事件が発生し死体が発見されるまでの5月1~3日の間、何をやっていた? ということになると、
- 兄と仕事していた。
- 西武園競輪に行っていた。
- 所沢のパチンコ屋にいた。
等と二転三転している。
刑事訴訟法では、勾留期間は「やむを得ない事由」に限り、最大10日間の延長ができる。
しかし、この時点で既に「第2の幸浦事件の恐れ」という見方はあった。
幸浦事件とは、昭和23年に発生した強盗事件であるが、静岡県警による拷問による取り調べや証拠の捏造が露見し、昭和34年に全員無罪となった冤罪事件である。
やはりこの事件も別件逮捕から自白にこぎつけた事件であり、狭山で起きた事件に対しても、同じようなにおいを感じた自由法曹団が、被疑者の弁護にあたることになったのである。
勾留を延長してもなお犯行を自白しない被疑者対し、結局勾留期限が切れる6月13日、浦和地方検察庁はとりあえず森林窃盗、傷害、暴行、横領など計9件の容疑で、浦和地方裁判所に起訴することになる。
肝心の殺人容疑は「極めて濃厚だが、公判を維持するだけの有力な決め手がない」という状態であった。
恐喝・殺人と言った本丸抜きで起訴に持ち込んだのは、東京高等検察庁との協議の結果でもあったようである。
しかし、殺人の容疑が固まる前からすでに冤罪の声は高まっていた。
この頃行われた衆議院法務委員会では以下のようなやり取りがある。
- 第043回国会 法務委員会 第23号(昭和38.6.13)
○宮地(直)政府委員(警視庁刑事局長) われわれはあくまでも証拠に基づいて捜査をいたしているのでございます。何も偏見、予断を持って捜査をしていることはございません。
○田中(織)委員 残念ながら、この石川君はいわゆる未解放部落の出身なんです。もとは菅原町といって百戸ばかりの未解放部落だったのです。現在は入間川町四丁目ということになって、戸数は四百五十戸ばかりになって、いわゆる未解放部落以外の人たちも駅に近い関係もありまして入り込んできているのです。ところがたまたま二十五日、二十六日の埼玉新聞には、もうすでにいわゆる特殊部落、別名菅原町という問題の記事が出てきている。そして昨日部落解放同盟の地方委員会の決定に基づきまして狭山署にも抗議に行っております。同時に埼玉新聞にも抗議に行っておるのでありますが、埼玉新聞のほうでは、その記事は共同通信社から送ってもらった。しかも共同通信の記者は、警察からとにかくここは特殊な地域だということを聞いた、こういうことになっておるのです。おそらく入間川町四丁目に住んでいる人たちも、現在住みつくまではそういう地区だというようなこと、かって菅原町といわれたというようなことを知らない人がおるにもかかわらず、警察官がだれであるかということは私どもはいま調べておりますけれども、やはりここはこういう地区だ、こういうことであなたたちが調べておる、こういう疑いがきわめて濃厚なんです。
さらに石川の友人であるという東島が石川から二週間も経過して逮捕せられておるのでありますが、石川を逮捕に踏み切るまでには石川の住んでおる柏原という地区を約一週間にわたって警察が包囲をしておる。それに報道班が入ってほとんど外界との交通が遮断されたような形で、これはもちろん聞き込みだとかそういうことでありますけれども、あなたたちがやられているという事実があるのですが、そういうことについてはお聞きになっていませんか。
○宮地(直)政府委員 昨日狭山署にいま申されたようなお話があったことは承知いたしております。しかしながら、われわれはそういう問題を前提として捜査をしているのではなくて、あくまでも事実に基づいて捜査をしておりますので、その趣旨を御回答申し上げたということであります。
それから新聞報道につきまして、もちろん新聞の報道の内容には捜査本部の発表もあることは当然であります。しかしながら、すべて警察の発表の記事のみではございませんので、われわれはそれらのものについて論評を差し控えたい、こう存ずるのであります。警察はあらゆる捜査をいたしておりますが、そういう報道関係の報道については、私どもは目下捜査中でもあり具体的に承知いたしておりませんのでお答えいたしかねます。
後年「狭山差別裁判」として解同により問題にされる芽はこの時点で出ているのである。
