ヤギー祭2018 ~京急史と西武史~

ジオシティーズが来年3月に閉鎖するというので、ヤギーの所も楽ではないもよう。

そんな今年も12月9日つまりヤギーの生誕祭がやってまいりました。
各年のヤギー祭はその年で(自分の中では)気合を入れて鉄ネタを出すのだが、今回は京急史と西武史をまとめ出ししたいと思う。

ということで今回注目するのは京急は品川から各駅停車で2つ目の新馬場である。

新馬場しんばんば」と言うからには、どこかに元の「馬場ばんば」という駅があるのだろうか。
そうではなく、昭和50年の高架化前は、この駅は「北馬場」「南馬場」の2つの駅だったのだ。
高架化した際に「新馬場」として統合されたのである。

京浜急行が大東急に戦時合併される前の「京浜電気鉄道」だった時代、横浜から東京に出る交通機関としての京急は「職工さんが乗る電車」だったのだという(ソースは忘れた)。

北馬場も南馬場も、京浜電鉄の他の駅がそうであったように、踏切に面した駅だったようである。(写真は「京急の駅今昔 昭和の面影」JTBキャンブックスより)

 

京急の各駅停車なんて乗るのは何年ぶりだろう。
その時は八丁畷あたりから乗り、京急鶴見で10分ぐらい待たされた記憶がある。とにかく京急は快速特急が優先で各駅停車などどうでもいいのだ。西武のような芸術的な緩急接続などありはしなかった(今もそうなのかは不明)。

新馬場の駅に降り立つと、とにかくホームが長い。それはそうだろう。300メートル離れた2つの駅を合併したのだから。
ご丁寧にも「電車はこの先30メートル先に止まります」という案内表示付きである。

前述の通り、京急でことのほか軽視されている各駅停車の最大両数は6両でラッシュ時の快速特急の半分。しょせんはその程度の輸送量なのである。

そしてエスカレーターで改札口に降りてみる。

そしてまたエスカレーターから改札口までが長い。
高架下の、露天に面した通路を長々歩いてやっと改札という感じである。

そしてまた、改札を出てから道路に行くまでが長い。
2つの駅を合併するということの、いかに面倒な事か・・・

ともかくも、かつて「南馬場」であった新馬場の改札口を出て道路を海側に東進すると、旧東海道と交差する。
今では普通の商店街となっているその「旧東海道」を横切り、東品川公園を目指す。

ほどなく東品川公園に到着。
ここに保存されているのは、西武鉄道で使われていた7号機である。
同機の由来は、明治30年(1897年)に「伊賀鉄道」が発注したものの路線自体が完成せず、結局2年後の明治32年に、阪鶴鉄道(現在の福知山線~舞鶴線)13号機として就役することになる。

これが国有化し2850型と改番されたものの、大正12年(1923年)に除籍となり播丹鉄道(現在の播但線ではなく加古川線)に譲渡され、8号機に改番。
これがまた戦時合併で「加古川線」として国有化されると、また鉄道省の車籍に入ることとなるが、そのまま西武鉄道に譲渡されることになる。
当時の西武鉄道は、国分寺線沿線に軍需工場を抱え、通勤輸送が増大しており、鉄道省などから多数の車両の譲渡を受けていた。その中の1両であったようである。
西武鉄道では川越線(国分寺~本川越)で旅客列車の輸送にあたっていたようである。
また、この時期の西武鉄道を語る時に欠かせない糞尿列車も西武川越線にあっては、混合列車であったという話もある。もしかすると、この7号機もその先頭に立っていたかもしれない。
ちなみに、Wikipediaの「鉄道による糞尿輸送」によれば、西武鉄道での糞尿輸送は以下の通りだったようである。

旧西武鉄道線→新宿線では井荻駅の北に側線を設けて積込所を作り、田無駅の北側に設けた側線、東小平駅の南側に設けた側線、東村山駅西武園線が分かれた先の側線、国分寺線小川駅の西側の側線に貯溜槽を設置した。
一方、武蔵野鉄道線→池袋線では東長崎江古田間で下り線から南側に側線を出して新たに「長江」という貨物駅を設けて積込所を設け、清瀬駅の北側、狭山ヶ丘駅の北側、高麗駅の西側にそれぞれ貯溜槽を設置した。
車両には無蓋車を改造した専用の貨車を用いた。種車となったのは旧西武鉄道のト31形で、台枠と車輪のみを流用して新たに車体を乗せ、細い鉄棒を側面では上下方向、妻面では左右方向に各々2本ずつ渡して外れないよう固定してあった。車体は底が舟形になった長方形の木製タンクで、上に積込用の蓋、下に吐出用のノズルが設けてあった。合併後は走る線区によって車体に新宿線は「川越線」、池袋線は「武蔵野線」と書かれていた[13]。改造車であるものの、種車のト31形とは同形式扱いで「無蓋車」の名目であった。ただし鉄道会社が所有していたのは台枠より下で、車体は東京都の所有であった[14]
存在した車番として確認されているのは34・37・68-76・83・90-101・107の25両であるが、記録によっては「45両」とするものもあり一定していない。
列車は電気機関車牽引で、目撃者によれば途中編成を二分するようにトフが挟まっていたという。運用は朝方から昼過ぎにかけて行われ、例えば池袋線では1948年頃には保谷→長江→狭山ヶ丘→長江→保谷、もしくは保谷→長江→狭山ヶ丘→東村山→長江→保谷[15]という2通りの運用があった。この運用から見るに、新宿線と池袋線の間で空車回送などの貨車のやり取りがあったと思われるが、詳細は不明である。
また、国分寺線内の列車は何と混合列車であったという証言もある。編成は蒸気機関車牽引で、通常の混合列車と同じ要領で糞尿輸送用貨車数両の後ろに客車を直接つないでいた。ただしいずれの列車も、毎日運転されていたわけではなかった。
西武鉄道の糞尿輸送は書類上は1953年3月31日に廃止されたが、実際にはそれより2年も前の1951年には休止され、翌年にはダイヤも組まれなくなるなど、実質それ以前に廃止となっていた。

実際に積込所と貯留槽の関係を図にしてみると、以下の通りになるだろうか。
国分寺線には積込所は無かったようで、そうすると新宿線内で完結していたように見えるのだがどうだろう?

最後の最後で汚い話になってごめんねヤギー

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