日本全域は前線が横たわっている。
(回顧録:2022年9月18日しるす)
ユジノサハリンスクからの夜行急行「サハリン」号でノグリキを目指している。
ロシア鉄道らしい4人個室の寝台で目が覚めたときには、ヌィシュ(Ныш)と言う駅だった。
日本時間で9月4日の06:05だったので、多分そうなんじゃないかという推定なのだが。
4人寝台とは言え、いるのは自分1人だけなので、撮影もし放題である。
列車は、延々と白樺の林の中を走る。
本当に何もなく、手持ち無沙汰である。
そして、風景がツンドラのような草原のようになると、終点のノグリキとなる。
8時53分にノグリキ着。
ノグリキ駅には、多くの人が迎えに来ていた。
そして、ここより北であるオハなどに行くバスも止まっている。
オハに行くバスは、腰高でタイヤの太いオフロード車のようなバスであった。
このようなスタイルでないと、サハリンの北側には行けないらしい。
さて、戻りのユジノサハリンスク行きは、18時となるので、12,000人のノグリキの街を見てみることにしよう。
ノグリキの駅から、街までは結構歩いて行くことになる。
そして、社会主義っぽいアパートの向こうに、ちょっとした街並みが見えてきた。
結局、駅から歩いて40分もかかることになった。
「СПОРТКОМПЛЕКС」つまりSports Complexと書いている。
ところで、ノグリキの市章は鮭の意匠となっている。
水産業が盛んなのだろう。
それと、学校のマークは本のマークになっていた。
確かに、学校のマークは本であることが合理的のような気がする。
北朝鮮でもベトナムでも、学校のマークは本であることが多い。
さて、いろいろ歩きまわったので昼食とすることにしよう。
町外れに、ウズベキスタン料理があると言う。
サハリンから見てすら最果てであるこのノグリキと言う町で、ウズベキスタン料理と言うのはなかなかマニアックすぎる。
ただ、思い当たるところがあるとすれば、サハリン自体が朝鮮人が多いのである。
もしかすると、スターリンの移住政策で中央アジアに行かされた高麗人が、サハリンに戻ってきたと言うことも考えられる。
果たして、メニューを見てみると、チゲがあるなど、自分の推測は間違っていないようだった。
また、ノグリキ最高級のレストランと認知されているようで、結婚式もやるようであった。
ここで、ビビンバとチゲを食べて満腹となる。
さて、ほんとにもうこの12,000人のノグリキの街でやることなんて何一つない。
もう駅に戻って日記でもつけようか。
そういえば、ノグリキからオハまで出ていると言うナローゲージは今でもあるのだろうか。
ちょっとそれだけでも探してみることにしたい。
そして、Google マップに従って、ノグリキ駅方向に待って歩いていると、道の向こうのバス停からおばさんが声をかける。
ロシア語ではあるが、大体はニュアンスはわかる。
「あんた!どこに行くんだい?そっちには何もないよ」
「オハに行く列車を探してるんだよ」
「オハ?列車?オハにはバスで行くんだよ!」
ロシア人と言うのは、基本的におせっかいである。
しかし、やれナローゲージであるとかそのような細かいことを伝えるだけのロシア語力は自分にはない。
「OK、ほっといて欲しい」と言うニュアンスだけ伝えて、なおも歩くことにした。
また、途中で野犬とも出会った。ここはあくまで日本ではない。
咬まれでもしたらえらいことになる。
それでもどうにか、北に向かう線路に行き当たることができた。
この線路を北に歩けば、ナローゲージの駅に行き当たるはずだ。
そして北に歩くと、案の定ナローゲージらしきものがあった。
しかし、あったのは、ナローゲージサイズの客車の残骸であった。
明らかに鉄道として営業運転はしていない。
そして、線路は全く見当たらなかった。
どう考えても、ナローゲージはここにはない。
残念ではあるが、もうここで引き返すことにしよう。
駅から来た道を単純往復で歩くのは芸がないので、この線路を伝って行くことにしよう。
そうすると、駅の広い構内が見えてきた。
ノグリキには、旅客列車が1日1往復しか走ってなくても、貨物列車は重要なライフラインとなっているようだ。
ともかくも、後はユジノサハリンスク行が出るまで、駅の中でネットでも見ていることにしよう。
そして、いよいよ出発の時が来た。
ユジノサハリンスク行きの列車に乗り込む。
来た時と同じ「サハリン」号の寝台車である。
後は、またユジノサハリンスクを目指すだけ。