未開放地区云々に関して言えば、この昭和38年の時点で入間川駅(現:狭山市駅)周辺も宅地化が進んでおり、そのような地区であることは一切考えずに入居している新住民も多々いる状態であったということもこの議事録から読み取れる。
13日に暴行・傷害などで起訴されはしたものの、弁護側が「この程度の起訴事実であれば保釈しても公判に支障はない」と申し出、それを受け入れた裁判所側が17日正午には保釈することにした。
しかし、その3時間15分後には、本丸の殺人などの罪で再逮捕することになった。
そうするだけの物証などがどこかで見つかったのだろうか? これについては「その後の捜査で疑いがあると認めた」と発表するだけだった。
これにはマスコミも「公判を維持できるのか?」と疑心暗鬼とならざるを得ない状態であった。
また、上述の衆議院法務委員会の議事録にもあるように、埼玉新聞は解同に抗議され、「あくまで共同新聞の記事を使ったに過ぎない」という苦しい弁解に終始している。
そして6月24日の埼玉新聞では、被疑者が「脅迫状を書いた」と自供したことを報じている。
また、カバンが死体発見場所の北側の掘割から発見された。そこは、夏草が密生しよく注意しないと発見できない場所であったという。
ただ、そこは被害者の自転車の荷掛け紐が発見された場所の近くでもあり、念入りにサガしたはずの所であり、捜査員すら頭をひねる状況であった。
しかし、被疑者は殺人に関してはまだ自供していなかった。
また、カバンについても「山道に落ちていたが犯人と間違われるので掘割に捨てた」という供述をしていた。
ところで右上の「日曜論壇」・・・
埼玉県体育協会副理事長が寄稿しているが、曰く、
「スポーツに関係する人たちは明るく朗らかで、何事もくったくがなく、スポーツの大会や会合に出てもさっぱりしていて、参加するだけでも健康になるからです。」
ほう・・・
ギリシャのポリスの昔から「健全な精神は健全な体に宿れかし」という格言はどうなる?
昔から体力を持て余した男は碌なことをしたためしがない。
この頃の日本でも、それなりに被害に遭ったという報告はあったはず。
そして事件から2か月が経とうとしていた6月25日、朝鮮戦争の開戦からちょうど13年が経ったという日の埼玉新聞の1面トップで、ついに全面自供した旨を報じている。
曰く「元々好意を持っていたところ、雑木林で会ったので襲い、騒がれたために絞殺した。その後脅迫状を届けに行き、畑に死体を持っていき、穴を掘って埋めた」。
そうなのか・・・
既に冤罪が騒がれていると分かっているので、そのバイアスがあるかもしれないが、この時点で犯人の行動として矛盾が多いような気がする。
例えばもし自分が「好意を持っている人を襲いたい」と思ったら・・・? (そもそもそんなこと思わないけど)
- 雑木林で殺しちゃったんなら雑木林に埋める。わざわざ麦畑に死体を運んでいく意味が分からない。
- 何で雑木林で殺す→死体を麦畑に埋める、の間に「脅迫状を家に届ける」というアクションが入る?
今日は、津山三十人殺し・下山事件・狭山事件を扱うブログの管理人さんにより、下山事件現地調査を行うというので参加することに。
この現地調査には『狭山事件 46年目の現場と証言』の著者・伊吹隼人氏も来られるという。
今回のダークツーリズムは、初めて複数人でフィールドワークということになる。
さっきまでヤギー祭で品川にいたので、山手線で高田馬場へ。
高田馬場からは「小江戸」65号で狭山市を目指すことになる。
(決死モデル:トルソーさんのナイ)
一時期、西武池袋線沿線に住んでいた頃は、「ちちぶ」が30分に1本しか走っておらず、なおかつ家に帰る時間には30分前に指定券を買っても座れない(つまり、乗車のためには30分以上のタイムラグを設けなければいけない)ことから、「急がない時ほど特急」というのが常態化していた。
さて、高田馬場を出た「小江戸」は、東京23区を抜けて東京都下の住宅地を走る。
そして最初の停車駅である東村山から先は埼玉県に入り、農地が広がりだすようになる。
そして狭山市に到着。
決死モデルは、デカレンジャー出身ということでチームPウメコ。
この狭山市駅は、昭和54年まで「入間川駅」だった。現在でも駅所在地は「狭山市入間川1丁目」となっている。
ちなみに、狭山市は昭和29年7月1日、「昭和の大合併」で入間郡入間川町・入間村・堀兼村・奥富村・柏原村・水富村が合併して成立している。
北九州市の中心駅が「小倉駅」であること同様、狭山市の中心駅が「入間川駅」であることはある意味当然のことであった。
