かっこ旧姓

決死旅行の折も折、戦隊の女戦士がママ友になってまた悪を斬るのだそうで・・・

それも全員TRS48のメンじゃないですかっていう。
芳香ちゃんP)、ノノナナWB)、ジャスミンY)が全員「旧姓」。

ママ友が力を合わせて悪と戦っても、子供達のために五体満足で帰ってきてほしいですね。

さてさて、東山温泉の朝は廃墟見物から始まりますよ。

「これじゃ観光客を呼べない」とまで言われたという築142年の廃墟の近くの宿に泊まったものの、昨日到着したのは夜だったので朝改めて見ることに。
決モチームPみく

なぜ今回の決死モデルみくかというと、中の中の人が「東山」だからである。

それにしても見事な廃墟ぶりである。
明治初期に建てられた建物であってみれば、どこかに保存の動きは無いものだろうか・・・?
というか、東山温泉自体がもう廃墟だらけになっているようである。
今朝起きて窓から見える向かいのホテル(鉄サッシの推定1960年代建築)もどこの明かりもついておらず、営業している気配がない。窓脇に積んである布団が物悲しい。
いっそのこと、廃墟マニアを集めるような観光政策にしてはどうだろうか・・・?

ということで東山温泉雄の交通拠点である東山温泉
駅とは言ってもここはいわゆる「バス駅」で、会津バスの所有である。
国鉄バス以外で「駅」を名乗るバスターミナルはかなり珍しい。

ただし、ここに来るバスは「ハイカラさん」「赤べこ号」という、市内巡回バスだけとなってしまった。
逆に言うと、市内巡回バスでも十分回れる程度の距離しか離れていないということである。
札幌で言えば定山渓温泉、神戸で言えば有馬温泉ぐらいの位置づけだろうか。

さて、7時45分、ほぼ定刻通りに「赤べこ号」が来たので乗ることにする。

昨日乗ったえせレトロのボンネットバスの「ハイカラ号」と違い、赤べこ号は短尺ながら一般の路線バスがベースになっている。

乗客は自分1人だけ。
金曜日から東山温泉にバスで来る・・・という人はいないものだろうか。

今回会津若松から乗る郡山行きの快速は8:17発で、この赤べこ号の駅到着は8:10。
ちょっと渋滞でもあったらアウトというリスキーな乗車であったが、どうにか定刻に到着した。

会津若松は、1~3番線が櫛型になっており、事実上の頭端駅といっても差し支えない。
横須賀駅と一緒で、跨線橋のいらない構造となっている。

さて、郡山行き快速はE721系2両編成のワンマンである。
会津磐梯山を左手に見て快調に走る。
客の入りとしては、ボックスシートがほぼ埋まり相乗りが発生する程度となった。
同じ席になった中年夫婦は福島弁で会話していたが、
「あの『クハ』ってのが車両番号なの?」
「そうだろう」
「あれを言えば全国どこでも分かるの?」
「たぶんそうなんじゃないか」
という会話をしていた。鉄ヲタでもなければ、世の中の人なんてその程度の認識なのだろう。

郡山に到着。
程なくして同じホームの向かい側から、やはり同じE721系の福島行き普通列車が出発していった。
但し自分は今回は新幹線に乗るので、おそらくはすぐに追い抜くであろう。

ところで、郡山駅の新幹線ホームにはホームドアは無いのね・・・
決死モデル:チームPメイ

ちなみにメイ中の中の人は福島県出身。
郡山から福島まで、新幹線に乗る時間はものの10分強程度である。

程なくして福島に到着。
この列車は仙台行き「やまびこ」と新庄行き「すばさ」の多層建てなので、福島で切り離し作業を行う。
岡山駅のサンライズの時も感じたが、老いも若きも切り離し作業は大好きである。
決死モデル:チームRスマレ

さて、福島駅で降りて何をするかというと、これから保原や掛田へ行き、福島交通の路面電車の便を偲んでみたいと思うのである。

ここからは「事件現場を歩く」の世界となる。
福島交通の路面電車でも、過去に殺人事件が起きている。
それは昭和33年10月2日、ちょうど60年前のこととなってしまった。

