【義手と義足の昭和史】御前講演の栄に浴す(S2.7.1)

昔の学制では、現在の防衛大学校に該当する学校として「陸軍士官学校」「海軍兵学校」があった(ただし現在の防大と直接の接続はない)。
そしてその上に「陸軍大学校」「海軍大学校」という現在の自衛隊で言う幹候学校みたいなのがあり、その陸大を首席で卒業すると、畏くも天皇陛下の前で講演を行う「御前講演」を行うのが通例であったようである。

ただ、御前講演を行うのは陸大だけではなかったようで、陸軍軍医学校でも御前講演というのはあったようである。

昭和2年7月1日に行われた同校の卒業式では、首席で卒業した生徒ではなく、何と無名の一薬剤師が講演をしたとある。

この薬剤師は、かつて戦艦「周防」乗組の水兵であったところ、射撃演習中に負傷し義足のみとなったのだという。
そして、34歳になったこの時は、本郷1丁目で薬剤師として働いていたのだという。

ちなみに、戦艦「周防」は元々、1900年にロシア戦艦「Победаパベーダ」として進水したものを、1905年に日露戦争で帝国海軍が鹵獲ろかくしたものである。
しかし、第一次世界大戦後の戦勝国(日本を含む)の軍拡競争による財政の疲弊により1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約が署名され、日本も結構な数の軍艦を捨てさせられることになる。
その中の一つが「周防」となった。

件の薬剤師の話に戻ると、発明した義足は生皮を用い、正座も胡坐も自由に行うことができ、海軍鎮守府のあった横須賀から東京までの16里の道を、1時間1里のスピードで歩く実験すら行ったのだという。

御前講演の話のあった薬剤師は、
「夢ぢゃないかと思いました。私の工面した義足で正座、胡坐、歩行と回れ右などをしてお目に掛けます」
と意気揚々であった。

時に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」裕仁26歳の時であった。

義手と義足の昭和史

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