さて、ここで現地調査の参加者の人達と落ち合う。参加者は伊吹氏も含め総勢で7名。
伊吹氏による資料を手渡され、ブログ主催者の方の車で各地を巡ることにする。
この時、近所の農婦や中学時代の担任教師に目撃されているという。
中学時代の担任教諭は、自らが顧問を務める野球部の大会で、西武新宿線の西側にある中学校へ行くために自転車で第2ガードを通ったものであり「誰かを待っているような感じ」であったという。
その間、事件に関係する諸々の場所に立ち寄る。
この事件は、たくさんの人が容疑線上に登り(前掲埼玉新聞によれば70人)、複数の自殺者まで出している。
取材に対しても、家の前を通っただけで警察に通報するような家もあれば、取材に対してお茶を出して応対してくれたという家もあったという。
また、時間の経過に応じて「突然取材に応じてくれなくなった」という人もいるようである。
この地域で特徴的なのは、同じ苗字が多く固まっている、典型的な農村であるということ。このような地域で長い間顔を合わせて暮らしていかなければいけないとなれば、どうしても口は重くなろうというものであろう。
次に、被害者の通学路上にあり、身代金の受け渡しが行われた雑貨店「佐野屋」の前にて。
割と最近まで営業していたというが、現在は店の痕跡すらない普通の民家となっている。
この佐野屋の前を走るバスも、1日1本しか来なくなっているという状態である。
犯人が闇夜に消えて行った畑は今でも健在であった。
ここでもし犯人を捕まえることができていれば、狭山事件も後年長々と続く「差別裁判」にはならなかたっだろう。せめて「吉展ちゃん事件の頃に誘発的に発生した誘拐事件の1つ」ぐらいの扱いでしかなかったかもしれない。
また、この先にある森林はかつて「薬研坂」といい、大の大人でも入るのを躊躇するような山道であったというが、被害者の女子高生は平気で通学路にしていたという。
しかし、現在はすっかり様変わりしており、郊外型店舗の立ち並ぶロードサイド地帯に変貌していた。
そして入間川駅・・・いや、狭山市駅に戻る。
この狭山市駅西口の近くに、被害者の通っていた川越高校入間川分校の跡地がある。
ちなみに被害者が通っていたのは2年制の「別科」と言い、高卒資格は与えられない「花嫁学校」だったのだという。
川越高校同窓会のページによれば、別科は昭和27年に開校し、昭和40年に募集停止、翌41年3月に廃止になったのだという。
その間の卒業生は324名。本当ならこの数の中に、被害者が入っているはずだったのだが・・・
廃校後、准看護学校となったがそれも廃校になり、現在は石垣だけが残っている状態になっている。
決死モデルは、帝銀事件の時から間がないが、デカレンジャー出身ということでチームYジャスミンに登場願うことにする。
伊吹本によれば、被害者は最初第2ガードで待ち合わせをしていたところ、何の故でか第1ガードに変更することになった。
その間、学校に戻っていたのを複数のクラスメートに目撃されている。目撃したクラスメートによれば「3:24の電車に乗ろうと思って教室の時計を見たら3:23だった。その時に(被害者)さんが教室を出て行った」というので、これは正確な証言として残されているようである。
この後は、歩いて狭山市駅(入間川駅)周辺の事件関係地点を回って歩く。
死体遺棄現場では、近所のお婆さんから「何かあったんですか?」と聞かれた。こちらは「歴史を調べていて・・・」とは答えたものの(あながち嘘ではない)、向こうは55年前の事件など知らないようだった。
そして最後は、逮捕された石川青年の旧居跡地にある、「狭山差別裁判現地対策本部」へ行くことに。
伊吹氏は実際に、火災に遭う前の鴨居を見たことがあるというが、脅迫状に使う万年筆は「容易に発見することができた」という。
それで、警察の「万年筆は鴨居で発見できなかった」という捜査結果に疑問を呈している。
最後は、駅前の中華料理店で事件などに関する諸々を語り合うことに。
ところで、中華料理と言えば最近の麻婆豆腐は「花椒」が入ってしびれるような辛さになっている。確かに中国に旅行に行った時に食べる麻婆豆腐はこれが入っているが、自分としてはこれは嫌いで、たとえ「本格的」でなくても、あの昔ながらの日本の中華料理店で食べるような麻婆豆腐が食べたいと思っている。
こんな「本格化」は、まさに「味のデグレード」。