昭和37年まで「福島電鉄」と呼ばれていた福島交通の路面電車は福島から梁川と掛田(霊山町)へ向かっていたが、その2路線が分岐するのが保原駅であった。
保原駅といっても現在の阿武隈急行の駅よりも市街地の中心にあったようである。

その保原駅のホーム上で女子高生が殺される事件が起きた。
犯人の少年はその女子高生の中学校時代の同級生であり、その殺した場所で悠々と煙草をふかし、すぐに現行犯逮捕された。
優等生だった女子高生に対し、その少年は教育に理解のない極貧の家庭に育ち、中学校にもほとんど行かず卒業後は各地で土工などをしていたようであるが、犯行当時は掛田の実家に戻ってきていたのだという。

中学校も碌に言っていなかった少年であったが、別の中学校の校長の娘であったその同級生に恋をしていた。
福島県犯罪史 第5巻」によれば、この事件が発生する数日前の9月下旬、たまたま同じ掛田行きの電車に乗り合わせ、少年は女子高生の隣に座ったらその女子高生は、それを避けるように向かいの席に移ったのだという。
正直これはきつい・・・ 少年はこの時点で、この恋をあきらめるべきだったのだ。
しかし「ストーカー」などという言葉が一般に出始めるのはその数十年後のこと。

ところで福島県は全国的に珍しく、「福島民報」「福島民友」と、県域紙が2つある。
福島民報は毎日系、福島民友は読売系というすみわけがなされているようで、ではこの事件を福島民友はどう報じたか。

やはり事件発生翌日の昭和33年10月3日には「保原で女高生殺し」と大々的に報じている。

そして驚いたことに、犯人の少年こそ実名は出ていないが、少年の父親の実名は出ているのである。つまり少年の下の名前までは分からないまでも苗字だけは分かるということ。皮肉にも本エントリのタイトルは「旧姓」である。少年は女子高生の苗字を「旧姓」にして自分の苗字を名乗らせたかったことだろう。しかしその時は永遠に来なかったのだ。
それにしても、さすがは「社会面の読売」と謳われた読売系の新聞というべきか、福島民友やることがエグい。
それも、取り調べの写真が載っているということ自体が現在では考えられないが、福島民友が少年法に配慮してか少年の顔に目線を入れているに対し、福島民友では目線すら入れていない。さすが読売系、他紙がやらないことを平気でやってのける。そこにシビれる憧れるゥ!

ちなみに「読売系」福島民友ばかりではなく、読売新聞そのものの福島版でもこの件は取り扱っている。
ただし民報・民友に比べ1日遅い10月4日の版での掲載である。

ニュースが遅くても「全国紙」であるということから、福島県内でもそれなりの需要があったのだろうか。
また、「読売系」である福島民友とシェアを奪い合うということについてどのように考えていたのであろうか。

掲載されている内容は、民報・民友と違って取り調べ風景は掲載しておらず、事件現場だけを掲載している。
また、毎日系の「民報」同様、ラッシュ時であることを見出しに報じている。
朝、同級生である女子高生と電車で出会った少年は、駅前の食堂で酒を飲みながら女子高生が返ってくる時刻まで暇をつぶしていたのである。そして「告白」のチャンスを伺っていた。

この読売で報じられている所では、
「俺をどういう人間に見る」
「あんたはすっかり変わった。自分の心に聞いてごらん」
まるで映画「太陽の季節」の登場人物が会話しているような風景である。

この電車も、事件から13年後の昭和46年に廃止になってしまった。
現在では同じ区間に福島交通のバスが走っており、鉄道も阿武隈急行が開通していることは周知の通りである。

福島駅東口2番乗り場から出る、上ケ戸経由掛田行きが、正に電車線の後裔とも言うべき系統となる。
福島駅から保原は、一直線で結ぶ月の輪台経由もあるが、やはり電車の足跡をたどることとしたい。

福島駅を出たバスは、駅前の大通りから左折して国道4号線に入り伊達長岡へと北進する。
国道4号線なので福島の市街地を出てしまうと、後はロードサイド地帯となり、パチンコ屋、中古車屋、ショッピングセンターが立ち並ぶ地帯となる。

