昔の学制では、現在の防衛大学校に該当する学校として「陸軍士官学校」「海軍兵学校」があった(ただし現在の防大と直接の接続はない)。
そしてその上に「陸軍大学校」「海軍大学校」という現在の自衛隊で言う幹候学校みたいなのがあり、その陸大を首席で卒業すると、畏くも天皇陛下の前で講演を行う「御前講演」を行うのが通例であったようである。
下村定中尉の御前講演。マルヌの会戦の経過とその分析。
有名なタクシーによる兵員輸送にも言及。
末尾で日露戦争で只管突撃を繰り返した当時に触れつつ、数の上で優勢だった仏軍が敢えて退却を決断した点を肯定的に評価しているのが興味深い。 pic.twitter.com/Ehe5DrkRxd
— 退役 (@Schlieffen_Plan) 2015年12月8日
ただ、御前講演を行うのは陸大だけではなかったようで、陸軍軍医学校でも御前講演というのはあったようである。
昭和2年7月1日に行われた同校の卒業式では、首席で卒業した生徒ではなく、何と無名の一薬剤師が講演をしたとある。
この薬剤師は、かつて戦艦「周防」乗組の水兵であったところ、射撃演習中に負傷し義足のみとなったのだという。
そして、34歳になったこの時は、本郷1丁目で薬剤師として働いていたのだという。
ちなみに、戦艦「周防」は元々、1900年にロシア戦艦「Победа」として進水したものを、1905年に日露戦争で帝国海軍が鹵獲したものである。
しかし、第一次世界大戦後の戦勝国(日本を含む)の軍拡競争による財政の疲弊により1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約が署名され、日本も結構な数の軍艦を捨てさせられることになる。
その中の一つが「周防」となった。
件の薬剤師の話に戻ると、発明した義足は生皮を用い、正座も胡坐も自由に行うことができ、海軍鎮守府のあった横須賀から東京までの16里の道を、1時間1里のスピードで歩く実験すら行ったのだという。
御前講演の話のあった薬剤師は、
「夢ぢゃないかと思いました。私の工面した義足で正座、胡坐、歩行と回れ右などをしてお目に掛けます」
と意気揚々であった。
時に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」裕仁26歳の時であった。