稚内から船でサハリンへ

本州を前線が横たわっていると言う状況。
東シナ海には台風くずれの熱帯低気圧がある。
回顧録:2022年9月18日しるす)

遅い夏休みを取ったので、船でサハリンへ行くことにしたい。

まずは、札幌のテレビ塔の下のバスセンターから北都交通のバスで稚内へ。
稚内には早朝の5時半に到着したので、結構手持ち無沙汰である。

と言うことで、稚内を適当にほっつき歩く。

まずは、稚内駅の北にある利礼ドーム。
一般的には「北防波堤ドーム」と言うのが普通のようだ。
ただ、自分は「利礼ドーム」という呼び方を推したい。

さて、9時の船の出発でまでには手持ち無沙汰なので、ちょっと抜海まで行ってみることにしよう。
抜海には、早朝の幌延行きに乗って、朝の通勤通学時間帯の列車で戻ってくることができるのだ。

抜海では、写真を数枚撮ったので、ギャラリーでお見せすることにしたい。

印象に残っているのは、駅舎の中のボットン便所の匂いと蛾の死骸であった。
良い木造駅舎だとは思うのだが、長い間いるものではない。
こちらでは晴れていてよかった。

さて、通学時間帯の列車で戻ることにしたい。

そして、いよいよ船に乗る時間になった。
イミグレーションを通過して、船に乗る。

船の中で印象に残ったのは、ビールがやたら安いと言うことである。
それもそのはずで、船の中は免税区域なのだから。

むしろ、普通のミネラルウォーターの方がビールより高かった。
ミネラルウォーターは150円で、ビールは100円なのだ。

3時間位の船旅を経て、コルサコフ(大泊)に到着する。

サハリンがソ連のものになってすでに58年。
今や「大泊」だったことを示すものは何一つない。

ロシアのイミグレを通って、港の前に出ると、迎えの人が来てくれた。
一路ユジノサハリンスクへ。

コルサコフの街を走っていると、北海道拓殖銀行大泊支店の建物は残っていた。
ただし、文化財として大切に保存されていると言う雰囲気はなく、ただ単なる古い建物と言う佇まいだった。

ユジノサハリンスクの駅前に到着し、フリータイムとなる。

ユジノサハリンスクには、1996年に来たことがあるのだが、その時はソ連時代に建築した大きな駅舎であったが、現在はそれに変わってまあまあコンパクトな駅舎となっている。

そして、レーニン像は今なおあった。
そのレーニン像の下で、駅舎を1枚撮影する。

正直、夜のノグリキ行きの夜行列車の出発まで、かなり手持ち無沙汰である。
ちょっと、駅周辺を歩いてみようか。

ユジノサハリンスク駅の北側には、これまでに使っていた車両の展示館があった。

いかにも、日本から持ってきたような雪かき車や操重車である。

また、D51もあった。
ちなみに、樺太で使われていたD51は、ナンバープレートにハイフンがあるのが特徴的である。
それをそのまま「Д51」として使っていたわけだ。

さて、あちこち歩いて時間をつぶして行かなければいけない。

そして夕方となり、いよいよ出発の時刻となる。

先頭では、ディーゼル機関車が連結されようとしている。

1996年に来た時は、サハリンには各駅停車しかなくて、ノグリキに行くにもやはり各駅停車だった。

しかし、今回乗るのは「サハリン」号と言う急行列車である。

すっかり日が暮れてしまい、これからノグリキに向けて走っていく。

 

関連するエントリ(とシステム側で自動的に判断したもの)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です