さほど渋滞しているというようにも感じないが、今のままだと定刻には保原には到着できなさそうな雰囲気である。
そして伊達長岡で右折し保原へと東進する。

ここから先は全くの田園地帯であり、果樹園では桃の花が咲いている福島らしい風景となる。

そして家々が増え始め、市街地に入るとすぐに保原バスセンターとなる。
正にここが、事件の発生した保原駅となる。

保原バスセンターの構造は、電車が走っていた頃の保原駅とまったく同じ構造となっており、太い島式ホームの真ん中に駅舎があり、その北側が道路に面しており現在は福島・伊達長岡方面の乗り場、そして南側のこちら側が、掛田方面の乗り場となる。
事件はこの南側の乗り場で発生したのである。

事件を報じた各紙は、ホームを線路側から撮影していることが分かる。
軌道線の駅だけに、線路はホームから飛び降りても構わない程度には低かったのだ。
そう考えると、現在の都電荒川線のホームなんて、軌道線としてはかなり高いホームということになるだろう。

さて、事件発生後、メッタ刺しにされた女子高生は急遽近くの個人医院に運ばれて治療を受けたというが、その個人医院はそのまま残っていた。

ただし、玄関には張り紙がしてあり「この3月31日に閉院しました」ということであった。
閉院すれば早晩この建物は壊され更地となり、何らかの新しい建物が建つであろう。
その前にここに来る事ができたというのは、何かの導きだったのだろうか・・・?

余談ながら、福島県郡山市出身の友人によれば、この個人病院の苗字は福島県ではメジャーな苗字なのだそうな。

さて、この保原には、電車も保存してあるというので見に行ってみたい。
犯人の少年の一方的な恋も運んだであろうその電車である。

電車は、かつて保原町役場があった保原中央交流館に保存してある。
電車だけではなく、「福島県伊達郡保原町役場」という小さな筆字書きの瀬戸物の小さな表札を埋め込んだ門柱も保存してある。
郡名まで書いている所にも時代を感じる。

一時期話題になった福島電鉄1116号の車体は狭い。ナローゲージの花巻電鉄ほどではないにしても。
ロングシートではあるが車内の片側にしかなく、前後で互い違いに配置されているという構造である。
犯人の少年が座った座席、女子高生が逃げた座席はこんな感じだったのか・・・と思いをめぐらす。

さて、見るだけ見たら、今度は掛田へ行くことにしたい。
少年も女子高生も、掛田から保原に来ていた。

現在のバスの系統としては福島~保原~掛田が一つの系統で、梁川行きは掛田行きほど本数は無い。何もバスでなくても阿武隈急行が走っているのでさほど問題にもならないのだろう。

その福島から来る掛田行きのバスは、10分強遅れて保原に到着した。
そして掛田へ向かって出発する。

それにしても、掛田までの道のりは随分と激しいアップダウンを走る。
こんな所を電車が走っていたのだろうか。パーミル(‰)にするとどのくらいになるのだろう、短い距離とはいえ優に碓氷峠ぐらいはあるのではないだろうか。

そしてまた市街地に入り、現在でも電車の頃の駅舎が残っているという掛田に到着する。

それにしたって随分と「鉄道駅」の面影が残っているものである。よくぞ残してくれましたという感じ。

バス停名も「掛田駅前」のままとなっている。
車庫機能が無く、定期券や高速バスの乗車券の発売といった営業拠点に特化している保原バスセンターと違って、掛田駅には車庫機能があるようである。
それも、福島交通でも旧型となってしまったふそうエアロスターMが集中的に配備されている。

駅の正面に回ってみると、堂々とした旧字体で「掛田驛」と書いてある。
何から何まで、よくぞ残してくれたもので・・・

国鉄でも木造駅舎はまだまだ結構な数残っているが、それに匹敵する堂々とした駅舎である。
ただ、待合室に入ってみるとかなり小さい。
国鉄の駅と違って長距離客のいるわけでもない「電車駅」であればそれで十分、という考えだったのだろうか。

ところで、昨夜から今朝にかけて何を食べたのが悪かったのか下痢気味で、頻繁にトイレに駆け込まないといけない状態になっている。
掛田駅のトイレは、駅舎から離れた所にボットン便所があるが、なるべく使いたくない。。。と思ったがもう状態は急を要している。
仕方がないので入ったら、全然臭くない・・・
日本で一番清潔なボットン便所は、この福島交通掛田駅のトイレではないだろうかと思う程であった。
よほどこまめに清掃しているのであろう。

