ダンプキラー設計成功の陰で

かつては名鉄の代名詞とも言われた7000系パノラマカーであるが・・・
設計上の愁眉は何と言っても「ダンプキラー」となろう。Wikipediaで調べる限りでは、以下のように述べられている。
(赤字は引用者)

このように好評をもって迎えられた7000系パノラマカーであったが、踏切事故に対する開発関係者の懸念は残っていた。考えられる対策はすべて採り、名鉄では「10トンのダンプカーが80キロのスピードでぶつかっても大丈夫」としたものの、本来はこうした機能は使われない方が望ましいものであった。
運行開始から半年ほど経過した1961年11月29日、名古屋本線の木曽川堤駅付近を特急新岐阜行きとして85km/hで走っていたパノラマカーの前に、砂利を満載した大型ダンプカーが踏切警報を無視して入り込んできた。運転士はすぐに非常ブレーキを操作したが衝突し、ダンプカーは40mも引きずられ、パノラマカーは286mも走った木曽川橋梁の中央部付近で停止した。
しかし、負傷者は乗客8名が軽傷を負っただけで、しかもそれはダンプカーが側面にぶつかった際に側面ガラスが割れ、その破片が当たったものであった。展望席のガラスはひびが入った程度で、展望席に座っていた乗客は無傷だった。その後の調査と分析で、車体は完全に原形をとどめており、衝突事故防止の対策はすべて設計どおりに機能していることが明らかになった
この事故は「ダンプカーキラー」「ダンプキラー」と報道され、パノラマカーの安全性は立証された

翌年ブルーリボン賞を受賞するこの車両を設計した名鉄技術陣の喜びが伝わってきそうな記事である。

かたや、ダンプカーの方は運転手が即死したと聞く。
ダンプキラー成功の陰で、「キル」された運転手と、残された者の悲しみがそこにはあるのではないだろうか。
そのあたりを追ってみたいと思った。

まずは、国会図書館に行って当時の新聞を読む。
昭和36年11月30日の中日新聞に掲載されていた。

ダンプカーは、近くの砂利採集業者で、木曽川の河川敷の砂利採集場から踏切を渡った先にある採石場に砂利を運ぶ途中だったのだという。
この木曽川堤の踏切で、豊橋方面の電車の通過に安心して渡り始めた矢先、新岐阜行きの新鋭7000系パノラマカーが猛スピードで入ってきたのだという。
23歳のダンプカー運転手は即死。
当時であればもう一粒種でもいただろうか。
残された者にきちんと保証はしてもらえただろうか。

名古屋に行く機会があり、木曽川堤駅に行ってみることにした。
この駅は本当に堤防の上にあり、駅舎が堤防に沿って横に広がっている。
・・・と、件の踏切にはお地蔵様がある。
台座の碑文を読んでみると、前面には「祈交通安全」、側面には「昭和丗七年一月建之 関係者一同」とある。
事故から2か月経ったか経ってないかという時期であり、ほぼ明らかにこの事故によって建立されたお地蔵様であると見ていいだろう。
「ダンプキラー設計成功」の朗報の陰で、誰にも顧みられることなく非業に死んでいった若い魂は、この地で慰められていたということが分かっただけでも収穫であった。

そして56年経った今日も、この木曽川橋梁を名鉄特急は走る。

 

関連するエントリ(とシステム側で自動的に判断したもの)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です