さて、ものの20分程度で掛田から保原へ折り返すことに。
ただし保原バスセンターではなく、阿武隈急行の保原駅である。

駅前には地元のライオンズクラブが設置した線量計が設置してあり、震災後の「福島の現実」を物語っている。
決死モデル:トルソーさんナイ

さて、昼になったので昼食としたい。
駅前には伊達鶏のラーメン屋があり、それなりに評判が良いようである。

自分が頼んだ「伊達鶏ラーメン」は、何と鶏のムネ肉が別の皿で出てきて、チャーシューのようにラーメンに入れるもよし、肉のままわさびに付けて食べるもよしという形になっている。
自慢の伊達鶏だけあって、なかなか美味であった。

さて、いい時間になったので保原駅へ行き、梁川方面の列車に乗ることとしたい。
次の梁川方面は14:09の富野行きである。

一度阿武隈急行を全線通しで乗ったことがあるが、福島口の列車が何本か終点にしている富野は、何の変哲があるわけでもなく、単なる掘割の中の交換駅という面持ちであった。
それとも、乗客(特に高校生)の動線上、宮城県境に近い富野までの系統を設けることが効果的、ということだったのだろうか。

さて、ものの30分弱で目的地であるやながわ希望の森公園前へと到着する。

さすがは日本で5番目に長い駅名だけあって、駅名標もロングサイズとなる。
決モチームTヤギー

決死モデルをここにヤギーを持ってきたということは、つまりここが今回の旅程の中でも最大の「鉄ネタ」ということになる。

このやながわ希望の森公園前の近くから、やながわ希望の森公園そのものへは、1日数本ミニSLが通っている。
別にどこで使っていたSLを流用したというわけでもなく、昭和62年に地元・・・とはいえ斯界ではかなり有名なメーカーである協三工業が新製したナローSLである。

駅舎に上がってみると、猫が数匹いる。
撫でてみても逃げるわけでもなく、人なれした猫である。
マタタビでもやろうかと思ったが、リュックの底から取り出すのは骨が折れるのと、SLの時間が迫っているのとで、これは戻ってきた時改めて、ということにした。

駅から線路を越えてすぐの所に、身にSLの乗り場がある。
客車も遊具サイズではあるが、大井川鉄道井川線ぐらいの大きさはある。
これまた昭和62年生であるが、ダブルルーフをかたどっているあたりが好感が持てる。

ところで、ディズニーランドのウェスタンリバー鉄道は「AからBを結ぶ鉄道」とはせずに、「AからAに戻る鉄道」とすることで鉄道事業法の適用を免れ、「遊具扱い」となったと仄聞する。
ではこのやながわ希望の森公園のミニSLはどうだろう? 完全に「AからBを結ぶ鉄道」になっているのだが・・・

そのあたりをWikipediaで調べると、

しかし、開通当時の日本の地方鉄道法(現・鉄道事業法)では、私有地内であっても2地点以上を結ぶ鉄道輸送は「鉄道事業」とされ、鉄道法規に基づき鉄道事業の免許を受けることや運賃ダイヤグラムの設定が義務付けられていたので、これを回避するため一駅のみの環状運転となった。もっともこれは当時の管轄陸運局(現:運輸局)によって運用の基準が曖昧で、東京陸運局は厳しく運用していた一方、名古屋陸運局(中部運輸局)では緩く、博物館明治村の蒸気列車や京都市電、修善寺虹の郷のロムニー鉄道は複数駅による移動手段であるが遊戯施設として許可されている。

・・・だそうで、どうもこの「当時の管轄陸運局(現:運輸局)によって運用の基準が曖昧で」というのが答えになりそうである。
当時の仙台陸運局は運用がユルユルだったということだろう。

さて、この「遊具扱い」のミニSLは石炭焚きの本格的なSLである。
桜やマンサクの花が咲く線路をものの10分弱走ると、やながわ希望の森公園の入り口である。
とは言っても、こちとらSLにさえ乗れればいいので踵を返して15時発の折り返し列車に乗ることにする。これが最終のSL列車となる。

遊具扱いの鉄道とはいえ、蒸気ボイラーには資格がいるようで、機関車の内部には免許状が貼ってある。
運転士はシルバー人材センターから雇用しているようだった。JRか阿武隈急行の運転士のOBであろうか。

そして両端の駅には転車台が設けられ、このように機回しして上りも下りも正位で折り返すことになる。
ちなみに車庫は西口・・・つまり阿武隈急行の駅側にあった。

後はもう帰るだけ、つまりフォロースルーとなる。
福島行きの発車は15:44なのでかなり時間があり、温かい駅の中で待つことにした。
やながわ希望の森公園前駅は、中で飲食店をやっているようであるが、この時は営業時間が終了していた。
やたらスルメの匂いがきつい待合室内には猫が数匹いた。さっきの猫である。
そして営業を終えた飲食店のオバサンが猫の世話をしているようだった。

聞くと、これらの猫は震災で相双の方からここまで連れてこられた猫なのだという。
合計で4匹いるが、それぞれ「かあちゃん(白黒♀)」「タマ(白黒♀)」「トラ(鯖トラ♂)」「クリ(茶トラ♂)」というのだという。
オバサンの目があり、なおかつ屋内だとマタタビをぶっかけるわけにもいかない。
こっそりマタタビを手に付けると、トラとクリがその手をなめだした。
オバサン曰く「トラはこれらの猫のリーダーで、新入りがエサに手を付けてもいじめたりしない」という。また、トラは交通事故で右前足を切断したのだという。その割には歩き方に違和感が無く、写真で見て初めて違和感に気づくというという程度であった。

発車時刻も近づき「何かの縁」ということで、五目おこわを頂いた。

あとはもう本当に帰るだけ。
やながわ希望の森公園駅は無人駅(それでも震災前までは有人駅だったのだそうな)であり、次の梁川から車掌が乗務したので、車内補充券を買うことになる。
決モトルソーさん霧島

それにしても「車内補充券」なんてのも久しぶりである。
それだけ、日本の鉄道・・・特にローカル線でワンマン化が進み、車掌というのが珍しくなっているということであろう。
福島では至る所に果樹園があり、桃の花が今を盛りと咲いている。

卸町を出て福島に近づくと、飯坂電車の線路が並走することになる。
向こうは駅間が短く、美術館図書館前(旧:森合)がこちらから見える。
それに対して阿武隈急行は鉄建公団が建設した国鉄規格の路線なので駅間は長い。

曾根田に近づくと、福島行きの飯坂電車と並走する状態となった。
電車の並走など、地方鉄道ではなかなか見ない風景であるが、仲良く福島駅に到着する。

飯坂電車と阿武隈急行は、福島駅のホームも共同で使っている。

そして福島駅の新幹線ホームへ。
福島駅の新幹線ホームは、大宮・仙台・盛岡のように在来線の直上にあるわけではなく、ほぼ別の敷地に渡り廊下のような通路でつながっている。確か一ノ関もそんな感じだっただろうか。福島では在来線の構内と新幹線の構内の間に駐車場があると言う程の間の空きようである。

また、福島の新幹線ホームは郡山同様、ホームドアが無い。
もっとも、福島も郡山も、通過する「はやぶさ」は、ホームのない中線を通り抜けていくのでホームドアなど必要ないのだろう。

今や福島からだとものの1時間強で大宮に到着する。
福島にも停車する「やまびこ」とはいえ、コンセントのあるE5系だったのでコンセントを使えばよかったが、ウツラウツラ寝てたらすぐに大宮についてしまったのである。

ここでの決死モデルは、中の中の人が大宮出身のチームTレナに登場願うこととしたい。

ちょうど夕食時でもあることとて、煮干しラーメンの「凪」で夕食としけこみたい。
昼も夜もラーメンというのは実にいつぶりだろうか。さすがに毛穴という毛穴から脂が染み出てくるようである。

そして駅内の喫茶店でこのエントリを編集する。

そしていい時間になったので、武蔵野線直通の「しもうさ号」に乗って帰ることといたしましょう・・・

ホームに警官がいたけど、何かあったのだろうか・・・?

 

関連するエントリ(とシステム側で自動的に判断したもの)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です